物語は外側へ
美緒は、それから少しずつ変わっていった。
最初は、本当に些細な変化だった。
「蓮、おはよう」
「おはよう、美緒」
以前なら、それだけだった。
けれど。
「今日、一緒に学校行かない?」
蓮は一瞬だけ目を瞬かせた。
「……悠真は?」
「今日は別にいいの」
「そう」
蓮は少し考えてから、
「じゃあ、行こうか」
とだけ言った。
一緒に歩きながらも、美緒は蓮と何を話せばいいかわからない。
蓮のことを、自分はどれくらい知っているのか、美緒にはもう分からなかった。
◇
次は昼休みだった。
「蓮、これ食べる?」
「何?」
「クッキー。昨日作ったの」
「ありがとう」
蓮は一枚受け取った。
そして普通に食べる。
「おいしい」
「本当?」
「うん」
「じゃあ、もっと食べる?」
「いや、一枚で十分だよ」
「……そう」
美緒は少し肩を落とした。
その様子を見ていた夏芽が、不思議そうに首を傾げた。
「美緒、どうしたの?」
「え?」
「最近、蓮のこと気にしてない?」
「そんなことないよ」
「そう?」
「うん」
美緒は笑った。
けれど。
その笑顔は、どこかぎこちなかった。
「そういえば、美緒。今日の数学のノート、あとで見せてくれる?」
「もちろん。いつでもいいよ」
「ありがとう。じゃあ、放課後に借りてもいい?」
「うん。忘れないように、今のうちに机に入れておくね」
「やっぱり美緒は頼りになるなあ」
いつものようなやりとりだった。
くだらない話をして、笑い合う。
夏芽は美緒にとって、何でも話せる親友だった。
だからこそ。
夏芽が蓮と楽しそうに話しているのを見るたびに、胸の奥がざわついた。
けれど、夏芽は何も悪くない。
自分が勝手に蓮を意識して、勝手に苦しくなっているだけだ。
夏芽を責めることなんて、できなかった。
◇
放課後。
美緒は一人で昇降口にいた。
いつもなら悠真が待っている。
けれど、今日は待っていなかった。
「……悠真?」
教室に戻る。
悠真は机に座っていた。
「帰らないの?」
「美緒こそ」
「私は……」
言葉に詰まる。
以前なら、
「一緒に帰ろう」
と言えば済んだ。
けれど今は。
「……帰ろうと思って」
「誰と?」
「え?」
「蓮?」
その名前を聞いた瞬間、美緒の顔が赤くなる。
「ち、違う!」
「……そっか」
悠真は笑った。
けれど、その笑顔はどこか固かった。
「じゃあ、俺と帰る?」
「……」
美緒は答えられなかった。
悠真は、それを見てしまった。
昔なら、美緒は迷わなかった。
いつだって自分を選んだ。
蓮が何か言えば、美緒は怒った。
蓮が意地悪をすれば、自分のところへ逃げてきた。
自分が慰める。
美緒が笑う。
それでよかった。
自分たちは仲が良かった。
蓮という邪魔者がいるからこそ、自分たちの絆は強かった。
――そう思っていた。
だが。
今、その「邪魔者」がいなくなってみると、二人の間には、思っていたほど何もなかった。
「……ごめん」
美緒が言った。
「今日は、先に帰るね」
「そっか」
悠真は笑った。
「じゃあ、また明日」
「うん」
美緒が去っていく。
悠真は一人になった。
窓の外を見る。
校門の向こう。
蓮が歩いている。
そして、その隣には夏芽がいた。
二人は何か話している。
夏芽が笑う。
蓮も笑う。
悠真は無意識に拳を握っていた。
胸の奥に、初めて覚える感情があった。
――嫌だ。
なぜか、あの二人が一緒にいるのが嫌だった。
◇
「ねえ、蓮」
「ん?」
「美緒のこと、どう思ってる?」
ある日の帰り道。
夏芽が突然尋ねた。
蓮は少し考えた。
「幼馴染」
「それだけ?」
「それだけだよ」
「昔は好きだったんでしょ?」
