十九話目 十二歳の怪物
立ち尽くす悠斗くんを見て、桃花くんは口元に満足げな笑みを浮かべた。
「ほら。一瞬だったろ。」
「…………」
悠斗くんは答えない。
ただ、呆然と美咲さんを見つめている。
桃花くんはそんな悠斗くんには興味を示さず、ゆっくりと美咲さんへ視線を移した。
「お待たせ。」
その声は、驚くほど優しかった。
「今――止めを刺してあげるよ。」
「……っ」
私は息を呑んだ。
上半身の半分を失った美咲さんが、黒い煙を噴き上げながら、ゆっくりと桃花くんへ顔を向ける。
消えかけた身体が、かすかに蠢いている。
傷口から漏れ出した黒い煙が集まり、少しずつ輪郭を取り戻そうとしていた。
――まだ動けるの?
けれど。
反撃する力は、もう残っていないようだった。
「……止め?」
私は思わず呟いた。
桃花くんは再び、先ほどと同じように手を構える。
私は反射的に身を低くした。
また、あの衝撃が来る。
そう思った。
けれど――。
「――顎門」
「……え?」
その言葉を聞いた瞬間、私は目を見開いた。
知っている。
さっき。
狒々王が姉さんを消し去った時に使った技。
けれど、桃花くんのそれは、まるで別物だった。
彼の掌の前に。
黒い球体が浮かび上がる。
直径は、人の頭ほど。
表面は水面のように揺らめき、その周囲を青白い光が走っている。
バチッ。
小さな火花が弾けた。
私は思わず息を止める。
――何が起こるの?
桃花くんは、その球体を見つめたまま静かに言った。
「じゃあ、お母さん。
——さようなら。」
桃花くんが叫ぶ。
「――喰らい尽くせ。」
球体が、脈打った。
その内部から、無数の青白い手が伸びる。
「……なに!」
それらは美咲さんへ一斉に絡みついた。
逃げようとする黒い影を捕らえ、まるで底の見えない闇へ引きずり込むように、少しずつその身体を呑み込んでいく。
「…………!」
美咲さんが身をよじる。
けれど。
抵抗は意味をなさない。
身体の輪郭が崩れていく。
黒い煙が散り。
人の形が少しずつ失われていく。
そして。
美咲さんの視線が、悠斗くんへ向いた。
「……!」
何かを伝えようとしているように見えた。
助けを求めているのか。
別れを告げているのか。
私には分からない。
ただ――。
その目だけは。
最後まで、悠斗くんを見ていた。
悠斗くんが一歩踏み出す。
「母さん……!」
けれど。
その声が届くより先に。
美咲さんの姿が、黒い球体の中へ消えていった。
球体が静かに縮んでいく。
大きかった黒い塊が。
拳ほどになり。
やがて。
小さな光を残して――消えた。
静寂。
さっきまで美咲さんが立っていた場所には、何も残っていない。
黒い煙も。
衣服も。
髪も。
彼女が存在していた証さえ。
何一つ。
私は唇を震わせながら、その場所を見つめていた。
――消えた。
本当に。
何もなくなった。
まるで最初から、そこには誰もいなかったかのように。
その隣で、桃花くんが、ゆっくりと唇を指で撫でた。
「……ご馳走さま。」
小さな声だった。
聞き間違いかもしれない。
けれど。
私は確かに聞いた気がした。
そして。
桃花くんが振り返る。
その目が。
悠斗くんを捉えた。
一歩。
また一歩。
ゆっくりと近づいていく。
「さて――」
桃花くんの口元が、弧を描く。
「次は、君の番だね。」
「――ちょいと待って、桃花。」
私は思わず声を上げた。
桃花くんの足が止まる。
悠斗くんは、何も言わない。
彼は母親が消えた場所を見つめたまま、微動だにしなかった。
桃花くんの口元が、わずかに歪んだ。
何も言わない。
ただ、その目だけが私を見ている。
――まだ何か?
