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それが同じ静寂でも

 夏休み二日目の朝も、やはり暴力的な蝉の声で始まった。

 網戸のすぐ向こう側で、何百匹という蝉が一斉に命を削り合っているような、騒々しい朝だった。ぼんやりとした意識の中で、私はふと、隣に手を伸ばした。

 けれど、そこにはもう、誰もいなかった。昨夜、私の肩をゆっくりと叩いてくれたあのひんやりとした指先の感触も、シーツ越しに伝わってきた確かな重みも、跡形もなく消えている。

 指先が触れたのは、すでに体温を失って冷めたシーツだけだった。枕に残った僅かな窪みが、彼女がそこにいた唯一の証拠のように見えた。

 心臓が嫌な跳ね方をする。

 昨日起きたことは、すべて孤独な自分が熱に浮かされて見た夢だったのではないか。目が覚めれば、また母との二人暮らしに戻っているのではないか。

 その不安に突き動かされるように、私は湿り気を帯びたシーツを足で跳ね除け、部屋を飛び出した。廊下を走る足音が、古い木造の家に低く、せわしなく響く。

 台所の手前まで来ると、昨日と同じ音が聞こえてきた。

 ガスの点火音。続いて、フライパンの上で何かが弾けるジリジリという音。お湯が沸騰して蓋がカタカタと鳴る音。

 それらの音が、私の焦燥を少しずつ鎮めていく。

 リビングに入ると、そこには昨夜と変わらない光景があった。食卓には三つの椅子が引かれ、母が雑誌を広げながら湯呑みを口に運んでいる。そしてキッチンには、少し丈の短いTシャツを着た彼女がいた。それは私がお下がりでもらって、今はもう部屋着にしていたTシャツだった。

「おはよう。よく眠れた?」

 彼女が肩越しにこちらを振り返った。

 短い髪を耳にかけ、薄く微笑むその姿は、中学生の私が憧れる「大人びた姉」そのものだった。彼女の瞳には、昨夜同じ暗闇を共有したことへの気恥ずかしさなど微塵もなく、ただ清々しい朝の光が宿っている。

「……おはよう」

 私は壁に手をつき、乱れた息を整えながら答えた。

「お姉ちゃん、朝から手際がいいのよ。おかげでお母さん、今日はゆっくり準備ができるわ」

 母は雑誌から目を上げ、満足そうに目を細めた。その表情には、やはり一点の曇りもなかった。昨日まで二人きりで暮らしていたことへの困惑も、突如現れた「娘」への不信感も、どこにも見当たらない。

 彼女は手際よく目玉焼きとトーストを皿に並べると、私の前に置いた。

「はい、お腹空いたでしょ」

 彼女は私の隣の席に座り、自分の分のトーストを小さくちぎって口に運ぶ。

 彼女は私のことを何も知らないはずだった。けれど、彼女はそれを見透かそうとするような不躾な質問は一切してこなかった。ただ、私がソースを手に取ろうとすれば、そっと手元に寄せてくれる。私が麦茶を飲み干せば、何も言わずに冷えたピッチャーから注ぎ足してくれる。

 それは、私の要望を先回りして叶えてくれるような、模範的な「姉」の振る舞いだった。

 彼女は私のことを見ていないようでいて、その実、私の指先の動き一つ、視線の揺れ一つをすべて捉えているような気がした。

「お母さん、そろそろ時間じゃない?」

「あら、本当ね。急がないと」

 母はバタバタと支度を始め、洗面所へと向かった。

「それじゃあ二人とも、仲良くお留守番してなさいよ。お昼は冷蔵庫にあるもの適当に食べてね」

「はーい、いってらっしゃい」

 彼女が玄関まで見送りに行き、母と親しげに言葉を交わす。

 いつもなら、ここから夕方まで続くのは、冷蔵庫の低い唸り音と、自分の立てる物音だけが支配する無機質な時間だ。けれど今は、キッチンから聞こえる規則正しい水音が、その静寂を柔らかく塗り潰していた。彼女は、洗い終えた皿を布巾で拭い、食器棚の定位置へ迷いなく戻していく。

