あるいは模範的な姉
姉が来てから、四日目の朝のことだった。
居間の食卓でトーストを齧りながら、母がふと思い出したようにおさがりのTシャツを着た姉を見た。
「そういえば、お姉ちゃん。着替え、さすがに足りないでしょ。いつまでもお下がりじゃ可哀想だわ」
母の言葉は、まるで「醤油が切れそうね」と言うのと同じくらいの軽さだった。
姉が大きな鞄一つ持たずにこの家に現れたこと。下着から何から、すべて母や私の古いものを使い回していること。その異常な状況を、母は単なる「準備不足」として処理しているようだった。
「あら、私はこれで十分ですよ。動きやすいし、なんだか落ち着くんです」
姉は、少し首元の伸びたグレーのTシャツの裾をいじりながら微笑んだ。彼女が着ると、そんな安物の綿シャツでさえ、どこか洗練された部屋着のように見えてしまうから不思議だった。
「ダメよ、年頃の女の子が。……そうだ、あんた。今日、部活休みでしょ? お姉ちゃんを駅前のモールまで連れて行ってあげなさい。お母さん、仕事で行けないから」
母は使い古された財布を取り出すと、そこから一万円札を二枚抜き出し、私の前のテーブルに置く。
「これでお姉ちゃんの服、何枚か選んであげて。余ったら二人で何か美味しいものでも食べてきなさい」
私は置かれた札をじっと見つめた。
母がこんなに気前よく現金を渡すことなんて、正月くらいしかない。その金がどこから湧いてきたのか、あるいは家計のどこを削ったものなのかを考えると、少しだけ背筋が寒くなった。
明らかに姉の方が年上なのに、私に服を選ばせようとしているのにも、連れて行ってあげてという表現にも違和感を感じた。姉にお金を渡して一人で行かせるという選択肢がまるでないような母の顔には「家族のために良いことをした」という満足気な笑みが浮かんでいるだけだった。
「……わかったよ」
私は、まだ折れ目のついていない2枚の札を財布にねじ込んだ。
隣を見ると、姉が少し困ったような、それでいて嬉しそうな顔で私を見ていた。
「いいのかしら。あなたの貴重な休みを、私に使わせちゃって」
「別に。暇だし。……行こう。バス、すぐ来ちゃうから」
外に出ると、大気が白く濁って見えるほどの猛暑だった。
アスファルトからはね返る熱気が、全身をじりじりと焼く。蝉の声は、もはや音というよりは物理的な圧力となって、頭の上からのしかかってくるようだった。
バス停までの短い道のりを、私たちは数歩離れて歩いた。
姉は、母が貸したという麦わら帽子を深く被っている。風が吹くたびに、白いワンピースの裾がひらひらと舞い、彼女の歩いた跡には、陽炎の代わりに涼やかな影が残るような気がした。
バス停のベンチに座っていても、彼女は一切汗をかいていないようだった。
私は首筋を流れる汗を何度もハンカチで拭っていたが、隣の彼女は、ただ静かに、遠くの山を眺めている。
「バスに乗るの、久しぶりだわ……」
「……そうなの?」
「ええ。なんだか、遠足に行くみたいで緊張する」
彼女はそう言って、私にだけ聞こえるような小さな声でクスクスと笑った。
その笑い声は、真昼の静寂の中に吸い込まれていった。彼女がどこから来たのかを考えようとすると、頭の芯が急に重くなる。だから私は考えるのをやめて、遠くから近づいてくるバスのエンジン音に意識を集中させた。
しばらくすると、熱気をかき分けるようにして古いバスがやってきた。
ドアが開くと、中から冷房の乾いた空気が溢れ出し、一瞬だけ人心地がついた。
夏休みの平日の昼下がり。
バスの中は閑散としていて、数人の老人がうたた寝をしているだけだった。私たちは一番後ろの席に並んで座った。
バスが走り出すと、窓の外を緑の濃い田園風景が飛ぶように過ぎ去っていく。
振動に合わせて、彼女の肩が私の肩に時折、軽く触れた。
Tシャツ越しに伝わってくる彼女の体温は、やはり周囲の熱気とは切り離されたように、ひんやりとしていた。
「ねえ、あのお花、綺麗ね」
彼女が指差した先には、道端に咲き乱れる百日紅があった。
「……百日紅だよ。夏の間、ずっと咲いてるんだ」
「百日紅。……綺麗な名前。あなたは、物知りなのね」
彼女は、私の何気ない答えを一つ一つ大切に噛みしめるようにして、何度も頷いた。
