24ページ目-4章-
気温の下がる日が増えた。夜は普段よりも1枚多く着こむようになった。魔界に入ってから既に数カ月が経過していた。その寒さが季節によるものなのか、それとも僕たちが北へ向かっているからなのかは分からない。きっとこのまま進み続ければ、いずれは雪も降ってくるのではないか。
「どう?他に読めそうな箇所はあったかい?」
師匠がエルヴィアに尋ねる。
「うーん……。私の知識じゃこれが限界かも……」
エルヴィアは古びた本を凝視しながら唸った。
隊長から渡された魔導書は、そのほとんどが謎の記号で記述されていて、内容は全く理解できなかった。何が書いてあるのかとウキウキで本を開いた僕は、その難解さに愕然としたのである。
幸い、エルヴィアはいくつかの単語を知っているようだった。知っている、と言うよりは、その記号に込められた魔力を読み取って、意味を推測していると言った方が近い。
広がる、伝える、朽ちる、そんな要領を得ない単語ばかりであった。
「ものすごい魔法が習得できるんじゃないかって期待してたんですけどね」
「そう上手くはいかないものだな」
師匠は笑った。
ひときわ強い風が僕をはためかせたと思うと、目の前には広大な海が広がっていた。琥珀色の砂浜に波が打ち寄せる。ついに砂漠を抜けきったらしい。
「……すごい!初めて見たわ、こんな綺麗な海!」
エルヴィアは風に身を任せるように舞い踊った。森の精霊である彼女にとって、海との関わりは乏しいのだろう。
「せっかくだし、今日はここで夜を明かそうか。久しぶりに魚が食べられるかもしれない」
師匠は人差し指を軽く舐めて、空に掲げた。風の方向から、天候を予測する術である。
僕が野営地を設営していると、師匠は長い木の枝を2本持ってきた。 しなった枝の先端からは細い糸が垂らされて、その先には針金を曲げて作られた小さな針が付いている
「どうだ、釣り竿だ。よくできているだろう」
器用な人だ。
師匠は近くの木の根を掘り返してミミズを何匹か捕獲すると、おもむろに浜辺の方まで歩いていった。
寝床と火床を整えた後、僕も師匠の元へと駆け寄る。師匠から竿を1本もらい、岩肌の隙間へ投げ込む。釣りの経験はほとんどなかったが、その時は早くも訪れた。
2、3回竿が突かれる感触が伝わる。それを合図に力一杯引き上げると、僕の掌ほどの小さな魚が浜辺へと打ちあがった。黒い鱗で覆われた身は引き締まっている。
「すごいぞライリー! よおし、私も見せてやろうじゃないか!」
日が暮れ初めたころ、釣果は僕が5匹、師匠は0匹だった。未だ竿を手放そうとしない師匠を宥めながら、野営地へと帰宅して調理を始める。
魚が焼けて油が滴り始めた時には、師匠はその香ばしい匂いで今日の釣果などすっかり忘れているようだった。
3人で5匹を均等に分けるべく奮闘していると、海の方から、ぼちゃん、と音がした。最初は大きな魚でも跳ねたのだろうと、気にも留めなかった。しかし何度もその音が続くので、ふと海の方に目をやった。
すると海辺から大きな魚の頭が飛び出している事に気付いた。深緑色の鱗に、頭頂部からはトサカのような背びれが伸びている。大きな目は真っ黒に染まっていて、少しの光も反射していない。だが、その視線は明らかに僕たちへと向いている。
その魚頭は一旦海へ沈んだと思うと、またすぐに顔を出した。浜辺の方へどんどん近づいている。
「師匠、何か来ます……」
「エルちゃん。下がっててくれ」
僕と師匠は立ち上がり、遠くに見える魚頭に警戒を向けた。
ついに浜辺までたどり着いた魚頭は、ぬるり、と全身を浜に這い上がらせた。びっしりと覆われた鱗の体に、人間のような四肢がついていて、背中と肘には尖ったヒレが生えている。バフォルグの国で魚人をいくらか見かけたが、コイツはもっと魚側に寄っている。
魚人は両手で体を起こすと、長い手足を目いっぱいに振って、僕たちの方へ走り寄ってきた。海からほど近い場所にいた僕たちは、すぐに距離を詰められる。ヤツは手足を小さく縮めたかと思うと、空高く跳躍した。体に着いた水滴があたりに散らばる。
「僕が狙いか──!」
鋭い爪を首筋に向かって振り下ろしてくる魚人を、すんでの所で回避する。続く第2撃を右手でいなし、流れるような動作で蹴りを喰らわせる。
魚人は、ずどっ、という鈍い音と共に飛ばされて、尻餅をついた。
「ライリー、大丈夫か!」
「はい、問題ありません」
自分の攻撃が当たらなかったことに不満なのか、魚人は自分の爪を見つめていた。キラリと光ったのはその鋭爪だと思った。
……違う、あれはペンダント!
