第一章 2 /*first_contact(出会い)*/
足元の草が、さらさらと擦れる音を立てる。
泪は深呼吸をひとつして、少し先に見える小さな村へと一歩を踏み出していた。
「……まぁ、じっとしてても仕方ないよな」
異世界だとか、転移だとか、ゲームの中だとか。
状況は理解出来ても、頭の中はまだ整理しきれていない。
それでも、ただ立ち尽くしているよりは動いた方が少しは気持ちも楽になる。
草原を渡る風は心地よく、日差しも柔らかい。だが胸の奥には、先ほど魔導書に刻まれていた「問い」の残滓が、重く沈んでいた。
───『命の形、どう定義する?』
あの一文が頭の片隅で繰り返される。『命に物理的な形は無い筈だ、若しくはこの世界では違うのだろうか?』意味は解らない。ただ、妙に胸に引っかかって離れない。
「まぁ……考えてても答え出ないしな」
無理やり思考を振り切り、前を向く。
その時、視界の端を白い影が横切った。
「……え?」
ふわりと宙を舞い、すぐに草むらへ着地したのは、一匹の小動物。
丸っこい体に、翼のように大きな耳を揺らす、ウサギに似た─もふもふ。
「……もっ…も…もふさまぁ!?」
あまりの愛らしさに、思わず変な声が出た。
気づけば泪は驚かさない様、ゆっくりと歩みより、両手を差し伸べていた。
「待って!ちょっとだけ!触らせて!!」
しかしウサギは、くるりと向きを変え、ひらりと跳ねて逃げていく。
泪が手を伸ばすたび、絶妙なタイミングでぴょん、ぴょん、と軽やかにかわす。
「お、お前……敏捷力ステ高すぎだろ!? もう少し初心者に優しくしてくれないかなぁ??」
─不気味な笑みを浮かべ、追いかける男、逃げるもふもふ。
数分ほどの鬼ごっこの末──息を切らした泪の目の前で、ウサギは最後に大きくひと跳ねしたかと思うと、その大きな耳をグライダーの様に使い、十数メートル先の草むらの奥へと消えていった。
「……嗚呼、俺の異世界もふもふファンタジー…」
肩を落としながら、その小さな影を見送った。
もふもふへの名残惜しさに、後ろ髪を引かれながら泪は村の方へと歩みを進める。
「……はぁ。あの毛並み、絶対にモフってやるからな……」
ぶつぶつと小声で誓いを立てつつも、足は素直に村へ向かう。
背後の草むらから、まだひょっこり顔を出してくれるんじゃないかと、何度も振り返りながら。
だが、草原はたださらさらと風に揺れるばかりで、もふもふの姿は影も形も無かった。
「……もふロス、重症だな俺……」
気を取り直すように顔を上げると、すぐそこには小さな村の入り口が見えてきていた。
入り口には、木製のゲートがあり異世界の文字で村の名が書かれている。
─プリーチ─
「まさか……プリーチ!?」
アストラル・マジカでの始まりの村。スタート地点である。
プレイヤーが最初に訪れる、いわば聖地でもある。
「え、やばっ……。俺のゲーム、実写版……いや、現実版っ!?」
目の前に広がるのは、画面越しでは感じられなかった木の香りや、日差しの温もり。
自らが創り上げた世界を、自らの五感で体感出来るという、このあり得ない奇跡。
感動と驚きと興奮がごちゃ混ぜになって、泪の冒険への期待値は一瞬で限界突破した。
泪はゲートに刻まれた文字を改めて見上げる。
「……でも待てよ。なんで俺、この文字読めてるんだ? それに村の雰囲気も、元のデザインと比べると立派だし……。」
ゲートに刻まれた「プリーチ」の文字をじっと見つめ、唇を引き結んだり、目を丸くしたり、ひとりで何やらブツブツ。
「さっきから表情がコロっコロ変わってっけど、兄ちゃん大丈夫か?」
「へぁっ!?」
泪は思わず飛び上がった。
「おっ?次は驚いた顔かい?」
大柄な中年の男性が、大きな木箱に頬杖をつきながら、愉快な物を見る様な笑みでこちらを見ていた。
「あぁ…いや、ちょっと考え事を…」
見られていた恥ずかしさで、引き攣った笑みになる。
「やれやれ……本っ当に忙しい兄ちゃんだな」
