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第五章 温もり


【前回のあらすじ】

紗英は最初の三人の赤ん坊に拒まれ、自分を選ばなかった男たちの姿を重ねて、彼らを「正しい母のもとへ返した」。だが四人目の女の子だけは泣かず、彼女に笑いかけた。初めて誰かに「選ばれた」と感じた紗英は、その子を生かし、「灯」と名づける。

灯は、ミルクの匂いがした。

紗英は郊外に借りたマンスリーマンションの一室に、灯のための空間を作った。会社名義でも、自宅住所でもない、彼女個人が現金で契約した部屋だった。決まった時間に決まった量のミルクを与え、決まった順序で入浴させ、決まった音楽をかけて寝かしつけた。育児書を三十冊以上買い込み、専門家の論文にまで目を通し、手順を徹底的に最適化した。愛情ですら、彼女はマニュアル化しないと扱えなかった。それは彼女が唯一知っている、ものごとへの向き合い方だった。

最初の数週間、紗英は毎晩のように、仕事を終えてから部屋に通った。社用車は使わず、タクシーを乗り継ぎ、時には歩いて向かった。灯の体重の増え方、睡眠時間、便の色まで、彼女はノートに几帳面に記録した。それは誘拐犯の記録というより、どこまでも冷静な研究者の観察日誌だった。

それでも、夜、灯が彼女の胸に頬を押し当てて眠るとき、規則正しい呼吸と、小さな指先の熱が、彼女の内側の、ずっと凍りついていた何かを、少しずつ溶かしていった。

ある夜、灯が熱を出した。三十八度五分。紗英は初めて、自分の計画にない事態に直面した。病院に連れて行けば、身元を問われる。だが、放っておくこともできなかった。彼女は一晩中、冷たいタオルを替え続け、灯の小さな手を握りしめていた。

「……ちがう」

声に出して、自分でも何に対する否定なのかわからなかった。これは所有物のはずだった。奪った証明のはずだった。なのに、朝方、灯の熱が下がり、小さな寝息が戻ってきたとき、紗英は人目もはばからず涙を流していた。経営者として、誰の前でも涙を見せたことのない彼女が。

幻聴は止まり、石板はただの石に戻った。朝の役員会の合間に、紗英は何度も腕時計に目をやるようになった。灯の昼寝の時間だ、と頭の中で計算しながら。重要な商談の最中にも、彼女の意識の片隅には、常に灯の存在があった。

それは本物の母性だった。疑いようもなく、彼女の人生で初めて芽生えた、純粋な温もりだった。

そして同時に、それは鏡でもあった。この温もりを知るたびに、紗英の脳裏には、自分が「返した」三人の赤ん坊の顔が、否応なく浮かび上がった。もし、あの子たちにも、もう少し時間をかけていたら。もし、自分がもっと辛抱強かったら。

彼女はその鏡を、見ないことにした。今だけは。灯の寝顔を見ている間だけは、自分がしてきたことの重みから、目を逸らすことを自分に許した。

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