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第一章 ラマシュトゥの石板


【前回のあらすじ】

IT企業を一代で上場させた間宮紗英(43)は、元モデルの美貌と冷徹な知性で「キャリアウーマンの星」と称賛される。だがその裏で、不妊治療の失敗という誰にも明かせない傷を抱え、他人を静かに踏みつけることでプライドを保っていた。

最後の治療から三年。紗英は、あの日から一度も「子供」という言葉を自分の口から出していなかった。社内の誰かが育休の話をするたび、彼女は表情を変えずに議題を次へ進めた。それは配慮ではなく、回避だった。

その夜、取引先の会長が主催する会食があった。都内の料亭、床の間には季節外れの椿が活けられていた。紗英は会長の隣に座らされ、形式的な世間話をこなしていた。

同席していた古美術商の老人が、少し酔った様子で、骨董の話を始めた。彼は日頃から、紗英の会社に投資用の美術品を紹介している男だった。

「間宮さんは、古代メソポタミアの遺物には興味がおありですか」

「存じ上げないわ。詳しく」

「夜に赤子を攫う女の悪霊がいましてね。ラマシュトゥという。古代の母親たちは、子供が病に倒れると、ラマシュトゥの仕業だと怖れたそうです」

隣の役員が笑った。「怖い話ですね」。老人は構わず続けた。

「面白いのは、その成り立ちです。一説には、ラマシュトゥはもともと、自分の子を持てなかった女神だったと言われています。子を持つ女たちへの嫉妬が、彼女を怪物に変えたのだと」

周囲が笑うなか、紗英だけが笑わなかった。箸を置く手が、一瞬だけ止まった。

「……持てなかった女神」

「ええ。可哀想な話ですよ。神であっても、持てないものは持てない。それが、人間の目には呪いに見えただけで」

老人はそう言って、興味深そうに紗英の顔を見た。紗英はすぐに笑顔を作り直し、「面白いお話ね」とだけ返した。会食はそれで終わった。

だが、帰りの車の中で、紗英はずっと同じ言葉を反芻していた。持てなかった女神。呪いに見えただけ。

翌週、彼女は秘書にも告げず、自分のタブレットから、ある小さなオークションハウスのサイトにアクセスしていた。国内ではほとんど無名の、中東美術の専門業者だ。カタログの中に、粘土板の写真があった。

ラマシュトゥを刻んだ石板。解説には「保存状態は良好だが、学術的価値は限定的。市場価値は低い」とあった。資産としては、話にならない代物だった。

紗英は匿名のアカウントで入札した。

開始価格は数万円だった。だが、どこかの誰かが競り合ってきた。相手が一万円上乗せするたび、紗英は倍額で返した。十万、三十万、五十万。社内の誰かがこの履歴を見たら、正気を疑っただろう。彼女自身、途中で「馬鹿げている」と思った。それでも、入札を止められなかった。

負けることが、許せなかった。たかが石板一つに。

最終的に、紗英は相場の二十倍近い額で競り落とした。落札メールの画面を見つめながら、彼女は小さく笑った。勝った、という感覚だけが、胸の中にあった。

数日後、丁寧に梱包された木箱が自宅に届いた。開けると、掌に収まる大きさの粘土板が現れた。牙を剥き、翼を広げた女の姿が刻まれている。乾いた土の匂いが、三千年の時間を超えて、紗英の指先に触れた。

図録の中で牙を剥く女の顔は、鏡の中の自分に似ていた。

理由を訊かれたら、彼女は「投資」と答えただろう。実際、顧問税理士にはそう説明した。本当の理由は、自分でもうまく言葉にできなかった。ただ、子を持てなかったという、ただそれだけの理由で、三千年前の人間が怪物に仕立て上げた女がいる。その女を、自分の手元に置いておきたかった。誰にも理解されない痛みを、自分以外にも抱えた誰かがいたのだと、確かめたかった。

書斎の棚に、石板を置いた。黒い大理石の本棚の、ちょうど目線の高さだった。

その夜、眠りの底で、紗英は赤ん坊の泣き声を聞いた。細く、途切れがちに、壁の向こうから響いてくる。目を覚ましても、声は消えなかった。耳を澄ますと、低い獣の唸りのような音が、泣き声の隙間を埋めていることに気づいた。

彼女は起き上がり、リビングを見回した。誰もいない。マンションの防音は完璧なはずだった。隣室に赤ん坊がいるとも思えない。

彼女は産業医に相談する代わりに、自分の脳を冷静に分析した。睡眠不足。慢性的なストレス。四十代に差し掛かったホルモンバランスの乱れ。幻聴の原因はいくらでも挙げられる。石板は呪いではない。ただの土くれだ。彼女はそう結論づけ、ベッドに戻った。

だが、翌晩も、その翌晩も、声は聞こえた。そして、声は少しずつ、言葉の形を取り始めた。

――かわいそうに。

――愛されない子は、正しい母のところへ行かなくちゃ。

紗英は目を閉じたまま、微笑んでいた。その微笑みが、恐怖からくるものなのか、それとも、ようやく自分を理解してくれる誰かに出会えた安堵からくるものなのか、彼女自身にも、もうわからなくなっていた。

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