「……何か、手伝おうか」

 手持ち無沙汰に耐えかねて、ソファの端から声をかけた。

 彼女は手を止め、振り返って小さく首を振った。

「いいのよ。あなたは自分の時間を過ごして。夏休みの宿題、大変なんでしょ?」

「まあ、それなりに。でも、急いでやるほどでもないし」

 私はリビングのテーブルに教科書とノートを広げた。けれど、文字はちっとも頭に入ってこない。視線はどうしても、キッチンの入り口で立ち働く彼女の背中に吸い寄せられてしまう。

 やがて水音が止み、彼女がリビングに戻ってきた。手には、氷の浮いた麦茶が入ったグラスが二つ。

「はい。少し休憩」

 彼女は私の斜め向かいに腰を下ろした。

「……ねえ、お姉ちゃん。お姉ちゃんは、本とか読むの?」

「ええ、読むわよ。活字を追っていると、落ち着くから。そういえば、あなたの部屋にも面白そうな本がいくつかあったわね」

「勝手に見たの?」

「ごめんなさい。朝、掃除をしたときに少しだけ。……嫌だった?」

 彼女は少し申し訳なさそうに、眉を下げて私を見た。その表情があまりにも瑞々しくて、私は慌てて視線をノートに戻した。

「……別に、いいけど。漫画とか読まないから、あんまり面白くないと思う」

「そんなことないわ。あなたが選んだ本だもの。きっと、あなたの心の一部が詰まっているんでしょうね」

 そう言って彼女がほほ笑むと私たちはしばらく、言葉を交わさずにいた。扇風機の首振りの音が、規則正しく空気をかき回す。外では蝉の声が一段と激しさを増していたけれど、家の中には、深い水底のような静謐な時間が流れていた。

 誰かがそばにいて、自分を見守ってくれているというだけで、これほどまでに世界の解像度が変わるものなのかと、私は驚きを隠せなかった。

 時計の針は正午を回り、午後の部活動へ向かう時間が近づいていた。

「……そろそろ、行かないと」

 私が椅子を引くと、彼女も同時に立ち上がった。

「準備、手伝うわね」

 彼女は私の返事を待たずに、廊下に置いてあった私のエナメルバッグを手に取った。バッグの表面についた僅かな砂を、自分の袖で丁寧に拭ってくれる。

 自分の部屋で着替えを済ませ、玄関に向かう。鏡の前で髪を整えようとすると、彼女が後ろからひょいと顔を出した。

「襟、立ってるわよ」

 彼女の細い指が、私のシャツの襟元に触れる。指先はやはり冷たかったけれど、その動きは迷いがなく、熟練した手つきで形を整えていく。近すぎる距離に、私は思わず息を止めた。彼女からは、石鹸の香りと、夏休みの正午にしか漂わないような、乾いた空気の匂いがした。

「……ありがとう」

「頑張ってね、あまり無理しすぎないように」

 彼女は玄関の引き戸を開け、外の熱気が流れ込むのを防ぐように、私の背中を優しく押した。

「あ、待って」

 彼女が呼び止めた。振り返ると、彼女は玄関の影から、小さな保冷剤を薄いハンカチで包んだものを差し出してきた。

「これ、首に当てていきなさい。少しは楽になるから」

 私はそれを受け取り、首筋に当てた。冷たさが一気に脳まで突き抜け、歪んでいた景色が少しだけ鮮明になった気がした。

「……いってきます」

「いってらっしゃい。夕飯、何が食べたいか考えておいてね」

 私には、彼女の正体も目的もわからない。けれど、部活動へ向かう足取りは、昨日までのそれよりもずっと軽かった。帰れば、誰かがいる。その事実だけで、見飽きた夏の景色が、まるで初めて見る場所のように新鮮に輝いて見えた。

 

 姉は、見送り際、いつまでも私の背中を見つめているような人だった。

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