ダイアナへ
文化祭準備の日。
校舎中が、段ボールと絵の具と、行き交う生徒たちの声で満たされていた。
蓮たちのクラスは、教室を使った展示を企画していた。壁に飾るパネル、入口の看板、廊下に並べる案内板。作業は多かったが、夏芽が作った進行表のおかげで、準備は順調に進んでいた。
「次は、入口の看板を運ぶよ」
夏芽が確認すると、悠真がすぐに立ち上がった。
「俺がやる」
「二人で運んだほうが安全だよ」
「大丈夫。これくらい、一人で持てる」
悠真は笑った。
その笑顔には、以前のような余裕がなかった。
美緒が見ている。
蓮も、夏芽も見ている。
だからこそ、失敗できない。
頼れる自分を見せなければならない。
「悠真、無理しないで」
美緒が声をかける。
「平気だよ。美緒はそこで待ってて」
悠真は看板を抱え上げた。
だが、入口の角を曲がった瞬間、足元に置かれていた工具箱に気づかなかった。
「危ない!」
蓮が叫んだ。
悠真がよろめく。
看板が壁にぶつかり、固定されていた脚立が倒れた。上に置かれていた絵の具が床へ落ち、赤と青の塗料が一気に広がる。
「きゃっ!」
近くにいた生徒たちが慌てて後ずさった。
さらに、倒れた脚立が展示用のパネルに当たり、立てかけていた数枚が連鎖するように倒れていく。
「誰か、外の人に伝えて!」
夏芽がすぐに声を上げた。
「一年生が来る前に、こっちを片づける。蓮、パネルを押さえて!」
「分かった」
蓮は倒れかけたパネルを支えた。
「悠真、看板はそのままでいい。まず足元を確認して、工具箱を端へ」
「……ああ」
「美緒、雑巾と新聞紙を持ってきて。絵の具が広がる前に止めよう」
「分かった!」
誰も悠真を責めなかった。
蓮は状況を見て、必要な指示だけを出していく。夏芽もすぐに動き、周囲の生徒たちへ役割を振り分けた。
数分後。
床の絵の具は拭き取られ、倒れたパネルも元の位置へ戻された。看板には傷がついたが、修復できる程度だった。
「……ごめん」
悠真が呟いた。
「俺が、無理に一人でやろうとしたから」
蓮は、床に置かれた看板を見た。
「焦らなくていい」
「……」
「美緒は誰の所有物でもない」
悠真の肩がわずかに揺れた。
「頼れる男に見せようとして、無理をする必要もない。誰かを繋ぎ止めるために、何かを証明し続ける必要もない」
「俺は……」
悠真は拳を握った。
「俺は、美緒を守るヒーローになりたかった」
「うん」
「でも、違った。俺は蓮という悪役がいるから、自分がかっこよく見えると思っていただけだった」
悠真は、倒れたパネルを見つめた。
「蓮が美緒に嫌われて、美緒が俺のところへ来る。それで俺は、選ばれたつもりになっていた」
美緒が息を呑む。
「でも、蓮が何もしなくなったら、俺には何も残ってなかった。美緒を守るって言いながら、俺は美緒の気持ちを見ていなかった」
悠真は美緒へ向き直った。
「ごめん、美緒。俺は、君を自分の物みたいに扱っていた」
「悠真……」
「もう、君を守る役を演じるのはやめる。俺は俺で、本当にやりたいことを探す」
悠真は、少しだけ笑った。
「ずっと好きだったクライミングを、もっと本気でやってみたい。誰かに勝つためじゃなくて、自分がやりたいから」
美緒の目に涙が浮かんだ。
「うん。応援する」
「ありがとう」
二人の間にあったものが、静かにほどけていく。
それは別れだった。
けれど、終わりではなかった。
◇
文化祭の準備が終わったあと。
蓮は一人で校舎の階段を下りていた。
「蓮!」
背後から、美緒の声がした。
蓮が振り返る。
美緒は息を切らしながら、階段を駆け下りてきた。
「どうした?」
「話したいことがあるの」
「うん」
美緒は胸の前で手を握った。
「今まで、ごめん」
「……」
「私は、蓮がずっと私を好きでいてくれると思ってた。何を言っても、何をしても、蓮は私のところへ戻ってくるって」
美緒の声が震える。
「だから、蓮の気持ちを大切にしなかった。悠真を好きだって言いながら、蓮が自分を見てくれなくなったら苦しくなった。すごく身勝手だった」
「美緒」
「でも、今の私は、蓮のことが好き」
美緒は涙をこらえながら、蓮を見た。
「昔の幼馴染だからじゃない。私を追いかけてくれるからでもない。今の蓮を見て、好きになった」
蓮は、すぐには答えなかった。
美緒の言葉を、軽く扱いたくなかった。
「ありがとう、美緒」
蓮は静かに言った。
「でも、ごめん。好きな人がいるんだ」
「……うん」
美緒の頬を涙が伝った。
