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明日も

 夕食を終え、風呂から上がっても、家の中を支配する奇妙な静寂は続いていた。

 いつもなら、風呂上がりの居間には母が一人でテレビを見ている。けれど今夜は、そこに当然のように「彼女」がいた。

 彼女は、母がタンスの奥から引っ張り出してきた、古いTシャツと短パンに着替えていた。それは母が着ていたもので、少し色褪せてヨレている。それなのに、彼女が身に纏うと、まるで(あつら)えたかのようにしっくりと馴染んで見えた。

「お姉ちゃん、どこで寝るの?」

 私は、髪をタオルで拭きながら、努めて冷静に尋ねた。

 母は、近くのスーパーのチラシを眺めながら、顔も上げずに答えた。

「何言ってるの。あんたの部屋でしょ。子供の頃からそうだったじゃない」

 その言葉に、心臓がどくりと跳ねた。

 子供の頃から? 私はずっと一人っ子として、あの六畳の和室を独占してきたはずだ。二段ベッドがあるわけでもない。予備の布団を敷くスペースだって、学習机と本棚に占領されて、ほとんど残っていない。

 けれど、母の口調には微塵の疑いもなかった。「明日の朝ごはんは何がいい?」と聞くのと同じくらいの、平坦で、揺るぎない日常の色をしていた。

「ほら、お姉ちゃん。あんたも早く行きなさい。夜更かしして、明日の朝起きられなくなっても知らないわよ」

「はーい。おやすみなさい、お母さん」

 彼女は軽やかに立ち上がると、私の顔を見て「行きましょうか」と微笑んだ。

 私は言葉を失ったまま、彼女の後に続いて自分の部屋へと向かった。

 廊下を歩く彼女の足音は、驚くほど静かだった。古い板張りの床が軋む音さえ、彼女が通るときだけは息を潜めているように感じられた。

 部屋のドアを開けると、そこにはいつも通りの、私の生活が散らばっていた。

 放り出された学校のカバン。積み上げられた本。そして、壁際に敷かれた一枚の布団。

 彼女は迷いなく部屋の中へ入り、私の学習机の椅子に腰を下ろした。

「……あのさ。本当に、ここで寝るの?」

「ええ。ダメかしら?」

 彼女は首を少し傾げて、私を覗き込んできた。

 その瞳には、私の戸惑いを楽しんでいるような悪戯っぽさと、それ以上に、実の姉が弟に向けるような、あけすけな親密さが宿っていた。

 彼女は何も持ってこなかった。

 着替えも、洗面道具も、鞄ひとつさえ。

 この家にあるものを使い、この家にあるものを着て、ただ「姉」という存在としてそこに座っている。

 そのことに、私は恐怖を通り越した圧倒的な「正しさ」を感じ始めていた。彼女を拒絶することは、この家そのものを否定することになるのではないか。そんな錯覚に囚われる。

「……布団、もう一枚、押入れから出してくるよ」

「いいわよ、面倒くさいわ。これ、結構広いでしょ」

 彼女は私の布団を指差して笑った。

 それは、中学二年生の男子が受け入れるには、あまりにも刺激が強すぎる提案だった。

 けれど、彼女の声には嫌らしさが欠片もなかった。ただ、ありふれた家族の風景を提案しているだけのように聞こえた。

 私は逃げるように電灯の紐を引き、部屋を暗闇に沈めた。

 電灯を消すと、部屋は一気に濃い闇に包まれた。

 網戸越しに聞こえる蝉の声は鳴き止み、代わりに遠くでカエルの合唱が微かに響いている。居間から漏れていた光も、母が寝室へ引き上げたのか、ドアの隙間から消えていた。

 私は壁際に身体を寄せ、なるべく彼女に触れないように、丸まるようにして横たわった。すぐ隣からは、規則正しい、静かな呼吸の音が聞こえてくる。

「眠れないの?」

 暗闇の中から、彼女の声が降ってきた。

 それは昼間の凛とした響きとは少し違う、湿り気を帯びた、柔らかな囁きだった。

「……まあ。急にこんなことになれば、誰だってそうでしょ」

「そうね。ごめんなさい、驚かせて。でも、私にはここしかなかったの」

 彼女は淡々と言った。

 どこから来たのか、なぜここなのか。彼女は自分から説明しようとはしなかったし、私もそれを追求する勇気が持てなかった。ただ、彼女が発する「私はここにいて当然の存在だ」という静かな熱量が、私の反論をすべて溶かしていく。

