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その日は珍しく雨が降った。藁組みの屋根はうまい具合に雨粒をいなしているようで、雨水が部屋に侵入してくることは無かった。だが床材はほんのりと湿ってきて、踏むと少しだけきしんだ。
室内で藁編みの仕事を手伝った後、今晩もナイアにご飯をご馳走になり、この小屋に泊めてもらった。びゅうびゅうと鳴る風の音と、遠くから聞こえる高波の音。野宿だったら、とても辛い夜になったに違いない。毎度泊めてくれるナイア達には頭が上がらない。
寝る前にふと魔導書のことを思い出し、カバンから取り出して眺めてみた。大層な魔法が書かれている割には、質素な見た目である。いや、そっちの方が実用的なのかもしれない。そして不思議と、この本からは怨念や呪いと言った負の感情は読み取れないように思えた。まあ、魔法に疎い僕の感覚だろうから、アテにする方が間違っている。
雨の激しさに比べて、ゆったりとした燭台の火に照らされていると、わずかな眠気を感じてきて、気付いた時にはぐっすりと眠りについていた。
翌朝、未だに雨は収まっていないようで、雨粒が激しく屋根を叩いていた。いつもなら太陽の高さでおおまかな時間が分かるのだが、生憎太陽は全て隠れてしまっている。
早起きなナイアがまだ寝ているのを見るに、おそらくまだ早朝なのだろう。ふと横に目をやると、師匠の藁布団がめくられていた。そしてそこに彼女自身もいなかった。こんな雨の日にどこへ出かけたのだろうか。
もしかしたらいつも漁に出かけていたグラットのことが気になって、波止場まで様子を見に行ったのかもしれない。
そう思った僕は玄関に立てかけてあった、藁の傘を借りて、波止場へと向かった。波止場は雨風で荒れに荒れていた。大きな木船が波に揺られてぐわんぐわんと上下に揺れている。縁石には流木や海藻など、様々な漂流物が散乱していた。ひときわ高い波が押し寄せて、僕の頭よりずっと高いところまで水しぶきが跳ね上がる。
荒れた波止場には、師匠はおろか、他に誰一人としていなかった。それじゃあ、宿舎にいるかもしれない。今度はそう思った僕は、早足で宿舎へと向かった。
こうまでして師匠を探すのは、言葉に言い表せないような不安を感じていたからだ。その不安の原因は、恐ろしい魔導書の話を聞いたからなのかもしれないし、今日の嵐のせいかもしれない。
宿舎には兵士はおろか、明かりすらもついていなかった。扉を何度か叩くうちに、以前ナイアが兵士の休暇について話していたのを思い出した。近いうちに兵士全員の休暇を取って、家族や別の仕事に回す時間が必要だと。今日がその休暇の最初の日であった。
もんもんとする思いと焦りに駆られて、長老の小屋へ戻る。師匠はただふらっと村を見回りに行っただけかもしれない。
しかし小屋には、乱雑な藁布団が残っているだけで、師匠の姿はどこにも無かった。
ふと、師匠の布団に、小さな赤いシミが付いているのを見つける。
「……血?」
よく見るとそれは布団だけではなく、その下の床にも疎らに散らばっているようだった。まだ完全にしみ込んでいないそれは、その血液がまだ新しいことを示している。
焦った僕は、小屋から飛び出る。さっきは気が付かなかった足跡が……3つ。雨に打たれ、消えかかったそれは、1つの方向へと向かっているようだった。
「師匠っ……!」
僕は走っていた。傘は捨て、鋭い雨に打たれながら、狂ったようにひた走る。ぬかるんだ地面に足を取られ、何度か転びそうになる身体を支えながら、足跡を追う。
着いた先は、村のはずれにある小さな小さな小屋だった。中からはぼんやりとした蝋燭の明かりが漏れ出ている。
扉に手をかけると、力をかけずともあっさりと開いた。
中には師匠と2匹のトリトニアン。
師匠は両手を縛られ、上に掲げられたまま、天井から伸びた木の杭に繋がれていた。右腕の全部と、左腕の肘辺りが大きくはれ上がり、青紫色に変色している。所々破れた服の下からは擦り傷とむち打ちのような傷跡が生々しく残っている。そして、師匠の足元には、彼女から流れ出たであろう真っ赤な血が小さな水たまりを作り上げていた。