「振られるって、こんなに苦しいんだね」
「ごめん」
「謝らないで。蓮が悪いんじゃないから」
美緒は涙を拭った。
「私、ずっと幼馴染っていう関係に縛られてた。蓮なら私を好きでいてくれる。私は悠真を好きでいていい。そんなふうに、都合よく考えてた」
美緒は、少しだけ笑った。
「でも、もうやめる。私も私の夢を探す」
「うん」
「それから……夏芽のこと、ちゃんと応援する」
蓮は目を伏せた。
「夏芽は、俺にとって大切な人だよ」
「分かってる」
美緒は涙を拭い、今度はまっすぐに笑った。
「だから、幸せになってね。蓮も、夏芽も」
「美緒も」
「うん」
二人はしばらく見つめ合った。
かつてのような近さは、もうなかった。
けれど、そこには憎しみもなかった。
美緒は一歩下がり、蓮に小さく頭を下げた。
「じゃあね、蓮」
「また明日」
「うん。また明日」
美緒は振り返り、夕暮れの廊下を歩いていった。
その背中は、少し寂しそうで。
それでも、以前よりずっと自由に見えた。
◇
校舎の屋上へ続く踊り場に、夏芽がいた。
「美緒と話してきたんだね」
「うん」
「泣いてた?」
「少し」
「そっか」
夏芽は窓の外を見た。
夕暮れの光が、校庭を淡く染めている。
「美緒は、強いね」
「そうだね」
「蓮は、平気?」
「平気じゃないよ」
蓮は正直に答えた。
「でも、これでよかったと思う」
「うん」
夏芽は、蓮の隣に並んだ。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
やがて蓮が、ゆっくりと口を開く。
「夏芽」
「なに?」
「俺は、ずっと美緒を特別な女の子だと思ってた」
夏芽は黙って聞いている。
「物語のヒロインみたいな存在だった。俺がどれだけ傷ついても、最後には美緒を追いかける。それが自分の役割だと思ってた」
「……うん」
「でも、夏芽は俺を蓮という一人の人間に戻してくれた」
夏芽の瞳が揺れた。
「俺が何者か分からなくなっていたとき、夏芽は俺を役割で見なかった。悪役でも、幼馴染でも、誰かの引き立て役でもなく、ただの俺として見てくれた」
「蓮……」
「ありがとう」
蓮は夏芽の手を取った。
「アンを追いかけるのは、もうやめたんだ」
夏芽の目に、涙が浮かぶ。
「俺がずっと一緒にいたいのは、隣で笑ってくれるダイアナ――君だ」
夏芽は、泣きそうな顔で笑った。
「私、ダイアナなの?」
「俺にとっては、そうだよ」
「アンより、私でいいの?」
「夏芽がいい」
夏芽は、蓮の手を強く握り返した。
「……ずるいよ。そんなこと言われたら、泣いちゃう」
「泣いていいよ」
「蓮の前では、泣きたくない」
「どうして?」
「だって、最高の笑顔で返したいから」
夏芽は涙を拭った。
そして、今までで一番明るく笑った。
「蓮。これからも、私の隣にいてくれる?」
「うん」
「約束?」
「約束」
二人は手を握ったまま、夕暮れの校舎を歩き出した。
◇
数か月後。
卒業式を間近に控えた図書室には、穏やかな時間が流れていた。
「この問題、分かった?」
夏芽が参考書を覗き込む。
「あと少し」
「蓮、また難しいところで止まってる」
「夏芽は分かるの?」
「もちろん」
「じゃあ教えて」
「仕方ないなあ」
二人は並んで机に向かい、同じページを見つめた。
「大学、同じところに行けたらいいね」
夏芽が言った。
「うん。そしたら、休みの日に旅行へ行こう」
「どこに?」
「海が見えるところ」
「いいね」
二人は顔を見合わせて笑った。
校庭では、悠真が友人たちと話していた。
以前のような焦りは、もう顔に残っていない。
自分で決めた目標に向かって努力する人間の顔をしていた。
美緒は進路指導室から出てきたところだった。
手には、将来の夢について書かれた書類を持っているんだろう。その顔には笑顔がある。
「夏芽、進路の話、あとで聞いてくれる?」
「もちろん」
「蓮も、またね」
「うん」
美緒と蓮は、すれ違いざまに小さく会釈を交わした。
それだけだった。
けれど、それでよかった。
誰かを縛る関係ではなく。
過去に戻るためでもなく。
それぞれが、自分の道を歩いている証だった。
図書室を出ると、校門の向こうから春の光が差し込んでいた。
蓮は夏芽の手を握り直す。
「行こうか」
「うん」
二人は並んで歩き出した。
誰の物語の噛ませ犬でもなく。
誰かに決められた役割でもなく。
自分で選んだ、自分の人生を。
蓮は夏芽とともに、光の差す校門へ歩いていった。