男からは、少々呆れた様な苦笑いを向けられる。
……これは気まずい。
「まっ、でも村に入る前に立ち止まっちまう気持ちも分かるってもんさ!」
男は頬杖を解き、ポケットに手を突っ込んで、白い歯を見せワイルドな笑みを向ける。
「ここプリーチはよぉ、旅人にとっちゃ始まりの場所だ。 ほら、緊張して固くなってる顔よりゃ、その妙~に間の抜けた顔の方がよっぽど似合ってんぜ?」
そしてこの眩しい笑顔である。
「……うわぁ、なんか褒められてんのか貶されてんのか分かんないな」
しかし眩しい笑顔のお陰か気まずい気持ちは、青空の様に晴れ、少しだけ気が楽になった。
「はっはぁ! 褒めてんだよ、もちろん」
男は豪快に笑い、手をひらひらと振る。
そして、ふと真面目な顔になる。
「にしても……兄ちゃん、その格好はやっぱ見慣れねぇな。どっから来たんだい?」
「えっと……まぁ……」
泪は言葉を濁す。
すると男は目を細め、にやりと口元を歪めた。
「……ひょっとして“流人”かい?」
「る…びと?」
初めて聞く単語に、泪は反射的に聞き返す。
「あぁ、わりぃ、アレだよほら…」
彼は顎の髭を触りながら、どう説明するべきか考えている様である。
そして眉間に皺を寄せながら、男が言う。
「なんて言うか…『別の世界の人間』て言ったらわかるか?」
「……!」
まさに自分の事を指す言葉に、胸の奥がドクンと跳ねる感覚を覚える。
しかし男は泪の内心に気づかない様子で続ける。
「もっとも、俺が前に聞いた話じゃ、最後に来た流人ってのはもう四百年も前だとか。すっかり昔話になっちまってるが……ま、珍しいからって排除するような村じゃねぇよ。まぁ安心しな」
そう言いながら、男は再び眩しい程の笑顔を向けた。
その言葉と笑顔に、泪の胸に絡みつく緊張が、ほんの少し解けた気がした。
そんな彼に「この人、笑顔の破壊力が半端ない…。」泪は心の中でそう思うのであった。
「……そうだな、せっかくだしこの村を一通り見せとくか。 兄ちゃん、腹減ってんだろ? ちょうど昼時だし、酒場に行こうぜ。 あそこは村の中心だし、村の奴らも集まるからちょうどいい」
男は腰に手を当て、泪に提案する。
「へぇっ!?、酒場? 昼から?」
急な申し出に、声が裏返った。
情けない返答に、男は腕を組みながら自慢気に答える。
「おう、別におかしくねぇぞ? あそこの店はなにより飯が美味い! もちろん酒もうめぇぞ?」
「なるほど?」
「それに兄ちゃん、さっきそこで"グリビット"を追いかけてただろ? 相当腹へってんじゃねえの?」
と言いながら、先程泪が居た草原を指差す。
『グリビット』の単語に一瞬頭を悩ませるが、直ぐに先程のもふもふに思い当たる。
「見てたの!?」
「おう。耳ピョンピョンさせながら逃げられてる姿、そりゃもう遠目でもバッチリ見えたぜ。 で、どうだった? 捕まえられたか?」
男は意地悪な笑みで泪に答えた。
「……聞くな……。俺のもふもふライフは、開始数分で破綻したよ……。」
そう肩を落とす泪に、男は大きく笑いながら。
「がっはっは! そりゃ腹も減るわな! まぁなんだ、立ち話もこのへんにして、歩きながら話でもしようぜ」
「へいへい」
背中をバンバン叩かれながら、トボトボと歩き始める。
─────
───
──
村へと続く道を並んで歩く。踏み固められた道が、陽光に照らされ柔らかい光を帯び、何処からかパンを焼く香ばしい香りが漂ってくる。
「今更だがよ~、まだ名前も聞いてなかったな。兄ちゃん、なんて呼べばいい?」
「本当に今更だな!"入江 泪" 泪で良いよ」
あれだけ弄っておいて今更かい!と心の中でツッコミながら答える。
「ルイ、か。へぇ、いい響きじゃねぇか!なにより覚えやすい!」
そう言いながら豪快に笑い、ぐっと拳を突き出してくる。
泪は苦笑いながらも拳を合わせた。
「で、あんたは?」
ルイは男に聞き返す。
「わりぃ、自己紹介が遅れたな。俺はメルク・ウォーデン。見ての通りの商人だ。まぁ、ウォーデンとでも呼んでくれや!」
