序 完璧な仮面
「仕事も美しさも、すべて自分の実力でコントロールしてきました」
シャッターの音が続くなか、間宮紗英は涼やかに笑ってみせた。四十三歳。経済誌の表紙には「キャリアウーマンの星」の文字が躍っている。
撮影は三時間に及んだ。照明の位置、角度、口角の上げ方まで、紗英は自分でディレクションした。カメラマンが何度も「素晴らしいです」と呟いた。彼女にとってそれは賛辞ではなく、作業の確認にすぎなかった。
撮影後の控室で、若いスタイリストが緊張のあまりピンを一本落とした。紗英は拾わせなかった。
「あなた、名前は?」
「……あ、はい、木下です」
「木下さん。次の現場では、私の髪に触る前に、爪を切ってきてね。悪気がないのはわかっているの。だから直せるでしょう?」
微笑んだまま、声は優しかった。木下は青ざめて頭を下げ、それから二度と彼女の現場には呼ばれなかった。紗英は誰かを怒鳴ったことがない。怒鳴るのは品がないからだ。彼女は静かに、相手が一番傷つく場所を選んで、丁寧に踏む。
編集長が原稿の確認にやってきて、「特集のタイトル、『すべてを手に入れた女』でいかがでしょう」と言った。紗英は少し首を傾げた。
「悪くないけれど、『すべて』という言葉は使わないで。読んだ人に、私が噓をついていると思われたくないから」
編集長は意味を測りかね、結局「限界を知らない女」という無難なタイトルに落ち着いた。紗英はそれにも満足しなかったが、何も言わなかった。満足できるタイトルなど、この世にないことを、彼女はもう知っていた。
ビルを出ると、迎えの車が待っていた。窓の外では、ベビーカーを押す若い母親が信号を待っていた。母親はスマートフォンを片手に、もう片方の手でベビーカーを揺らしていた。赤ん坊は眠っているのか、泣いているのか、ガラス越しにはわからなかった。
紗英は視線を逸らさなかった。逸らせば負けだと、本気で思っていた。
車が発進すると、秘書の高村凛が、今週のスケジュールを読み上げ始めた。役員会、投資家向け説明会、雑誌のインタビュー、そして――凛が一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。
「あと、来週の木曜ですが、〇〇クリニックから、定期検診のご案内が届いています。いかがいたしますか」
「断って」
即答だった。凛はそれ以上訊かなかった。あのクリニックが何の病院なのか、凛は知らない。知らないまま、彼女は紗英の声の温度が一瞬だけ変わったことに気づいていた。
三年前、最後の不妊治療が終わった日のことを、紗英は誰にも話していない。医師は言葉を選びながら、「これ以上は、お身体への負担が大きくなります」と言った。紗英は「わかりました」と答え、会計を済ませ、エレベーターの中で化粧を直し、その足で取締役会に出た。会議では、誰よりも鋭く、誰よりも冷静に、四半期の数字を切り捨てた。
誰も気づかなかった。気づかせなかった。
それが彼女の強さであり、腐り始めた場所でもあった。
その夜、自宅のバスタブに浸かりながら、紗英は天井を見上げていた。マンションの最上階、五十畳のリビングを見下ろす窓の外には、東京の灯りが無数に瞬いていた。あの灯りの一つ一つに、誰かの家族がいる。誰かの子供が眠っている。
紗英にはそれがない。
持っているのは、株価と、称賛と、誰も踏み込めない完璧さだけだった。
「十分でしょう」
声に出して、自分に言い聞かせた。だが、バスタブの湯が波打つたび、彼女の胸の奥で、何かが小さく軋んだ音を立てていた。




