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永遠に続けばいいのに

 八月に入り、夏休みはいよいよその深さを増していった。

 天気予報を見ても、そこにあるのは「晴れ」のマークと、容赦のない気温の数字ばかりだ。連日の猛暑は、庭の雑草を狂ったような勢いで成長させ、一方で人間たちの気力をじりじりと削り取っていく。

 そんな茹だるような午後のことだった。

 私は居間の網戸を閉め、古い扇風機の首振りに合わせて、床の上をごろごろと転がっていた。

「……あんた、そんなところで寝てないで、少しは庭の手入れでもしなさいよ」

 キッチンで麦茶の用意をしていた母が、呆れたような声を出す。

「こんな暑い日にやることじゃないよ......」

 そうは言いながらも、何もしないでダラダラすることに少し罪悪感を抱いていたので、母の言葉に私は重い腰を上げた。

 縁側へ向かうと、そこには先日モールで買ったばかりの、生成り色のリネンシャツを着た彼女が立っていた。

 彼女は眩しそうに目を細め、庭の隅に咲き誇る向日葵を見つめている。彼女がそこに立っているだけで、熱を孕んだ湿った風さえも、どこか高原のそよ風のように清涼なものに思えてくるから不思議だった。

「お姉ちゃん。……母さんが、草むしりしろって」

 声をかけると、彼女はゆっくりとこちらを振り返った。

「草むしり? ええ、いいわね。土の匂いを嗅ぐのは、嫌いじゃないわ」

 彼女は、私の返事を待たずに縁側から庭へと降りた。

 私は慌てて自分の麦わら帽子と軍手を手に取り、彼女の後に続いた。

 一歩外へ出ると、暴力的なまでの陽光が全身を刺してきた。

 足元の土は乾ききって白く、踏むたびに微かな砂埃が舞う。けれど、彼女が歩く先々では、不思議と熱気が和らいで見えた。

「ねえ、これ。抜いていいの?」

 彼女は、向日葵の根元に蔓延はびこる緑色の草を指差した。

「ああ、それは雑草。根っこから抜かないと、またすぐ生えてくるんだよ」

「根っこから……。生命力が強いのね」

 彼女は、教えられた通りに腰を下ろし、慣れない手つきで草を掴んだ。

 彼女の指は相変わらず白く、土で汚れるのが勿体ないほどに綺麗だった。けれど、彼女はそれをいとう様子もなく、黙々と手を動かしていく。

 彼女は私に、「学校の勉強はどう?」とか「進路はどうするの?」といった、大人が子供に向けがちな質問は一切してこなかった。ただ、抜いた草をまとめるために私の手元へと寄せてくる。

 その沈黙が、今の私には何よりも心地よかった。

 彼女は私の内側を暴こうとはしない。ただ、この暑い午後を、共有することだけを選んでいる。その徹底した「姉」としてのスタンスが、私の中にある孤独の棘を、一つずつ丁寧に抜いていってくれるような気がした。

「……暑くない?」

 私は、首筋を流れる汗を拭いながら尋ねた。

「ええ。少しだけ、身体が軽くなった気がするわ。光を浴びるのは、悪いことじゃないのね」

 彼女はそう言って、立ち上がり、空を見上げた。

 その瞬間、彼女の細い指先が、空に浮かぶ太陽をなぞるように動いた。

 指の間から漏れる強烈な光が、彼女の肌を透過して、まるで彼女自身が発光しているかのような錯覚に陥る。彼女は、その暴力的なまでの光を恐れることもなく、むしろ慈しむように、指先で光の粒を弄んでいた。

 その横顔があまりにも神聖で、私は草を掴んだまま、しばらく言葉を失って彼女を見つめていた。

 彼女は私の視線に気づくと、ふっと視線を落とし、今日一番の穏やかな笑みを浮かべた。

「さあ、もう少しで終わりそうね。これが終わったら、冷たい麦茶でも飲みましょう」

 庭仕事の仕上げに、私は外の水道の蛇口を全開にした。

 勢いよく飛び出した水がコンクリートの叩きに当たって白く弾け、瑞々しい匂いがあたりに広がる。私は軍手を放り出し、泥と草の汁で汚れた手を突っ込んだ。真夏の太陽に焼かれた身体にとって、冷たい水道水は、痺れるような快感だった。顔を洗い、首筋に水を叩きつけると、脳の奥までこびりついていた熱がようやく引いていく。

「お姉ちゃんも、洗いなよ。土、ついてるし」

 隣を見ると、彼女は自分の手を見つめて立ち尽くしていた。白い指先に、黒い土の筋がついている。彼女はそれを汚らわしいものを見る目ではなく、まるで初めて手に入れた宝石の欠片を見るような、不思議に慈しむような眼差しで見つめていた。

「ええ、そうね」

 彼女が屈み込み、細い手を水の流れの中に差し入れた。

 水が彼女の肌をなぞり、土を押し流していく。彼女の肌は水に濡れると、陶器というよりは、磨き上げられた滑らかな小石のように、しっとりとした光沢を帯びた。

「冷たいのね。気持ちいい」

 彼女は子供のように無邪気な声を上げた。その様子があまりに自然で、私は彼女が突然現れた謎の存在であることを、またしても忘れそうになる。

 居間に戻ると、扇風機の回る低い音が迎えてくれた。テーブルの上には、大皿に山盛りにされた西瓜が並んでいる。真っ赤な果肉に、黒の種。そのコントラストが、いかにも日本の夏といった趣で、清涼感があった。