ウォーデンは、そう名乗りながら胸を張った。
「見ての通りって…わかんねぇよ…。商人……ってことは、旅をして物を売り歩いたり?」
「まぁ、昔はな。今はこの村で腰を落ち着けちまった。女房がここの出でな、惚れて結婚してからは旅もやめた」
ウォーデンは昔を懐かしむ様に、優しい目でそう語る。
「……おぉ!?惚気か!?リア充か!?」
「はっはぁ! 何だそりゃ!」
二人の笑い声が、牧歌的で平和な村の空気に溶け込むのであった。
少し歩き、二人はプリーチの村の中心部にある酒場へと来た。
「おーっす!来たぞー!」
ウォーデンは慣れた手つきで扉を開け放つ。
その声にテーブルを囲む2人かの客が、返事をする。
「待ってたぞー!」
「今日は遅いじゃねぇか」
いつもの飲み仲間だろうか、ウォーデンは「わりぃ、今日はお客が居るからまた今度だ」と軽く手を上げて返答する。
その返答に友人達からは好奇の視線がルイへと注がれる。
その視線に軽い会釈で返すと、彼らからは笑顔が返って来た。
どうやら歓迎はされている様で、ルイは少し安堵する。
酒場と言いつつも、店内は地元の人々が集まる憩いの場であり、外観や内装は"中世の木造建築"良くマンガやゲーム等で見る、落ち着いた雰囲気の店ではあるが、客達の笑顔や会話で活気に溢れている。
そんなお店のカウンターに、マスターらしき若い男性がウォーデンに声をかける。
「やあ、ウォーデンさんいらっしゃい。 奥さん以外に若いお連れさんとは珍しいね。」
その言葉に、ウォーデンの友人達が反応する。
「誰がおじさんだ!」
その声にマスターは「そうでしたね、まだまだしっかり働いて頂かないといけませんね。」と爽やかな笑顔で返す。
『異世界最初のイケメン枠だ…』等と考えている内に、ウォーデンがマスターにルイの紹介を始める。
「まぁ、さっき知り合ったばっかだがよ、コイツとはもう友達みてぇなもんだ!なあ、ルイさんよ!」
そう豪快に笑いながら、ガッチリとルイの肩を掴む。
「……そ、そだね」
苦笑いで返答していると、横から。「なら俺達も友達だな!」とウォーデンの友人達からも肩を掴まれた。
「皆さん、ルイさんが困っているので、揶揄うのもその辺にしておきましょうね」
マスターが言うと、友人達は「へいへい」「兄ちゃん、また後でな!」とルイに言い残し、席へと戻って行く。
「すみません、少々驚かせちゃいましたね。」
とマスターがルイへ申し訳なさそうに謝罪する。
「いえいえ、むしろ皆さん暖かく受け入れてくれるので、ありがたく思います!」
ルイは慌てながら訂正すると、マスターは安心した様に優しく頷いてくれた。
「そう言って頂けると、こちらも嬉しい限りです。 改めまして、"風の渡る木"へようこそ。」
マスターは爽やかな笑顔で、迎え入れてくれる。
「"風の渡る木"…。詩的で良い名前のお店ですね。 何て言うか、これから冒険が始まりそうな感じで。」
ルイの口からは素直な感想がこぼれ出す。
「はい、まさにこの村"プリーチ"は周辺が安全な事からも、旅の始まりの地とも云われています。 それに肖って名付けられました。 又、村の皆さんの憩いの場でもありたい、と言う想いも込められているんですよ。」
そう語りながら、きりっと整った優しい笑顔を向けながら、言葉を続ける。
「この辺りでは珍しい服装ですが、ルイさんも旅をされてる方でしょうか?」
マスターの問に、ルイが返答しようと口を開きかけるより早く、横から自慢気な声が割り込んだ。
「おうよ! こいつは“流人”だ!」
「流人ですって!?」
爽やかな表情が、驚きの色に染まると同時に、その場に居た人々の視線もルイへと注がれ、皆が揃って”流人”の単語を口にする。
―流人だって? お伽噺の存在だと思ってた。 本当に存在したんだな。―
「ちょっと!?ウォーデンさん!」
ルイが慌てて止めるが、キラキラとした目のウォーデンは止まらない。
