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はじまり

 幼いころから、三人はいつも一緒だった。

家が近かった。

通っていた幼稚園も同じで、小学校も同じだった。

 だから、三人が一緒にいることは、ごく自然なことだった。

 ――少なくとも、彼はそう思っていた。


「また蓮がいじめた!」

 小学校四年生の夏。

 公園の砂場で、少女が頬を膨らませていた。

「いじめてない。ちょっとからかっただけだろ」

「砂をかけるのは、からかうって言わない!」

「別に痛くないだろ」

「そういう問題じゃないの!」


 少女――美緒は怒っている。


 その隣では、もう一人の少年――悠真が困ったように二人を見ていた。

「蓮、もうやめようよ」

「悠真は美緒の味方なんだな」

「だって、蓮が悪いし」

「……ふん」


 蓮はそっぽを向いた。

 美緒は悠真の袖を掴んだ。

「悠真は優しいね」

「そんなことないよ」

「優しいよ。蓮とは大違い」


「……」


 その言葉を聞いて、蓮は口を閉ざした。


 胸の奥が、妙にざらついた。

 悔しかった。

 自分だって美緒に優しくしたい。

 自分だって、美緒に笑ってほしい。

 なのに。

 何をしても、美緒は悠真のほうを見る。


「美緒、帰ろう」

「うん!」

 二人は並んで歩いていく。

 蓮はその後ろ姿を睨んでいた。

 ――いつか。

 いつか絶対に、美緒は俺のほうを見る。

 そう思っていた。


 その頃の蓮は、自分が嫌われている理由を理解していなかった。

 自分が意地悪をするから嫌われている。

 そんな単純な話なのに。


 彼の中では、好きだから意地悪している。

 という、歪んだ理屈が成立していた。


     ◇


 中学生になると、蓮はさらに酷くなった。

「美緒、今日一緒に帰ろう」

「ごめん。今日は悠真と帰るから」

「また?」

「またって何よ」


「……別に」

 蓮は笑った。

 けれど、その笑顔には以前より棘があった。

「悠真って、美緒がいないと何もできないよな」

「は?」

「いつも美緒の後ろにいるじゃん」

「悠真を悪く言わないで」

「別に悪く言ってないだろ」

「言ってるじゃない!」


 美緒が怒る。

 悠真が止めに入る。

 いつもの光景だった。

 ただ一つ違っていたのは、蓮の中に苛立ちが積もり始めていたことだった。


 どうしてだ。

 どうして自分じゃない。

 どうして悠真なんだ。

 幼馴染なのは自分だって同じだ。

 自分のほうが美緒を長く知っている。

 自分のほうが美緒を見てきた。

 なのに。


「……俺のこと、そんなに嫌い?」


 ある日の帰り道。

 蓮は初めて、真正面から美緒に聞いた。

 美緒は少し驚いた顔をした。

「嫌いっていうか……」

「じゃあ好き?」

「なんでそうなるのよ」

「……」

「蓮は、意地悪だから嫌なの」

 はっきりと言われた。

「悠真は優しいから好き」


 蓮の胸に、何かが突き刺さった。

 それからだった。

 蓮の性格が、さらに歪んでいったのは。


     ◇


 そして、その日が来た。

 中学二年の冬。

 蓮は自室で一冊の恋愛小説を読んでいた。

 何度目かも分からないほど読んだ本だった。

 幼馴染の少女。

 彼女をずっと想い続ける少年。

 そして、その二人の間に入り込もうとする、性格の悪い少年。


 主人公の少年とヒロインの恋を邪魔し続ける。

 最後には二人に敗北し、自分の愚かさを思い知る。

 典型的な噛ませ犬。

 物語を盛り上げるためだけに存在する、嫌われ役。


 蓮はページをめくった。


 そして――

 手が止まった。

「……え?」

 登場人物の名前。

 ヒロインの性格。

 主人公の容姿。

 嫌われ役の家庭環境。

