第四章 選ばれた子
【前回のあらすじ】
都内で乳幼児の連続失踪事件が発生し、特別捜査本部が設置された。息子を亡くした刑事・佐伯達也は、犯人が孤立した家庭を「選んで」いると見抜く。一方の紗英は、自社の育児データを使い、誰にも守られていない子供たちを冷静に割り出していた。
紗英は、最初の三人を「試験」だと考えていた。
一人目の男の子は、腕の中で激しく泣き、身体を反らせて、知らない女の腕から逃げようとした。二人目は、ただじっと天井を見つめ、母親の声を探すように小さく口を動かし続けた。三人目は、紗英の顔を見るなり火がついたように泣き出し、何時間経っても泣き止まなかった。
彼女はそのたびに、胸の奥が冷えていくのを感じた。
――あなたも、私を選ばないのね。
あの男たちと同じだった。「気が強すぎる」と言って去った大学時代の恋人。「君は完璧すぎて息が詰まる」と、結婚を考えていた相手に最後に言われた言葉。不妊治療の診察室で、何度も見た医師の困った顔。自分を選ばなかった、自分を望まなかった、すべての人間の顔が、泣き叫ぶ小さな顔に重なって見えた。
石板の声が囁いた。愛されない子は、正しい母のもとへ。
それが彼女の理屈だった。この子たちは、私を母として受け入れなかった。ならば、返すしかない。手元に置けば、自分の失敗の証拠がいつまでも残り続ける。それは敗北だ。だから、自分を選ばなかった子は、石板の「母」――あの古代の、子を持てなかった女神のもとへ返した。それは彼女にとって、慈悲のつもりだった。そう信じなければ、翌朝の役員会に出られなかった。
(その夜、具体的に何が起きたのか、紗英自身、記憶を整理して封じていた。彼女の頭の中では、それらの夜は「失敗したプロジェクトの終了」としてしか記録されていなかった。)
四人目の、生後八か月の女の子だけが違った。
親に長期間放置されていたその子は、全身の匂いが埃っぽく、肌には軽い湿疹が広がっていた。紗英が部屋に足を踏み入れたとき、その子はベビーベッドの柵を掴んで立ち上がろうとし、崩れるように座り込んだ。泣きもせず、ただじっと、入ってきた見知らぬ女を見つめていた。
紗英が抱き上げても、泣かなかった。ただ、小さな手が伸びて、紗英の頬に触れ、そのまま唇の端をつかんだ。
そして、笑った。
紗英は動けなくなった。マンションの一室、誰もいない深夜の静寂のなかで、彼女はしばらくの間、呼吸することすら忘れていた。
この子は、私を選んだ。
理由はいくつも挙げられた。すでに親の愛を知らず、他に比べる対象がなかっただけ。発達段階における人見知りの個体差。栄養状態の悪さからくる反応の鈍さ。彼女の頭は、冷静に、正確にそれらを理解していた。それでも、心は一つの結論だけを掴んで離さなかった。
生まれて初めて、誰かが、私を、選んだ。
だから生かした。慈悲でも母性でもなかった。少なくとも、最初はそうではなかった。それは、彼女のプライドが長年求め続けてきた「勝利の証明」だった。他の子供たちは彼女を否定し、拒絶した。この子だけが、彼女が敗者ではないと、たった一人の存在として保証してくれていた。
彼女はその子に「灯」と名づけた。闇の中で、唯一自分の方を向いてくれた、小さな光という意味だった。
その夜、紗英は灯を抱いたまま、書斎に戻り、石板を見つめた。牙を剥いた女の顔は、相変わらず何も語らなかった。だが、不思議と、もう獣の唸りは聞こえなかった。