「さっき出会ったばっかだがよ、不思議な雰囲気と妙な言葉使い。そんでこの服装! 間違いねぇ! しかもだ……“グリビットに翻弄される姿”を俺はこの目でバッチリ見てきたぜ!」
「最後の所関係ある!?人の黒歴史まで掘り起こさないでもらえる!?」
ルイとウォーデンの息の合ったやり取りを見て、店内に笑いが広がり、マスターも思わず吹き出す。
「なるほど……確かに、旅人よりは昔話の“流人”に見えてきましたね、いやぁ驚きました」
そう涙を拭いながら感想を語る。
「それにしても、皆さん驚いてる様には見えないんですがねぇ」
仮にもお伽噺や伝承の中の存在だぞと、謎のプライドが傷つくルイであった。
「失礼、失礼、これでも本当に驚いている事は事実です。 なんせ四百年前に居たと言われる存在が、今こうして目の前に居るのですから。」
そう語るマスターの目から驚きと言うより、嬉しさや感動に近い眼差しを感じ、少し小恥ずかしい気持ちになる。
「なぁに照れてんだい、兄ちゃん! とりあえず腹も減った事だし、飯にしようぜ!」
相変わらずデリカシーの無い人だな、と思いつつもその豪快な明るさに救われている事も事実ではあるので、不問とする。
「そうですね、折角来たのですから、当店自慢のプリーチ伝統料理でおもてなししましょう。」
マスターはそう言い、厨房の方へと声をかけにその場から離れる。
程なくして、マスターが見るからに美味しそうな二人分の料理を、慣れた手つきで厨房から運んで来る。
「おまたせしました、グリビットのシチューです。 こちらのプリーチの麦を使ったパンと一緒にどうぞ。」
赤褐色のスープの中に、たっぷりの野菜と肉が、空腹を更に刺激する香りを纏った湯気を立たせている。
「グリビット…もふさま…食べちゃうのか…。」
ルイの中のもふさまが、涙目でこちらを見ている。
「あの愛くるしい姿を見た後でしたら、少々心苦しく感じるのも理解出来ますね。 ですが、味は絶品!お約束します」
「そうだぜ兄ちゃん、折角頂いた命だ。 美味しく残さず食べて、元気に生きる! これが礼儀ってもんだぜ!」
二人と、料理の香りに背中を押されて、スプーンを手に取り、一掬い。
ゆっくりと香りを楽しみながら、口へと運んだ。
「……っま、…うま…いっ! めっちゃ美味い!!」
スープには、野菜の甘みがしっかり溶け込み、グリビットの肉は口の中でほろほろと崩れて、尚且つとても濃厚な味わいで癖も無い。
「そうだろ~うめぇだろ??」
何故か得意げにドヤ顔をするウォーデン。しかしそれすらも気にならない程の美味なる料理にルイは夢中で味わう。
「流人のルイさんのお口に合うかは少々不安でしたが、どうやらそれも杞憂でしたね。 気に入って頂けたのでしたら、是非パンにつけて食べてみて下さい。」
マスターが勧めるので、ルイはその言葉に習い、パンをスープに潜らせて食べてみる。
「………!」
口に入れた瞬間に、パンに練り込まれたバジルに似た香草と香ばしい麦の香りが、濃厚でクリーミーなシチューと溶け合い、口から鼻まで、否、全身を幸せな感覚が包みこんだ。
「こ、これは…今まで食べた料理で、一番美味しいです!」
その言葉に、マスターとウォーデンは”してやったり”と、笑顔で顔を見合わせたのであった。
木椀を置いたタイミングで、ウォーデンが肘でつついてくる。
「で、兄ちゃん――これからどうすんだ?」
「これから……」
言われてみれば、何も考えていなかった。目の前の世界に圧倒されて、追いかけたのは“もふもふ”だけだ。
「正直、ノープラン。……でも、元の世界に帰る方法は、探したい。まずはそれを目標にしようと思う」
「ふむ、まぁ無難だな」
ウォーデンは頷き、少しだけ真顔になる。
「じゃあ逆に聞くが――昔の“流人”は、どうしたと思う?」
「それ、気になってた。過去の流人は、皆どうしたんだ?」
「記録と伝承を合わせるとだな……最後に来たのは“約四百年前”だ」
ウォーデンは指を一本立てる。