「ライリー………」
師匠の、絞り出したであろうその声を聞いて、僕は状況を理解するよりも先に泣きそうになった。
「なっ、何を……!」
怒りとも、恐怖ともとれる感情で僕の手が震える。それに応えたのは、槍を持った1匹のトリトニアンだった。
「お前、コイツの仲間だろ。……なんでナイアと長老がお前らなんかを村に入れたのか、全く理解できねえ。これは報いだ。お前らニンゲンの当然の報い」
彼は槍を師匠の顔に向けた。彼女の頬が切れ、新たに血が垂れる。
師匠に対する仕打ちを、眼前の2体がやったのは明白であった。
「それ以上師匠に手を出してみろ……お前ら二匹とも、殺してやる……!」
全てを焼き払うような怒りの波が僕に残っていた他の感情全てを押し流した。魔族、それは非合理で残忍。到底分かり合えない種。
魔界の旅を続けていれば、いずれこんな事態が起こるだろうと、心のどこかで思っていた。でもそれを、今まで会ってきた魔族たちが否定してくれていた。もしかしたら、分かり合える日がくるんじゃないかと。
でも、それももう終わった。これが彼らの本質。覆すことのできない種の本能。愚かだ。吐き気がするほど軽蔑する。
頭がぼうぼうと熱くなる。脳裏によぎるのは、ごうごうとした火炎、子供の悲鳴、藁の屋根が焼ける匂い。
涙で目の前がにじむ。それが激しく高ぶった末の涙であることに、僕は気づかなかった。
「やめろ……ライリー……」
そんな頭にかろうじて届いたのは、苦しむ師匠の声だった。
「……やめて……やめてくれ……」
「どうして……。なぜですか師匠」
「……」
師匠の言葉はか細く、簡単に雨音にかき消されてしまった。
雨がより一層激しく降りつける。一瞬、背後の空が大きく光ったかと思うと、大きな雷鳴がとどろいた。
その時だった。
「ヴォルグ、リュオ……何してる……」
僕の背後に立っていたのは、ずぶぬれになったナイアであった。深い悲しみと激しい怒気を孕んだ気配だった。普段の彼女からは全く想像もできないような暗く重い雰囲気に気圧される。彼女を見た2匹は息をのんだ様子だったが、すぐに槍を構えなおした。
「ナイア……。俺は分からねぇ。分からねぇんだ。どうしてニンゲンなんかと親しくする。どうして馴れ合おうとするんだ」
「私も分からないよ。なぜ彼女を傷つけるんだ」
「……戦争を知らないお前でも、ニンゲンが何をしたかぐらいは知ってるだろう。あまつさえ神聖なこの海に毒を投じ、汚したんだ」
「ニンゲンが撒いた毒で小さな魚が病気になった。それを食った大きな魚が病気になった。それが繰り返されて、ついには村人も……。たった数十年前の話だ。毒の溜まった魚を食った者たちは、もうみんな死んだ。その死に様も酷いもんだった。痛い、苦しい、呪いのようにそんな言葉を吐きながら死んでいった」
「それが、それがどうした……っ! 師匠を傷つける理由にはならない!」
「理由にならないだと!? 死んだのが俺の唯一の肉親でもか!?」
彼は大声で怒鳴った。感情を吐露するのは慣れていないのか、肩が上下に揺れていた。
「俺たちは戦争で罪のない市民までを巻き込んだニンゲンを恨んでいる。そう思ってるやつは他にもいるはずだ」
「ナイア。これ以上こいつらを村にとどまらせるな……」
彼らはそう言い残すと、背後の別戸から姿を消した。
「師匠……!」
急いで、それでいて丁寧に拘束を外す。乱暴に巻かれた麻縄のせいで、師匠の手首は青くなっていた。
腹部にひと際深い傷がある。床に溜まった血の大部分はそこから出たものだろう。僕は自分の上着を破り、師匠の傷に巻いた。彼女は苦しそうに目を閉じたかと思うと、そのまま気を失ってしまった。
「どうしよう……僕には治療魔法は使えない……」
「私が医者を呼んでくる。ライリーはカサンドラを見ていて」
彼女はそう言うと土砂降りの雨の中を走りだした。