 彼女が少しだけ寝返りを打った。シーツが擦れる音が、静まり返った部屋に大きく響く。

「あなたの部屋、なんだか落ち着くわ。本がたくさんあって。静かなのが好きなのね」

 彼女は、私の性格や好みを「知っている」のではなく、今この瞬間、暗闇の中で私を探るようにして「知ろう」としていた。

 その丁寧な言葉遣いには、私を尊重しようとする意志が感じられた。

 ふと、彼女の手が私の肩に触れた。

 昼間、玄関先で感じたのと同じ、保冷剤のような冷たさがTシャツ越しに伝わってくる。けれど、その冷たさは不快ではなかった。むしろ、夏の夜の寝苦しさを吸い取ってくれるような、不思議な心地よさがあった。

「……お姉ちゃん、手、冷たいね」

「そうかしら。自分ではよくわからないけれど。……嫌だったら、離すわね」

「いや、いいよ。冷たくて気持ちいい」

 彼女は私の肩を、ゆっくりと包み込んだ。

「頑張らなくていいのよ、私の前では。私はあなたの味方だから」

 彼女が何を根拠にそう言ったのかはわからない。

 友達との関係や、進路のこと、父がいない家で母を支えなければという、自分でも気づかないふりをしていた小さなプレッシャー。彼女はそれらを知っているわけではないはずなのに、その声は私の心の最も柔らかい場所に、正確に届いた。

 彼女は、理想の姉として、私の言葉にならない甘えを受け止めていた。

 私は少しずつ、強ばっていた身体の力を抜いていった。暗闇の中で隣に誰かがいる。それだけで、一人っ子として過ごしてきた十四年間の夜が、どれほど空虚なものだったかを思い知らされる。

 彼女からは、私と同じ洗剤の匂いがした。

 それは私が着ていたTシャツの匂いであり、この家の匂いだった。

「おやすみなさい。いい夢を見てね」

 彼女はそう言うと、私の肩をポンポンと、あやすように叩いた。

 その一定のリズムに身を任せているうちに、私の意識はゆっくりと、深い海の底へと沈んでいった。

 深夜、ふと目が覚めた。

 使い古された扇風機が、首を振るたびに微かなプラスチックの軋み音を立てている。窓の外では、夜の湿気を吸い込んだ木々が風に揺れ、網戸越しにじっとりとした空気の塊が流れ込んでいた。

 隣に、誰かがいる。

 その事実に心臓が跳ねたのは、ほんの一瞬だった。すぐに、それが「姉」であることを思い出し、跳ね上がった鼓動は静かなリズムへと戻っていった。

 彼女は仰向けになり、天井を見つめるようにして静かに横たわっていた。

 私の肩を叩いていた彼女の手は、いつの間にかシーツの上に投げ出されている。暗闇に目が慣れてくると、彼女の横顔が青白い月光に照らされて、この世のものとは思えないほど綺麗に浮き上がって見えた。

「……起きてるの?」

 私が蚊の鳴くような声で囁くと、彼女は瞬きもせずに、ゆっくりと首をこちらへ傾けた。

「ええ。夜の音が、あんまりに綺麗だったから」

「夜の音?」

「風が葉っぱを撫でる音とか、遠くの道路を走る車の音。あなたが寝返りを打つ時の、布の擦れる音。……一人でいる時には、気づかなかった音ばかりだわ」

 彼女は、私の生活の断片を、まるで宝探しでもするかのように一つずつ拾い集めていた。

 私のことを何も知らないからこそ、彼女は私の呼吸ひとつにまで意識を向け、そこに「自分」という存在を馴染ませようとしているようだった。模範的な姉として、私の隣にいるための正解を、静かな夜の中で必死に探している。そんな気がした。

 私は、自分でも無意識のうちに、彼女の方へと少しだけ身体を寄せた。

 一人っ子として育った私にとって、この部屋は自分だけの牙城だった。けれど今、彼女がいることで、この空間はもっと広くて、もっと深い場所へと繋がっているような感覚になる。

「……お姉ちゃん」

「なあに」

「明日も、ちゃんといるよね」

 彼女は少しだけ目を見開いたあと、ふっと柔らかく、慈しむように目を細めた。

「ええ。明日も、目が覚めたら私が朝ごはんを作っているわ。あなたは、ただ『おはよう』って言ってくれればいいの」

 その言葉を聞いた瞬間、私の意識は急速に遠のいていった。

 隣に誰かがいるという重みが、これほどまでに心地よいものだとは知らなかった。

 母は、隣の部屋で深く眠っているだろう。明日になれば、また彼女を「娘」として当たり前に受け入れ、私たちの夏休みは続いていく。

 その歪な、けれど完璧な平穏に身を任せながら、私は再び眠りの淵へと沈んでいった。

 二十歳になった今の私が、あの夜の私に教えてあげられることは何もない。

 ただ、あの時感じた彼女の手の冷たさと、耳元で鳴っていた扇風機の音だけが、今も夏の匂いと共に鮮明に蘇ってくる。


姉は、暗闇の中でも私の居場所を知っている人だった。

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