第三章 狩り
【前回のあらすじ】
社内の紗英は、時短勤務の母親を閑職へ追いやり、部下を公衆の面前で辱め、幸福そうな母親をSNSで陰から攻撃し、自分を捨てた男の評判を裏で落とすなど、笑顔のまま人を傷つけ続けていた。秘書の凛は、恐怖と憧れの間で彼女のそばを離れられずにいる。
都内で乳幼児が夜間に姿を消す事件が続いた。最初の一件は、世田谷区の古いアパートだった。母親がうたた寝をしている間に、生後五か月の男の子が消えた。窓には鍵がかかっていたが、ベランダ側の網戸が、何者かの手で丁寧に外されていた。
二件目は江東区。三件目は板橋区。報道が過熱し、四件目が発生した段階で、警視庁に特別捜査本部が立った。
佐伯達也は、その末席にいた。三十八歳。目の下に消えない隈があり、同僚からは「幽霊みたいな顔をしている」と言われていた。四年前、幼い息子を病気で亡くしてから、彼は子供の絡む事件になると、まともに眠れなくなった。
捜査会議で、佐伯は現場写真を何度も見返していた。
「変質者の線は薄いと思います」
本部長が顔を上げた。「根拠は」
「現場に乱れがない。どの家も、窓や鍵の扱いが妙に手慣れています。力ずくでも、慌てた痕跡もない。むしろ――犯人は、選んでいます」
「選んでいる、とは」
「被害家庭はすべて、育児放棄気味か、近隣との付き合いが薄い、孤立した世帯です。行政の見守りサービスの対象になっていない、もしくは利用を拒否している家ばかりです」
会議室がざわついた。別の捜査員が鼻で笑った。
「刑事の勘ってやつか。もっと具体的な線で動けよ」
佐伯はそれ以上言わなかった。だが、彼の手元の資料には、すでに五件の事件の共通項が赤いマーカーで印がつけられていた。育児支援アプリの利用履歴、地域の子育て支援センターの通知既読率、民生委員の訪問記録――それらすべてが「空白」になっている家庭ばかりだった。
誰が、そんな詳細な情報にアクセスできるのか。佐伯にはまだ、その答えが見えていなかった。
その頃、紗英は自社のオフィスの最上階で、データ部門から上がってくる無数の数字を眺めていた。彼女の会社は、全国の自治体と提携し、育児支援アプリを運営していた。通知の既読率、サービス利用の継続率、利用者の行動データ――それらは本来、より良いサービス改善のために集められたものだった。
だが紗英は、別の視点でその数字を見ていた。
地域ごとの空白。通知が何週間も開かれない世帯。アプリの利用履歴が途絶え、行政の訪問記録にも反応がない家庭。それらは、彼女にとって「誰にも守られていない子供たち」のリストだった。
会議では誰も気づかなかった。彼女が見ていたのが、経営指標ではなく、別の何かだということに。彼女のパソコンの画面には、常に二つのウィンドウが開かれていた。一つは役員会向けの四半期レポート。もう一つは、名前も住所も記されていない、ただの座標と空白期間のリストだった。
すべては、経営者としてのごく普通の業務の延長に見えた。リスクを洗い出し、手順を設計し、痕跡を消す。彼女にとって犯罪とは、精度の高いプロジェクトだった。深夜、彼女は自分の黒いセダンを運転し、監視カメラの死角を確認するために、候補となる地域を何度も下見した。社員たちは、それを「社長の夜のドライブ」程度にしか思っていなかった。
特別な力はいらなかった。必要なのは頭脳と資金と、揺らがない冷たさだけ。
最初の夜、彼女は震えなかった。震えたのは、腕の中に小さな重みが収まった、その後だった。
そして、失踪した子供たちは、誰一人戻らなかった。




