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白いサンダルの客

 中学二年生、十四歳の夏休みが始まったばかりの日だった。

 部活動を終えた帰り道、私は溶けかかったアイスを片手に歩いていた。蝉の声が、まるで空から降ってくる巨大な騒音のように頭上に降り注いでいる。一人っ子の私にとって、夏休みは自由であると同時に、持て余すほどの「空白」でもあった。

 家に帰っても、母はパートに出ているはずで、夕方までは自分ひとりの静寂が待っている。そう思って、私は重い玄関の引き戸を開けた。

「ただいま……」

 返ってくるはずのない挨拶を投げた私の視線が、三和土たたきで止まった。

 そこには、見慣れない白いサンダルが揃えて置かれていた。母が履く、かかとの潰れたサンダルではない。細身で、汚れ一つない上品な白。履く人の清廉さを象徴するようなそのサンダルは、古びた玄関の中でひどく浮いて見えた。

 泥棒、という言葉が脳裏をよぎり、私はアイスの棒を握りしめたまま硬直した。

 だが、奥から聞こえてきたのは、軽やかで落ち着いた「トントントン」という包丁の音だった。

 私は吸い寄せられるように、廊下を進んだ。キッチンの入り口に立ち、その背中を見た瞬間、鼓動が跳ねた。

 白いノースリーブのワンピースを着た女性が、そこにいた。

 長い黒髪を後ろで緩く束ね、彼女は慣れた手つきでキュウリを刻んでいた。その細い指先、真っ白なうなじ。彼女がそこに立っているだけで、蒸し暑いキッチンに涼やかな風が吹き抜けているような錯覚を覚える。

「……あの」

 絞り出した私の声に、彼女はゆっくりと振り返った。

 整いすぎた目鼻立ちが、夏の強い日差しを受けて輝いている。彼女は私を見ると、ふっと春の陽だまりのような微笑を浮かべた。

「おかえり。暑かったでしょ」

 彼女の声は、低くて、けれど透き通るような響きを持っていた。

「あ、えっと、誰……」

「誰って、失礼ね。お姉ちゃんに向かって」

 彼女はクスクスと笑うと、まな板の上のキュウリを一切れ摘んで、私の口元に運んできた。

 私は驚きと困惑で思考が停止した。私に姉などいない。母からも父からも、そんな話は一度も聞いたことがない。それなのに、彼女の瞳には私に対する深い親しみと、確かな慈しみが宿っていた。

 問い質さなければならない。「あなたは誰ですか」「どうしてうちにいるんですか」と。

 けれど、彼女と目が合っていると、言葉が喉の奥で溶けて消えてしまった。彼女の全身から放たれる圧倒的な「肯定」が、私の疑問を霧散させていく。彼女がここにいることが世界のルールであるかのように、私の意識が書き換えられていくのを感じた。

「……お姉ちゃん?」

 気づけば、私はそう呟いていた。

 自分でも信じられないほど、その言葉は滑らかに、そして甘やかに唇からこぼれ落ちた。

「ええ。ほら、手を洗ってきなさい。麦茶も冷えてるわよ」

 彼女が満足そうに頷いたのと同時だった。玄関から、母が帰ってきた音がした。

 私は慌てて母のもとへ駆け寄ろうとしたが、買い物袋を提げてキッチンに入ってきた母は、ごく当たり前のことのように彼女に声をかけた。

「あら、お姉ちゃん、もう始めてくれたの。助かるわ」

「お母さん、おかえりなさい。夕飯、キュウリの和え物も作っておくわね」

「楽しみだわ。あんたも、お姉ちゃんの手伝いしなさいよ」

 母は私の肩を軽く叩き、笑った。

 その笑顔には、一切の混濁も不自然さもなかった。昨日まで二人きりで暮らしていたはずの家に、第三の椅子が当然のように用意され、そこに完璧なピースがはまった。

 夏の熱気のせいなのか。それとも、私の寂しさが作り出した集団幻覚なのか。

 窓から差し込む光を受けて笑う彼女は、あまりに美しく、そして現実よりも鮮明だった。

姉は、魔法のような手際で母の買ってきた食材を料理に変えていった。

 キッチンからは、胡麻を()る芳しい香りと、出汁の優しい匂いが漂ってくる。私は自分の部屋に逃げ込むこともできず、居間のソファに深く腰掛けて、ただその様子を眺めていた。

扇風機が首を振るたびに、キッチンの熱気が運ばれてくる。その中に、彼女が纏う石鹸のような、あるいは夕立のあとの土のような、不思議に冷ややかな香りが混ざっていた。

「あんた、ぼーっとしてないでお箸を並べて」

 母の声に弾かれたように立ち上がる。食卓には、いつの間に用意されたのか三組のランチョンマットが敷かれていた。一人っ子として過ごしてきた十四年間、このテーブルに三つの食器が並ぶことは、法事の時以外にはなかったはずなのに。