「……」
蓮は足を止めた。
夏芽も止まる。
「誰から聞いたの?」
「本人」
「美緒が?」
「うん」
蓮は少しだけ笑った。
「昔の話だよ」
「今は?」
「今?」
「今、好きな人いる?」
「……」
蓮は答えなかった。
夏芽も急かさなかった。
夕暮れの道。
しばらくして、蓮が口を開いた。
「昔の俺は、自分の気持ちばかり押しつけてた」
「うん」
「好きなら何をしても許されると思ってた」
「……」
「でも、違った」
蓮は空を見上げた。
「相手が嫌がってるなら、好きって気持ちそのものが、相手にとって迷惑になることもある」
「蓮」
「だから、美緒にはもう何もしない」
その言葉には、恨みも怒りもなかった。
ただ、決めた人間の静けさがあった。
「……それって、美緒が嫌いってこと?」
「違うよ」
「じゃあ?」
「大切だから、距離を置いてる」
夏芽は少し黙った。
「変なの」
「そうかな」
「普通は、大切なら近づくんじゃない?」
「そうかもしれない」
蓮は笑った。
「でも、俺にはそれができないんだ」
◇
その夜、美緒はベッドの上でスマートフォンを眺めていた。
蓮とのメッセージ。
最後に送られてきたのは、数日前の短い返信。
『了解』
それだけ。
昔は違った。
『明日どうする?』
『一緒に帰る?』
『宿題やった?』
どうでもいいようなメッセージが、何度も届いた。
鬱陶しいと思っていた。
返事をしないこともあった。
それでも蓮は送ってきた。
だから、今になって気づいた。
自分は蓮から愛されていることを、当たり前だと思っていた。
「……私、最低だ」
美緒は呟いた。
そして、ふと昔の自分の言葉を思い出した。
『蓮は意地悪だから嫌い』
『悠真は優しいから好き』
胸が痛んだ。
もし今の自分が、蓮に同じ言葉を言われたら。
『美緒は、俺に興味がないから嫌い』
『夏芽は優しいから好き』
――そんなことを言われたら。
きっと耐えられない。
「……」
美緒は布団を握った。
それは、あまりにも身勝手なことだった。
自分が蓮にしたことを。
今、自分がされているだけなのだから。
◇
しかし、美緒は諦めなかった。
むしろ、そこから必死になった。
「蓮!」
「どうした?」
「今日、一緒に帰ろう」
「ごめん。夏芽と約束してる」
「……そっか」
「じゃあ、また明日」
「うん」
また断られた。
それでも美緒は笑った。
「じゃあ明日は?」
「明日?」
「明日は予定ある?」
「特にないけど」
「じゃあ、一緒に帰ろうよ」
蓮は少し困ったように笑った。
「うん。予定がなかったらね」
「……!」
それだけなのに。
美緒は嬉しかった。
昔なら当たり前だったことが、今ではこんなに嬉しい。
◇
その頃。
悠真は、少しずつ変わっていた。
「美緒」
「なに?」
「最近、蓮のことばっかり見てない?」
美緒は固まった。
「そんなこと……」
「あるよ」
「……」
「俺には分かる」
悠真の声は、以前より低かった。
「昔は、蓮が美緒を追いかけてた」
「……うん」
「今は逆だ」
「……」
「どうして?」
美緒は答えられなかった。
「俺じゃ駄目なの?」
「悠真……」
「昔は、俺がいればよかっただろ」
その言葉に、美緒は顔を上げた。
そこにいたのは、いつもの優しい悠真ではなかった。
怒っている。
傷ついている。
そして、焦っている。
「……ごめん」
「謝らないでよ」
「でも……」
「俺は、美緒に謝ってほしいんじゃない」
悠真は拳を握った。
「俺を見てほしいんだ」
美緒は息を呑んだ。
その瞬間。
二人の間にあった「いつもの関係」が、完全に崩れた。
◇
翌日、蓮は校舎裏で夏芽と話していた。