それからわずか数分で、彼女は医者を連れて来た。医者は人間の治療はしたことが無いと、戸惑っていたが、手際よく治療を進めていた。
「骨折もあるが、なにより出血がひどい。我々の血は使えないし、お仲間の血が彼女に合うかも分からない」
医者は濡れた体をぬぐいながらそう言った。
そこにエルヴィアが現れた。突然外に飛び出したナイアの後を追ってきたという。彼女は師匠をみるやいなや血相を変えて飛びついた。
「どうしたのっ……!」
「詳しい説明はあと。早く師匠を……」
その後になんの言葉を続ければいいか、僕には分からなかった。蒼白な僕の顔を見たエルヴィアは、焦る気持ちを飲み込んで言った。
「……私が彼女の一部になるわ。できるか分からないけど、やれるだけやりきって見せるわ」
エルヴィアは目を閉じて、両手を胸の前に掲げた。彼女の両手に、次第に光が集まってくる。徐々に輝きを増すその光を、師匠の大きく開いた傷口に当てた。光は傷口に吸い込まれるように消えていった。すると、その傷跡から赤々とした血が噴き出し始めた。
「……早く……塞いで……」
エルヴィアはそう言い残すと、鼻から血を流して倒れこんだ。
布で傷口を圧迫すると、かろうじて出血は収まった。そうしてついに師匠は意識を取り戻した。それでもいつもに比べたら、顔色はかなり蒼白で、次にいつ意識を失ってもおかしくないほどであった。
「ライリー……彼らは、どうなった……」
「ナイアが来てすぐ逃げていきました……」
「手は、出してないんだな……。よかった……」
師匠は安堵するように目を閉じた。
「師匠……!」
「気絶しただけだ。とにかく安静にする必要がある」
医者は彼女の首筋に触れながら言った。
雨が弱まった隙に、師匠とエルヴィアを長老の小屋まで運んだ。その間、ナイアは悲しそうに空を見つめていた。
「……ごめんなさい。こんなことになってしまって。私が軽率にあなたたちを引き入れてしまったから……」
「ナイア……謝らないでくれ……君が何も悪くないことは、十分理解している」
「……カサンドラとエルヴィアの容態が良くなるまで、この小屋には医者以外誰一人として入れさせないわ。だから安心して休んで……」
ナイアはそう言うと、傘も持たずに小屋の外へ出た。雨は再び激しくなりつつあった。
師匠はあんなに痛めつけられても、僕に助けを求めなかった。僕に危害が及ぶのを憂いたのだろうか。それよりも、たぶん、魔族を傷つけることを嫌ったのだろう。
彼女は以前から自分の身に危険が及んだとしても、一切魔族に手を出そうとしてこなかった。それはある種の制約のような、彼女自身の贖罪のようだった。
僕は師匠の過去をあまりよく知らない。自分から話そうともしないから、特段聞くこともしなかった。だから師匠の村がかつて魔族に襲われたと聞いたのも、この旅をしてからが初めてだ。
村や仲間を失った元凶である魔族に、その憎しみすらも押し込めて、友好的であろうとする姿勢にはもはや狂気すら感じる。彼女の心には、何か別のトゲが刺さっているのかもしれない、そう思わせるほどであった。
空が光り、雷鳴がとどろく。2人はまだ目を覚まさなかった。
雨音に混じって、外からやけに沢山の足音が聞こえてくるのを感じた。彼らは雨の日であっても、いやむしろ雨の日だからこそ活発なのかもしれない。……それにしては、不規則に走っていたりして、落ち着きがない。
何気なく耳を傾けていると、悲鳴の混じった叫び声が聞こえた。入口の方をチラリと見ると、ナイアと顔を真っ青にしたグラットがいた。
「リ……リヴァイアサンだ……。海の方に急に現れたと思ったら、海岸に乗り込んできやがった! 海沿いの家は全滅だ……!」
「何!? どうして急に……いや、それよりも避難を……!」
ナイアは小屋の中に顔を覗かせる。
「ライリー……。海岸にリヴァイアサンが上陸してきたと連絡が入った。ここから海までは距離があるから安全だと思うけど……気を付けて。私は兵士を集めてから海岸まで向かう。……こんな時に、ごめん」
彼女はそう告げると、走り去っていった。