 どれもこれも。

 妙に見覚えがあった。


「……これ」

 蓮は立ち上がった。

「俺……?」

 頭の奥で、何かが弾けた。


 前世の記憶。


 大学。


 会社。


 電車。


 休日。


 そして、この小説を読んでいた記憶。

 すべてが一気に戻ってきた。

「……嘘だろ」

 蓮は鏡を見る。


 そこに映っているのは、中学二年生の自分。

 小説に登場する少年と、同じ顔。

 同じ名前。

 同じ環境。

 そして――

 同じ未来。


「俺、噛ませ犬なのか……?」

 愕然とした。


 小説の内容を思い出す。

 高校に入る。

 美緒と悠真の関係はさらに深まる。

 蓮は二人に嫉妬する。

 嫉妬のあまり卑怯なことをする。

 そして最後には、美緒にも悠真にも完全に見放される。


 惨めな敗北。

 物語の終盤では、二人の結婚式を遠くから見る場面まであった。

「……冗談じゃない」

 蓮はベッドに腰を下ろした。


 しばらく何も考えられなかった。

 だが。

 やがて、小さく笑った。


「だったら」

 誰もいない部屋で呟く。

「俺は、その物語から降りればいい」


     ◇


 翌日から、蓮は変わった。

 美緒に話しかけなくなった。

 悠真にも絡まなくなった。


 廊下ですれ違っても、軽く会釈するだけ。

 何か言われても、必要最低限しか答えない。

 最初は美緒も不思議がった。

「蓮、最近どうしたの?」

「別に」

「なんか怒ってる?」

「怒ってないよ」

「じゃあ、なんで話さないの?」

「話す必要がないから」

「……何それ」

 美緒は眉を寄せた。

 蓮はそれ以上答えなかった。


 嫌われ役になる必要なんてない。

 美緒を奪う必要もない。

 悠真に勝つ必要もない。

 ただ普通に生きればいい。

 そう思った。


 そして実際。

 それは驚くほど楽だった。


     ◇


 高校に入るころには、蓮はすっかり穏やかな少年になっていた。

 成績も悪くない。

 運動もそこそこできる。

 人の話をよく聞き、話題も多い。


 困っている人がいれば自然に手を貸す。

 特別目立つわけではない。

 けれど、周囲からは好かれていた。


 美緒と悠真とは、ほとんど話さなくなった。

 別に嫌っているわけではない。

 ただ、三人でいる必要がなくなっただけだ。


 そして――


 美緒には、高校に入ってから親友ができた。

「ねえ、美緒」

「なに?」

「さっき廊下にいた男の子、知り合い?」

「え?」


 隣を歩いていた少女が、振り返った。


 長い髪。

 涼しげな目。

 どこか落ち着いた雰囲気。


 彼女の名前は、夏芽。

 美緒が高校に入って最初にできた親友だった。

「ああ……蓮」

「蓮?」

「幼馴染」

「へえ」

「昔はすごく嫌な奴だったんだけどね」

「昔は?」

「うん。今は……」


 美緒は少し考えた。


「普通」

「普通?」

「うん」


 そのときだった。

 廊下の向こうから蓮が歩いてきた。

 手には、何冊かの本。

 蓮は二人に気づいた。


「あ、美緒」

「……うん」

「これ、図書室に返しに行くんだけど」

「そう」

「じゃあ」

 蓮はそれだけ言って通り過ぎようとした。

「あの」

 夏芽が声をかけた。

「はい?」

「その本、重そうだけど」

「大丈夫ですよ」


「一冊くらい持とうか?」

「いや、本当に大丈夫」

「でも」

「じゃあ、一冊だけお願いします」

「うん」

 夏芽が自然に本を受け取る。


 蓮が笑った。

「ありがとう」

「どういたしまして」


 二人はそのまま歩いていった。

 美緒だけが、その場に残った。

「……」

「美緒?」

「え?」

「どうしたの?」

「……なんでもない」


 胸の奥が、妙に落ち着かなかった。