僕の胸からペンダントが消えている。初撃の時に切られたか。
魚人は淡い光を放つペンダントを不思議そうに見つめながら、それを掴んだまま海の方へと走り去っていく。
「逃がすかっ……!」
一瞬、諦めようとも思ったが、こんな所で道しるべを失ったらそれこそ大惨事になりえる。
制止する師匠を振り切って、逃走する魚人を追う。ヤツが海へ飛び込もうと体を縮めたとき、その足の先を掴むことに成功した。
──ザバッ、ザバッ、ザバッ、ザバッ。
浜辺に何本かの水柱が立った。……魚人だ。それも6体。
「しまった……。仲間がいたのか……!」
そのうちの一匹が僕の足首を掴み、強引に引き寄せた。凄まじい力に、体勢を崩して転倒する。踏ん張ろうと必死に砂浜に指を突き立てたが、まっすぐの5本線を残すだけで、あっという間に海中へと引きずり込まれてしまった。
暗い海の中で、それよりも真っ黒な目が光る。彼らは陸上とは比べ物にならないスピードで泳ぎ始める。大きなヒレにかき回された水が水流となって僕を圧す。彼らはすぐに僕を取り囲んで、大きな口を開けた。白く鋭い牙が顔を出す。
その時。
顔の横、耳のあたりを銛のようなものが掠る。最初は奴らが突っ込んできたのだと思った。しかし、銛が飛んできた方向を見ると、またヒレのついた魚人のような影が見えた。だがこいつらとは何かが違う。姿、いや雰囲気か……?
新しく表れた魚人は懐から何かを取り出すと、僕に向かって投げつけた。
激しい閃光があたりを照らす。僕は反射的に目を閉じた。まばゆい光は目をつむっていても貫通してくるようで、網膜を伝って脳にまで鋭い刺激を与える。。
僕の体がぐおんと動く。何かに抱きかかえられているみたいだ。水の抵抗を肌に感じた時、僕の体は浜辺へと投げ出されていた。
未だにチラチラとする目を開けると、遠くから走ってくる師匠とエルヴィアと、傍に佇む魚人が見えた。
「アンタたち何者?鋭魚頭族の縄張りに忍び込むなんて命知らずね」
体つきはさっきの魚人とほとんど似ているが、彼らよりも線が細い。青っぽい体とは対照的に腹部は白く、細かな鱗で覆われている。胸のふくらみまであるのを見るに、おそらくメスか。そして最も特徴的なのは顔面で、奴らのような魚頭ではなく、どちらかと言うと人間寄りだ。目や鼻もあるし、それもまっすぐ正面についている。
「ライリー!よかった、無事で……。あなたが助けてくれたのか?」
師匠は魚人に向かって話しかけた。
「ええ。明らかに襲われてたでしょ。あ、それとコレ」
彼女は僕にペンダントを手渡した。あの一瞬のうちに取り返していたとは……。
「あ、ありがとう。本当に助かったよ」
「私たちは人間だ。とある本を探して魔界を旅している」
「ニンゲン!?遠くで見かけた時まさかとは思ったけど、本当にニンゲンだなんて……」
彼女は目を丸くした。だが、それを受け入れるのも早いように見えた。
「私の名はナイア。丸魚頭族の戦士長よ。そうだ、良かったら私の村まで来ない? こんな数奇な出会いめったにないもの!」
彼女はハツラツとしながら、右手を差し出した。