「二人ともありがとね、西瓜切ったから食べなさい。今年のは甘いって八百屋さんが言ってたわ」

「ありがとうございます、お母さん。……いただきます」

 彼女は、慣れない手つきで西瓜の端を摘み上げた。

 彼女は、西瓜の食べ方さえ「学習」しようとしているように見えた。私が皮のギリギリまで齧るのを見て、彼女もそれを真似る。私が種を皿の端に吐き出すのを見て、彼女もそれを真似る。

 その動作のひとつひとつが、模範的な姉であろうとする彼女の健気な努力のようにも、あるいは、人間の真似事を楽しんでいる無垢な生き物のようにも見えた。

「……甘い」

 彼女は、少しだけ驚いたように呟いた。

「そう?」

「ええ。甘くて、少しだけ切ない味がするわ。……夏って、こういう味なのね」

 彼女の表現は、時折、私には少し難解だった。

 けれど、西瓜を頬張りながら外を眺める彼女の横顔は、これ以上ないほどこの家に馴染んでいた。

 ふと、一匹の大きなアゲハ蝶が、庭の向日葵の周りを優雅に舞い始めた。彼女はその動きを目で追い、西瓜を持つ手を止めた。

「ねえ、あの蝶はどこへ行くのかしら」

「さあ……。花の蜜を探してるんじゃないかな」

「それとも、夏が終わる前に、どこか遠い場所へ逃げようとしているのかしら」

 彼女の言葉に、私は胸の奥が少しだけチクリとした。

 夏が終わる。そんなことは、まだ八月の初めなのだから考える必要もないはずなのに、彼女が口にすると、それは避けられない宣告のように重く響いた。

「逃げる必要なんてないよ。ここにいればいいんだし」

「そうね。ここにいられたら、どんなにいいでしょうね」

 彼女はそう言って、もう片方の手で私の頭をゆっくりとなぞるように撫でた。

 彼女の手は、西瓜よりもずっと冷たくて、それなのに触れられた場所からは、不思議と柔らかな熱がじんわりと広がっていった。

 彼女は私の髪を整え、額にかかった汗を優しく拭ってくれる。その動きは、弟を慈しむ理想の姉そのものだった。

 私は、その完璧な「姉弟」という形の中に、自分をまるごと閉じ込めてしまいたかった。

 食べ終えた西瓜の皮が、大皿の上に重なっている。赤い部分をほとんど残さないほど綺麗に平らげられたそれは、この午後の平和な戦果のようにも見えた。

 母は「少し横になるわ」と言って、奥の自室へ引っ込んでいった。開け放たれた縁側からは、熱を含んだ風が通り抜け、風鈴が時折「チリン……」と、頼りなげな音を立てる。

 満腹感と、先ほどまでの庭仕事の疲れ。それらが心地よい重みとなって、私の瞼にのしかかってきた。畳のい草の匂いが鼻先をくすぐり、意識がゆっくりと遠のいていく。

「……眠いの?」

 隣から、彼女の低い声が聞こえた。

「……少しだけ。外が暑すぎたから」

「いいわよ、寝ても。私がここにいてあげるから」

 彼女は、私の頭のすぐそばに座り直した。彼女の膝が私の肩に触れ、そこからじんわりと、いつもの心地よい冷気が伝わってくる。私は抗うのをやめて、目を閉じた。

 視界が暗くなると、他の感覚が鋭敏になる。

 庭で鳴き続ける蝉の声。遠くを走る車の走行音。そして、私のすぐ隣で繰り返される、彼女の静かな呼吸。

 ふと、眩しさを感じて薄目を開けた。

 彼女は、縁側から差し込む強烈な西日を、手のひらで受け止めるようにかざしていた。

 指と指の間から漏れた光が、彼女の白い肌を透かし、まるで血管の一本一本までが光の糸で編まれているかのように輝いている。彼女はその光を、まるで実体のある絹糸か何かのように、指先で器用に弄んでいた。

 光を掴もうとしているのか、あるいは、光をほどこうとしているのか。

 彼女の指の動きに合わせて、畳の上に落ちる影が複雑に形を変える。それはどんな精巧な手品よりも美しく、それでいて、今この瞬間にしか存在し得ない儚さに満ちていた。

「ねえ」

 彼女が、顔を伏せたまま囁いた。

「……なに」

「太陽って、こんなに温かかったのね。ずっと、遠くにあるだけの冷たい星だと思っていたわ」

「……そんなわけないじゃん。太陽がないと、向日葵も咲かないし、俺たちも生きていけないよ」

「そうね。あなたの言う通りだわ」

 彼女は手を下ろし、私の額に再びその冷たい指を置いた。

 光をたっぷりと浴びたはずの彼女の指は、驚くほどひんやりとしたままだった。その温度差が、私の意識を現実と夢のちょうど中間に繋ぎ止める。

 この時間が、ずっと、ずっと、永遠に続けばいいと思った。

 母がいて、私がいて、お姉ちゃんがいる夏休み。

 外の世界では、時間が残酷な速度で過ぎ去り、季節は確実に秋へと向かっている。けれど、この古い木造の家の中だけは、彼女が指先で弄ぶ光の中に閉じ込められて、どこへも行かずに留まってくれているような、そんな気がした。

「おやすみなさい。……明日も、明後日も、私はここにいるわ」

 彼女の囁きは、風鈴の音よりも優しく、私の耳の奥に溶け込んでいった。

 私は深い眠りに落ちる直前、彼女が再び光に向かって手を伸ばすのを見た。その指先で踊る光の粒は、まるで彼女にだけ許された秘密の遊び道具のようだった。


 姉は、太陽の光を指先で弄ぶのが上手な人だった。

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