彼女は私の学力も、趣味も、家族構成以外のほとんどのことを知らないはずだった。けれど、車窓を流れる景色について私が一言話すたびに、彼女はまるで世界の秘密を教わったかのような、純粋な眼差しをこちらに向けた。
模範的な姉として振る舞おうとする彼女と、何も知らない子供のように世界を眺める彼女。
その矛盾が、バスの揺れとともに私の心の中にゆっくりと沈殿していく。
街へ近づくにつれ、建物は高くなり、道路は広く複雑になっていった。
彼女は窓際の席で、その変化をじっと見守っていた。
終点の駅前ロータリーに降り立つと、アスファルトの熱気が逃げ場を失ったように渦巻いていた。バスの中の冷房で冷え切った身体には、その湿った熱は膜のようにまとわりついてくる。
私たちは駅に直結した大型のショッピングモールへと逃げ込むように入った。自動ドアが開いた瞬間、人工的な涼風が吹き抜け、肌の表面をなぞる。
モールの中は、夏休みを楽しむ家族連れや中高生で賑わっていた。
色とりどりの広告、絶え間なく流れる軽快なBGM、そして至る所から漂ってくるベーカリーやコーヒーの匂い。彼女は一歩足を踏み入れたところで、ふと立ち止まり、吹き抜けの天井を見上げた。
「……すごいわね。こんなにたくさんの人が、一度に動いているなんて」
「この駅で一番大きな建物だからね。夏休みだし、みんな涼みに来てるんだよ」
「そう。なんだか、大きな水槽の中にいるみたい」
彼女はそう言って、眩しそうに目を細めた。
人混みに慣れていないのか、あるいは初めて見る景色なのか。彼女は私のシャツの袖を、はぐれないようにと軽く指先で掴んだ。その力加減はひどく慎ましやかで、私が一歩踏み出せばすぐに解けてしまいそうなほどだった。
私たちは婦人服のフロアへと向かった。
明るい照明に照らされた店内には、夏物のワンピースやサンダルが整然と並んでいる。彼女はそれらを興味深そうに眺めていたが、自分から手に取ろうとはしなかった。
「……何がいい? 母さんは、適当に何枚か選んでこいって言ってたけど」
「そうね。……あなたはどういうのがいいと思う?」
「僕? 僕に聞かれても、女の人の服なんてわかんないし」
「いいのよ。あなたがに着てほしいと思うものを選んでみて。それが一番の正解だと思うから」
彼女は悪戯っぽく笑って、私を棚の前へと促した。
模範的な姉として振る舞う彼女は、自分の好みよりも「弟からどう見られたいか」を優先しているようだった。
私は困惑しながらも、ハンガーに掛かった服を眺めた。フリルのついた可愛らしいものや、流行りの短い丈のもの。どれも彼女のイメージには合わない気がした。
ふと、淡い生成り色のリネンのシャツが目に留まった。シンプルで、飾りがなくて、けれどどこか品がある。
「……これとか、いいんじゃないかな。涼しそうだし」
「リネンね。素敵だわ」
彼女はそれを受け取ると、鏡の前で自分の身体に当ててみた。
鏡の中に映る彼女は、周囲の喧騒から切り離されたように静謐で、やはりどこか浮世離れしていた。店内の明るいライトを浴びているはずなのに、彼女の肌は透き通るように白く、影の落ち方が少しだけ不自然に深く見える。
「これにするわ。それと、洗い替えに紺色のスカートも」
彼女の決断は早かった。
試着室に入ることもなく、サイズを鏡越しに確認するだけで決めてしまう。自分の身体の寸法を正確に知っているというよりは、どんな服であっても自分の形に合わせてしまえるような、そんな奇妙な自信さえ感じられた。
会計を済ませ、新しい服が入った紙袋を受け取ると、彼女はそれを大切そうに胸に抱えた。
「ありがとう。……これを着て、またあなたとどこかへ行きたいわ」
エスカレーターを下りながら、ガラス張りの壁に映る自分たちの姿を見た。
背の高い、美しい女性と、その隣を歩く少年。どこからどう見ても、仲のいい姉弟にしか見えないはずだ。けれど、鏡面の中の彼女とふと目が合った瞬間、私は言いようのない眩暈に襲われた。
彼女の瞳には、感情の代わりに、鏡のような静けさが宿っていた。
姉は、自分の好みを一切語らず、ただ私に寄り添うことだけを選び取る人だった。




