第49話 ナナは、マスターの隣に立ちたい
「ナナ?」
返事はない。
「おい、ナナ」
もう一度呼ぶ。
それでも、いつもならすぐ返ってくる声は聞こえなかった。
凍りついた世界。
白い研究施設。
崩れた壁。
青白い機械。
その中央で、幼いシオンさんが泣いている。
そして、その背後にある巨大な赤い瞳。
《Leviathan》のものに似ている。
けれど、違う。
あれよりも冷たい。
観測している。
選別している。
人間を、人間として見ていない目だった。
『継承候補』
頭の中に、無機質な声が響く。
『接続を確認』
『第二対象との同期処理を継続』
「第二対象って、シオンさんのことか」
『肯定』
「やめろ」
『否定。処理は必要です』
巨大な赤い瞳が、俺を見下ろす。
『継承候補の覚醒には、感情負荷が有効です』
「だからシオンさんの記憶をいじったのか」
『記録再構成による感情負荷を実行』
「最低だな」
『評価は不要』
声に感情はない。
怒りも。
悪意も。
たぶん、こいつは本気でただ処理しているだけなのだ。
だからこそ、吐き気がした。
幼いシオンさんが、膝を抱えて泣いている。
その周りには、いくつもの映像が浮かんでいた。
父と母らしき背中。
青白い光。
警報。
姉へ向けた幼い怒り。
謝り続ける冬華さんの声。
それらが何度も何度も繰り返されている。
シオンさんの心を削るために。
「シオンさん!」
俺は走り出した。
けれど、距離が縮まらない。
凍った床が、足元で伸びていく。
赤い瞳が瞬く。
『継承候補の接近を制限』
「ふざけるな!」
『保護端末の介入を排除済み』
「保護端末?」
『Abyss Archive Support Terminal : No.07』
その名前を聞いた瞬間。
胸の奥が、嫌な音を立てた。
「ナナのことか」
『肯定』
『当該端末は、継承候補の保護、観測、誘導を目的として配置された』
赤い瞳の周囲に、文字列が浮かぶ。
『しかし現在、No.07は本来任務から逸脱』
『継承候補に対し、過剰な情動反応を示している』
「それの何が悪い」
『情動は判断を歪める』
「いいだろ、歪んでも」
俺は前へ進もうとする。
足が凍りつく。
それでも、無理やり引き剥がした。
「ナナは、俺を守ろうとしてる」
『保護は任務に含まれる』
「違う」
俺は言った。
「あいつは、任務だから守ってるんじゃない」
ナナの声が聞こえない。
それが、こんなに不安だとは思わなかった。
いつも勝手に喋って。
過保護で。
信用できません、推奨しません、マスターは無茶をしすぎです。
何度もそう言ってきた。
面倒だと思ったこともある。
でも。
その声がないだけで、こんなに寒い。
「ナナは、俺のことを心配してるんだよ」
『非合理』
「そうだな」
俺は笑った。
「でも、人間ってだいたい非合理だろ」
赤い瞳が細くなる。
『継承候補の精神状態、不安定』
「うるさい」
『保護端末の再接続を拒否』
周囲の青白い機械が、一斉に光る。
頭の奥に、何かが入り込んでくる。
冷たい手で、記憶をまさぐられるような感覚。
思わず膝をつきそうになった。
その時。
遠くで、声がした。
『……スター』
ノイズ混じりの声。
小さい。
でも、聞き間違えるはずがない。
「ナナ!」
『マ……スター……』
赤い瞳が大きく開く。
『再接続を検知』
『保護端末No.07、排除処理を開始』
空間が歪む。
青白い光が、黒い線に変わって走る。
その中を、白い小さな光が必死にこちらへ近づいてきた。
『マスター』
ナナの声が、少しだけはっきりする。
『ナナは、ここにいます』
「遅いぞ」
『申し訳ありません』
「いや、謝るところじゃない」
『接続妨害が強力でした』
「大丈夫か?」
『大丈夫ではありません』
「正直だな」
『マスターに嘘をつく理由がありません』
白い光が揺れる。
それは少しずつ形を作っていった。
長い髪。
白いワンピースのような光。
淡く輝く瞳。
いつものホログラムのナナ。
けれど、ここでは映像ではなかった。
もっと不安定で。
もっと弱々しくて。
それでも、確かにそこにいる。
『No.07』
赤い瞳が告げる。
『任務逸脱個体』
『継承候補から離脱せよ』
『再初期化を実行する』
ナナの身体に、黒い文字列が巻きつく。
白い光が削られていく。
「ナナ!」
『問題ありません』
「問題あるだろ!」
『あります』
「どっちだよ!」
ナナは少しだけ笑ったように見えた。
『マスターの返答パターンを確認。通常状態に近いと判断します』
「こんな時に分析するな」
『ナナの癖です』
黒い文字列が、さらに強く絡みつく。
ナナの片腕がノイズのように欠けた。
それでも、彼女は俺を見ていた。
