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第二章 意地の悪い女


【前回のあらすじ】

三年間「子供」という言葉を口にしなかった紗英は、会食で古美術商から、子を持てなかった女神が悪霊ラマシュトゥになったという伝承を聞く。彼女は匿名で石板を、意地になって法外な額で競り落とした。書斎に置いた夜から幻聴が始まり、それは「愛されない子は、正しい母のところへ行かなくちゃ」という声に変わっていく。彼女はそれを脳の疲弊と分析しながら、微笑んで受け入れ始める。

社内での紗英は、完璧な上司だった。そして、完璧に意地が悪かった。

産休明けで復職した女性社員・村井がいた。優秀なマーケターで、紗英自身が昔、目をかけていた人材だった。時短勤務を申請した彼女に、紗英は笑顔で言った。

「もちろん。大切な時期だもの。ただ、うちの重要案件は時間の融通がきく人にしか任せられなくてね。あなたのための配慮よ」

翌月の組織改編で、村井の席は倉庫に近い管理部門の隅になった。人事規程には一行も違反していない。むしろ書類上は「本人の希望に配慮した異動」として処理されていた。村井が抗議しようとしたとき、紗英は机の上に、彼女自身が過去に提出した「ワークライフバランスを重視したい」という旨の面談記録を、静かに差し出した。

「あなたの言葉よ。私は、その希望を叶えてあげただけ」

村井は何も言えずに頷いた。

会議では、若手社員の企画書に見つけた誤字を、全員の前で一文字ずつ読み上げた。「か」が「が」になっている、助詞が抜けている、そのたびに彼女は眉一つ動かさず、丁寧に、まるで教師のように指摘した。

「私、あなたのこと好きよ。だから言うの。嫌いな相手には、わざわざ教えてあげたりしないもの」

その言葉のあとで、若手社員が涙ぐむのを、紗英は満足げに見ていた。

公式の場では、彼女は常に「母親の味方」として振る舞った。育児支援サービスの広告塔として、幸福そうな母親タレントを自社のCMに起用し、「すべての母を応援します」というコピーに自らサインを入れた。

だが陰では、そのタレントのSNSの投稿を秘書に監視させ、育児と仕事の両立を謳う投稿の裏にある些細な矛盾――ベビーシッターに任せきりの時間、実家の援助の存在――を拾い集めさせ、匿名のアカウントから「綺麗事だけ」「恵まれているだけ」という指摘を拡散させた。タレントは精神的に追い詰められ、CM契約の更新を辞退した。紗英は表向き、それを残念がってみせた。

同窓会の招待状は、開封せず、破って捨てた。高校時代の友人たちの多くが、すでに子を持ち、母になっていた。彼女たちの近況報告を読む気には、どうしてもなれなかった。

かつて自分を「気が強すぎる」と言って去った男――大学時代に三年付き合った恋人――の結婚を、紗英はSNSで偶然知った。相手は、紗英よりずっと穏やかな、どこにでもいそうな女性だった。その夜、紗英は彼の勤める会社の取引先の役員に電話をかけ、事実だけを淡々と、しかし彼の評価が最も下がるであろう順番で伝えた。「彼が昔、私に対してどういう態度を取ったか」という事実を、感情を交えず、淡々と。数ヶ月後、彼の昇進は見送られた。

秘書の高村凛は、それを全部見ていた。見ていて、憧れていた。恐ろしいのに、この人に認められたくて、また同じ場所に戻ってきた。凛自身、学生時代からずっと「もっと優秀でなければ」というプレッシャーの中で育ってきた人間だった。紗英の完璧さは、凛にとって目指すべき地図のように見えた。

ある夜、残業明けのタクシーの中で、紗英はふと言った。

「凛。あなた、私に似ているわ」

凛は嬉しくて、震えた。胸の奥が、じんと熱くなった。誰かに「似ている」と言われたのは、初めてだった。

数日後、紗英は凛が徹夜で仕上げた新規事業の企画書を、役員会でそっくり自分の名前で発表した。拍手が起きた。凛はその場に同席していたが、誰も彼女の存在に気づかなかった。

会議後、凛が恐る恐る尋ねると、紗英は涼しい顔で答えた。

「あなたが私の後を継ぐには、まだ足りないところを見せてあげただけよ。悔しいなら、次は私より先に、役員の前で話せるようになりなさい」

凛は何も言えなかった。悔しさと、それでもまだ消えない憧れが、彼女の中でぐちゃぐちゃに絡み合っていた。

そういう女だった。他人を下に置かなければ、自分の高さを確かめられない女だった。そして、誰かを傷つけるたびに、ほんの一瞬だけ、紗英自身の中の渇きが満たされた――が、それは数時間も経たないうちに、また元の飢えに戻ってしまうのだった。

その夜も、書斎の石板の前で、彼女はひとり座っていた。獣の唸りに似た音が、静かに部屋を満たし始めていた。

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