そう問いかけられているような気がした。
けど、私は引かなかった。
ずっと胸の奥に引っかかっていた疑問。
今、確かめなければならない。
「ねぇ、桃花。」
私は悠斗くんを見る。
「悠斗くんは――死害なの?」
静寂が落ちた。
桃花くんの視線が、ゆっくりと悠斗くんへ移る。
そして。
私へ戻った。
首を横に振る。
「……人間なの?」
もう一度。
桃花くんは首を横に振った。
「え……?」
頭が混乱する。
人間ではない。
でも、死害でもない。
「ちょっと待ってよ。じゃあ、どっちなの?」
私が首を傾げると。
桃花くんは、悠斗くんへ視線を戻した。
「彼は――なまなり』だよ。」
「……なまなり?」
聞いたことのない言葉だった。
私は悠斗くんを見る。
悠斗くんは何も言わない。
怒っている様子もない。
怯えている様子もない。
ただ、無表情のまま桃花くんを見つめていた。
その視線には、もう戦う意思すら残っていないように見えた。
「稀に、生きたまま死害になるケースがある。」
桃花くんが静かに説明する。
「でも、彼は少し特殊だと思うね。」
「特殊……?」
私はすぐに聞き返した。
「どういう意味?」
桃花くんは顎に手を当て、悠斗くんをじっと観察する。
それは人間ではなく、珍しい標本でも見ているようだった。
「多分だけど――」
やがて、桃花くんが口を開く。
「彼は死害と関わりすぎたんだ。」
「……ん?」
「長い時間、一緒にいて。」
桃花くんの視線が、悠斗くんの横にあった黒い影へ移る。
もう、そこには何もない。
「死害に触れて。」
姉。
母。
その二人と長い時間を過ごしてきた悠斗くん。
「そして、その呪いを自分の中に宿した。」
桃花くんの目が細くなる。
「僕が見た感じだと……一割ってところかな。」
「一割……?」
「死害の気配は薄い。」
桃花くんは淡々と言った。
「ほとんど人間に近い。」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥に、何かが灯った。
諦めかけていた場所に。
ほんの小さな光が差し込んだような気がした。
「じゃあ――」
私は桃花くんへ駆け寄った。
「じゃあ、助けてよ!」
声が部屋に響いた。
桃花くんが振り返る。
そして。
ずっと彼を見つめていた悠斗くんも、初めて私へ顔を向けた。
「一割なんでしょ?」
私は必死に言葉を繋ぐ。
「だったら、何とかなるよね?」
「…………」
「殺さなくてもいい方法があるんじゃない?」
自分でも分かっている。
根拠なんてない。
ただ。
何でもいい。
「呪いを祓う方法とか!」
一つ。
「呪いを遅らせる方法とか!」
二つ。
「それまでに、助ける方法を探せばいいじゃない!」
思いつく言葉を、片っ端から並べた。
けれど。
桃花くんは――。
鼻で笑った。
「……本当に君は、図々しいね。」
その笑みには、優しさがなかった。
「助ける方法?」
桃花くんは、ほんの少しだけ考えるように目を伏せた。
「ないよ。」
桃花くんが私を見る。
「そんなもの、ない。」
胸を殴られたようだった。
「…………」
何か言おうとした。
――そんなことない。
そう叫びたかった。
でも。
声が出なかった。
「死害の呪いは、甘くないんだ。」
桃花くんは続ける。
「一割だろうが」
悠斗くんを見る。
「なまなりだろうが」
そして。
「死害は死害だ。」
「…………」
「それに――」
桃花くんが私を見る。
「彼の言葉を思い出してごらん。」
「……え?」
私は記憶を辿った。
さっきまでの会話。
父親。
母親。
姉。
死害。
怨鬼。
必死に思い返す。
けれど。
何かが引っかかっている。
何か。
大事な言葉を聞いた気がする。
「……分からない。」
私は小さく首を振った。
「何を言ってたの?」
桃花くんは答えず。
ただ。
悠斗くんを見つめていた。
そして。
「ほら」
静かに言った。
「言ってたじゃん」
――十年前。
「……あっ!」
その瞬間。
記憶の中で、悠斗くんの言葉が蘇った。
『十年前くらいかな』
私はゆっくりと悠斗くんを見る。
そして——気づく。
悠斗くんの姿。
どう見ても。
小学生の高学年。
十二歳。
せいぜい、そのくらいにしか見えない。
「彼は――」
桃花くんが淡々と告げる。
「どう見ても十二歳くらいだよね。」
私は、無意識に頷いていた。
「でも彼は言った。」
桃花くんの声が、部屋の中に落ちる。
「十年前から、この家族は壊れていたって」
「…………」
「分かるよね?」
私は答えられない。
いや。
本当は、もう分かっていた。
分かってしまった。
十年前。
十二歳。
その二つが。
どうしても噛み合わない。
「もう彼は――」
桃花くんが悠斗くんを見る。
悠斗くんは何も言わない。
ただ。
静かに私を見つめていた。
「人間じゃないんだよ。」
その言葉が。
静まり返った地下室に、冷たく響いた。
そして桃花くんは両手を広げ私に言った。
「紗季さん。」
「なに?」
「君が選んで良いよ。」
「え……?」
「彼をどうするか?紗季さんが選びなよ。」