ガラスの器に盛られた素麺と、夏野菜の揚げ浸し、そして彼女が刻んだキュウリの和え物。

「ふふっ、口に合うといいんだけど」

 姉は私の向かい側に座り、丁寧な所作で箸を取った。

三人で囲む食卓は、恐ろしいほどに穏やかだった。

 彼女は、私が素麺を(すす)る様子を「美味しい?」と首を傾げて覗き込んできたり、母のパート先の愚痴を絶妙な相槌で受け流したりした。その振る舞いは、長年この家で苦楽を共にしてきた家族そのものだった。

 彼女が誰なのか。なぜ母は疑わないのか。

 聞かなければならないことは山ほどあるはずなのに、彼女が器用に薬味を私の器に移してくれるたび、その「優しさ」という圧倒的な質量に押し潰されて、疑問は霧散していった。

 友達のいない私にとって、放課後の家は静寂に耐える場所だった。けれど今、この食卓には会話があり、笑いがあり、誰かが自分を気遣ってくれる温もりに満ちている。

 それは、私がずっと心の底で欲していた「家庭」の完成形だった。

 食後、姉は「私が洗うから、あなたはゆっくりしてなさい」と言って、流し台に立った。

 水の流れる音を聞きながら、私は居間のソファに戻り、彼女の後ろ姿を見つめた。夕陽がカーテンの隙間から差し込み、彼女の白いワンピースの輪郭を黄金色に縁取っている。

 その光景があまりに美しくて、私は「もしこれが夢なら、覚めないでほしい」と、生まれて初めて強く願ってしまった。

 食器がぶつかる規則的な音、スポンジが泡立つかすかな音。それらは今まで母が一人でこなしてきた「家事の音」だったはずなのに、彼女がそこに立っているだけで、どこか別の家に来たような、不思議に落ち着かない響きが混ざっていた。

 カーテンの隙間からは、もう夜の気配が忍び寄っている。庭の植え込みからは虫の声が聞こえ始め、扇風機が首を振るたびに、生温い空気が肌を撫でた。

「……ねえ」

 呼んでみてから、しばらく考えたが続く言葉が見つからなかった。

 彼女は、濡れた手をタオルで丁寧に拭きながら、ゆっくりとこちらを向いた。

「なあに?」

 その声は、やはりひどく自然だった。

「……明日も、いるの?」

 自分でも馬鹿げた質問だと思った。けれど、「お姉ちゃん」が明日になればまた消えて、静かすぎる日常に戻ってしまうのではないかと、私はひどく怯えていたのだ。

彼女はソファまで歩いてくると、私の隣に静かに腰を下ろした。彼女の体温に近い、けれどそれよりも少しだけ低い、独特の涼やかな気配が伝わってくる。

「ええ、もちろんよ。明日も、明後日も」

 彼女はそう言って、私の手に自分の手を重ねた。

 驚くほど指が細かった。その手のひらは、真夏の夜だというのにひんやりとしていて、私の火照った手の甲を優しく鎮めてくれる。

「あなたは、一人で頑張りすぎたのよ」

 彼女が何を指してそう言ったのかは分からなかった。けれど、その一言で、胸の奥に溜まっていた正体の分からない(おり)が、音を立てて崩れていくような気がした。友達がいないこと、母に気を遣って過ごしてきたこと、誰にも言えなかった小さな寂しさが、彼女の手の冷たさに吸い取られていく。

 私は、彼女の肩にそっと頭を預けてみた。

 彼女は拒むことなく、私の頭をゆっくりと撫でた。その指の動きは、まるで幼い子供を寝かしつけるような、深い安心感があった。

「お姉ちゃん、お布団敷いておいたわよ」

 二階から母の声が響く。彼女は「ありがとう」と短く答えると、立ち上がって私の髪を最後にもう一度だけ指で整えた。

「じゃあ、また明日。ゆっくり休んでね」

彼女はそのまま、廊下の突き当たりにある納戸へと消えていった。そこは家族にとっても忘れられたような場所だ。けれど、彼女がその扉を閉めた瞬間、その暗い空間さえもが、彼女という存在を優しく守るための大切な場所に変わったように見えた。

自分の部屋に戻り、ベッドに倒れ込んだ。

 彼女が誰なのか。どうして母が疑わないのか。そんな疑問はまだ胸の隅に小さな火種として残っていたけれど、それ以上に「明日も彼女に会える」という事実が、私を深い眠りへと誘っていった。


 姉は、よく笑う人だった。

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