「蓮ってさ」
「うん?」
「前より、今のほうが楽しそう」
「そう?」
「うん」
夏芽は笑った。
「前は、ずっと何かに怒ってるみたいだった」
「……そうだったかも」
「今は?」
「今は――」
蓮は少し考える。
「楽しいよ」
その言葉は、素直だった。
前世の記憶を思い出してから。
ずっと考えていた。
自分は物語の中の人間なのか。
決められた役割があるのか。
どれだけ頑張っても、最後には悠真に負けるのか。
けれど。
最近、少しだけ分かってきた。
自分が物語の登場人物だったとしても。
その物語を書いた人間が、自分の心まで決められるわけではない。
蓮は夏芽を見る。
「夏芽」
「なに?」
「今度、休みの日に一緒に出かけない?」
「……え?」
「嫌ならいいけど」
「嫌じゃない」
夏芽は少し頬を赤くした。
「行きたい」
「じゃあ、決まり」
二人が笑う。
その光景を。
少し離れた場所から、美緒が見ていた。
「……」
胸が痛い。
でも。
以前とは違う。
ただ嫉妬しているだけではない。
美緒は理解し始めていた。
蓮には蓮の人生がある。
自分が好きになったからといって。
昔のように、自分を見てくれるとは限らない。
自分が変わらなければ。
蓮が振り向いてくれる理由なんてない。
「……私も」
美緒は小さく呟いた。
「ちゃんと変わらないと」
◇
一方。
悠真は自室にいた。
机の上には、古いアルバム。
三人で撮った写真。
小学生の頃。
砂場で遊んでいる。
美緒が笑っている。
自分がその隣にいる。
そして。
少し離れた場所に蓮がいる。
いつも不機嫌そうな顔。
いつも自分たちを睨んでいた。
「……蓮」
悠真は写真を見つめた。
昔は。
こいつさえいなければと、そう思っていた。
美緒と自分は、ずっと仲良くいられる。
そう信じていた。
でも。
蓮がいなくなったら、自分たちは近づくどころか、互いに何を考えているのか分からなくなった。
そして今。
美緒は蓮を見ている。
蓮は夏芽を見ている。
夏芽は蓮を見ている。
自分だけが。
取り残されている。
「……ふざけるなよ」
悠真は写真を閉じた。
胸の中に、初めて明確な敵意が芽生えていた。
だが。
その敵意を向ける相手が、本当に蓮なのか。
悠真には、まだ分からなかった。
◇
そして蓮は、知らない。
自分が物語から離れたことで。
物語そのものが、少しずつ形を変え始めていることを。
原作では。
この時期、美緒と悠真の間に一つの大きな事件が起きる。
その事件をきっかけに二人は互いの大切さを知り。
恋人になっていく。
――そのはずだった。
だが。
その事件は、起きなかった。
蓮が美緒に絡まなかったから。
悠真が美緒を慰める必要もなかったから。
美緒が蓮から逃げてくることもなかったから。
物語を動かしていた「悪役」が消えたことで。
主人公とヒロインを結びつけていた糸まで消えてしまった。
それでも。
物語は終わらない。
人間は、筋書き通りには動かない。
嫉妬する。
傷つく。
間違える。
誰かを好きになる。
そして。
誰かに選ばれないこともある。
蓮はまだ、それを知らなかった。
ただ一つだけ。
以前とは違うことがあった。
蓮にはもう。
「美緒に振り向いてもらう」という人生の目的がなかった。
その代わりに。
新しくできた友人がいて。
自分を自然に笑わせてくれる少女がいて。
自分で選んだ未来が、少しずつ目の前に広がっている。
だから。
美緒がどれだけ追いかけても。
蓮は振り返らない。
それは冷たさではない。
復讐でもない。
ましてや、意地悪でもない。
もう、自分の人生を誰かの物語に預けない。
そう決めただけだった。