「やつらは大抵、旅人か冒険者になった。村や街で仕事を覚えたり、仲間を作ったり、時に人助けの武勇談を残したり……で、気づきゃ風のようにいなくなる。帰り道を見つけたのか、別の土地で根を張ったのか、そこまでは分からねぇ」
「四百年……改めて考えると、遠い昔の話ですね」
マスターの言葉に、少し感慨深い気持ちになる。これからは辛い道を歩むのかもしれない、けれど不思議と嫌な感じはしない。
「だからよ、まずはこの世界の歩き方を身につけるこった」
その言葉にマスターが頷き、こう続ける。
「何かを探す為には、歩き続けるしかありません。結局はこの世界を”渡り歩く”旅をするしか無いのです。ルイさんの世界はどんな所かは存じませんが、この世界での”生き方”を覚えるしかありません。今までの流人達の様に」
「まずはこの世界の“生き方”を覚える、か」
「そういうこった、ルイ」
ウォーデンは立ち上がり、にやりと笑った。
「腹も満ちた。——次は、村長のところだ」
──────
そんな訳で酒場を出る際には、マスターや店の客達が明るく見送ってくれた。
「またお腹がすいた時は、是非立ち寄ってくださいね。 それでは、良い一日を」
「流人さんや、今度は一緒に呑もうぜ」
「また後で待ってるぞー」
中には気の早い者も居る気がするが、皆一様に歓迎ムードなのはとても有難い事である。
──────
外に出ると、昼の陽光が石畳と木柵をやわらかく照らしていた。風に乗って、干し草と焼きたてパンの香りが交じりあう。通りの先では子どもたちが丸めた布玉で遊び、角の屋台では飴色の蜜を垂らした焼き菓子が並ぶ。
「こっちだ、役所兼集会所。まぁ簡単に言うとギルドは広場の向こう」
ウォーデンに続いて歩くと、掲示板の前を通りかかる。羊の市日、巡回隊の連絡、行方不明の飼い犬の張り紙……文字がすっと頭に入ってくる。
──村に来た時も"プリーチ"の文字がすんなり読めたが、これが異世界転移の恩恵だろうか。
「お、読み物に強いのはいい兆しだ。ギルドは字が読めねぇと不便でな」
「……まぁ、なんとか」
広場の突き当たりに、赤茶の屋根を載せた長屋がある。入口に立つのは大きな樫の扉。金具は磨かれ、扉脇の花壇には赤や青様々な小花が揺れていた。「お?この花は知ってるぞ。…ガーベラだったかな?」元の世界でも見た事のある赤い花を見て、小さな太陽の様で、まるでウォーデンみたいだな。等と考え口元が緩む。
「村長さーん、ウォーデンだ! ちょいと面会いいか?」
ノックも景気がいい。ほどなくして扉が開き、柔らかな雰囲気を纏った年配の男性が顔を出した。白髪に穏やかな瞳、背筋は真っ直ぐ。
「やあ、ウォーデン君。それから─噂の新顔君かね?」
「"イリエ ルイ"です。」
一礼すると、村長は目尻をわずかに和らげた。
「ようこそプリーチへ。話は酒場から風の噂で流れて来ておるよ……“流人”というのは本当かね?」
「……はい。多分、そうです」
「多分、で結構。昔の記録も“曖昧”な記録が多いもんで。」
村長は手で奥を示す。「立ち話もなんじゃ、腰でも掛けてゆっくりしておくれ」
簡素な応接机に温かなハーブ茶。壁には地図といくつかの古びた額装文書。村長は茶を一口含むと、静かに口を開いた。
「イリエ殿と言ったかの?」
「はい。」
ルイは座りながらも姿勢を正し、村長を正面に見据える。
「ふぉっふぉっ、そんなに畏まらんでよい」
村長は朗らかな笑みでルイに語りかける。その言葉に、ルイは肩の力を少し抜いたのを見て「それでよい」と、頷き言葉を続ける。
「ウォーデンを見てみろ。まるで自分の家の様に寛いでおる。」
隣を見ると、ソファーに深々と座るウォーデンが、困った顔で「おいおい、そりゃ言い過ぎだぜ村長…」と抗議している様子を見て、ルイは破顔する。
「うむ、良い顔じゃ」
村長は満足そうに頷き、ルイへと向き直る。
「先ずは自己紹介からじゃな。儂は"プリーチ"の村の村長を務めておる"ギド・ファリング"じゃ、好きに呼んでかわまんぞ」
─そう自己紹介をしてお茶を啜った。