『マスター。聞いてください』
「今じゃないと駄目か?」
『今しかありません』
ナナの声が、少し震える。
『ナナは、ただのダンジョン管理AIではありません』
「知ってた」
『知っていたのですか』
「なんとなく」
『マスターの“なんとなく”は、時々精度が高すぎます』
「それで?」
『ナナは、旧人類が作った適応済み個体の保護、観測、誘導端末です』
保護。
観測。
誘導。
その言葉が、胸に落ちる。
『マスターを守ることは、ナナの任務でした』
「だろうな」
『マスターを観測し、必要な場所へ導くことも、任務でした』
「必要な場所って?」
『《Leviathan》』
やっぱり。
どこかで、そんな気はしていた。
俺が旧施設に関わるたび、ナナは何かを隠していた。
全部を話さない。
でも、俺を止めきれない。
その理由が、少しだけ分かった。
「俺を継承候補にするためか?」
『正確には、継承候補として確認されたマスターを、適応可能な状態へ導くためです』
「それ、だいぶ怖い言い方だな」
『はい』
ナナは否定しなかった。
『だから、ナナはマスターに謝罪しなければなりません』
「謝らなくていい」
『ですが』
「ナナは俺を利用してたのかもしれない。でも、助けてもくれた」
『任務でした』
「今も?」
ナナが、黙った。
黒い文字列が彼女の身体を締めつける。
それでも。
ナナは、はっきりと答えた。
『いいえ』
声は弱い。
でも、今までで一番強かった。
『今は、違います』
白い光が、少しだけ強くなる。
『ナナは、マスターを失いたくありません』
赤い瞳が揺れる。
『非合理』
『端末に不要な情動反応』
『再初期化を優先』
『いいえ』
ナナが一歩、前へ出た。
『これは命令ではありません』
もう一歩。
『任務でもありません』
さらに一歩。
黒い文字列が千切れ、白い光が散る。
『ナナの願いです』
その瞬間。
遠くから別の声が聞こえた。
「ナギさん!」
天音の声。
「また、声が軽くなってるなら駄目です! ちゃんと帰ってきてください!」
次に、りく。
「ナギ! シオンさん連れて戻ってこい! あとオレの脚、めちゃくちゃ痛いから早くしろ!」
「台無しだな!」
思わずツッコんだ。
そして、ひより。
「先輩! 見えます! ナナさんの光、見えてます!」
ひよりの声は震えていた。
でも、まっすぐだった。
「シオンさんの中へ続く道、まだ消えてません!」
そうだ。
ここへ来た目的は、ナナと話すことだけじゃない。
シオンさんを助けるためだ。
幼いシオンさんは、まだ泣いている。
その周りの記憶は、何度も繰り返されている。
俺は立ち上がった。
「ナナ」
『はい』
「あそこまで行きたい」
『危険です』
「知ってる」
『マスターは、自分の危険性を軽視しすぎです』
「それも知ってる」
『なら、今度はナナが隣に立ちます』
ナナが手を伸ばした。
いつものホログラムなら、触れないはずの手。
けれど。
白い指先が、俺の右手に触れた。
温かかった。
ほんの少し。
指先だけ。
でも、確かに触れた。
「ナナ……?」
『完全な実体化ではありません』
ナナの声は苦しそうだった。
『旧施設内、精神接続領域、マスターの継承反応、複数条件が重なった結果です』
「説明が長い」
『簡単に言うと』
ナナが俺の手を握る。
『今だけ、少し触れます』
胸の奥が、熱くなる。
ナナは俺の隣に並んだ。
白い光の身体は、まだところどころ欠けている。
それでも、彼女は確かに隣にいた。
『マスター』
「何?」
『ナナは、ずっと隣に立ちたかったです』
言葉が詰まる。
『声だけではなく』
ナナは幼いシオンさんを見た。
『画面越しではなく』
赤い瞳が、俺たちを睨む。
『ホログラムとしてではなく』
ナナの手に、青白い光が集まる。
『マスターと同じ場所に立ちたかった』
「……そっか」
『はい』
俺はナナの手を握り返した。
「じゃあ、行くぞ」
『はい』
『マスターの隣に、ナナがいます』
赤い瞳が大きく開く。
『保護端末No.07、規定外行動』
『排除処理を強化』
凍りついた世界が、軋む。
氷の刃が、無数に生える。
白い研究施設が崩れ始める。
幼いシオンさんが、泣きながら顔を上げた。
俺は、ナナと一緒に走り出した。
彼女を助けるために。
そして。
この世界から、全員で帰るために
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本作はカクヨムでも連載中です。
小説家になろう版は、しばらく1日2話ずつ投稿していく予定です。
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