 別に、何でもない。


 蓮が誰と話そうが、自分には関係ない。

 昔は嫌いだった。

 意地悪ばかりして。

 悠真に嫌味を言って。

 自分を困らせて。


 だから、距離を置いてくれて、むしろよかった。

 そう思っていたはずなのに。

「……夏芽」

「なに?」

「蓮と、いつからあんなに仲良くなったの?」

「今日初めてちゃんと話したよ」

「……今日?」

「うん」

「そう……」


 美緒は蓮の背中を見た。


 廊下の角を曲がって、姿が見えなくなる。


 それでも、なぜか目で追ってしまう。


     ◇


 それからだった。

 美緒が、蓮を意識するようになったのは。

 教室で蓮が誰かに笑いかけている。

 女の子がプリントを落としたとき、蓮が拾ってあげている。

 先生に頼まれて、重い教材を運んでいる。

 昔の蓮とは、まるで違う。


 そして何より――


 自分には、何もしない。

「蓮」

 ある日の放課後。


 美緒は思い切って声をかけた。

「ん?」

「一緒に帰らない?」


 蓮は少しだけ目を丸くした。


「ごめん。今日は用事がある」

「……そっか」

「また明日」

「うん」


 蓮はそのまま行ってしまった。

 美緒は立ち尽くす。

 昔なら。


 自分が「一緒に帰ろう」と言えば、蓮は必ずついてきた。


 どれだけ嫌がっても。

 どれだけ冷たくしても。

 蓮は自分を追いかけてきた。

 なのに今は。


「……なんで」


 自分でも分からない。


 胸の奥が、きゅっと痛んだ。


     ◇


 数日後。

 美緒は、図書室の前で足を止めた。

 中から声が聞こえる。

「この本、面白いよ」

 蓮の声だった。

「へえ。恋愛小説?」

「うん。昔から好きなんだ」

「意外」

「よく言われる。赤毛のアンは、昔アニメで見てから好きだったりするよ」


「なんか、もっと難しい本ばっかり読んでそう」

「俺、そんな賢そうに見える?」

「見えるよ」

「じゃあ、今度から賢そうに歩こうかな」

「ふふっ」


 夏芽の笑い声。


 美緒は、扉の向こうを見た。


 二人が並んで座っている。


 楽しそうだった。


 とても自然に。


 自分の知らない顔で。


 ――その瞬間。


 美緒の胸に、初めてはっきりとした感情が生まれた。


 嫌だ。


 その言葉が、頭に浮かんだ。


「……嫌だ」


 小さく呟く。


 どうして?


 自分でも分からない。


 蓮なんて、昔は嫌いだった。


 意地悪で。


 傲慢で。


 自分のことばかり考えていた。


 そんな彼が変わった。


 優しくなった。


 穏やかになった。


 誰にでも親切になった。


 そして――


 自分にだけ、特別な関心を向けなくなった。


「……」


 美緒は唇を噛んだ。


 今までずっと。


 蓮は自分を見ていた。


 怒っているときも。

 笑っているときも。

 悠真と一緒にいるときも。


 いつだって。

 視界のどこかに、蓮がいた。

 それが当たり前だった。


 だから気づかなかった。

 蓮が自分を見ていることが。

 自分にとって、どれほど当たり前だったのか。


「……戻ってほしい」


 口から、言葉がこぼれた。


 昔の蓮に。

 意地悪で。

 面倒で。

 鬱陶しくて。


 それでも――


 自分を見ていた、あの少年に。


 けれど。

 図書室の中では。

 蓮が夏芽に笑いかけていた。

 その笑顔を見た瞬間。


 美緒は、胸の奥に芽生えた感情の正体を知った。

 ――嫉妬だった。

 初めて自分のほうが、誰かを失う側になったのだ。


 そして、そのことを。


 蓮はまだ知らない。

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