三章 最終話 じゃあね
「選ぶ……」
桃花くんは、静かに頷いた。
「そうだよ。君が選ぶんだ。彼をどうするか。」
そう言って、悠斗くんを指差す。
「僕は君の考えに従うよ。協力もする。今、殺したくないなら、僕から仙道さんに頼んでみよう。彼を隔離できる場所を用意できるか、聞いてみてもいい。」
――ただね。
桃花くんが、私の顔を覗き込んだ。
近い。
逃げたくなるほど近いのに、私は動けなかった。
怖い。
彼が怖い。
それ以上に――。
自分の選択で、悠斗くんの運命が決まってしまうことが怖かった。
私は彼を助けたい。
たとえ、いつか死害になってしまうとしても。
それまでの僅かな時間だけでも、人間として穏やかに生きてほしい。
ゲームをして。
くだらない話をして。
普通の毎日を過ごして。
そのためなら――。
答えは、もう心の中で決まっていた。
けれど。
桃花くんの「ただね」という言葉だけが、私の胸を引っ掛けていた。
「……『ただ』って、どういう意味?」
胸の奥が、ざわつく。
嫌な予感がした。
「僕が見た感じでは、彼が完全に死害へ変わるまで、それなりに猶予があると思う。」
「猶予……どれくらい?」
私はすぐに尋ねた。
「そうだね……」
桃花くんは悠斗くんを見つめる。
まるで、人間を見る目ではなかった。
「間違えていたら申し訳ないけど……五年。」
桃花くんはそこで一度、悠斗くんを見る。
「いや。十年くらいは持つかもしれないね。」
「五年……十年……」
思っていたより、ずっと長かった。
胸の奥で、小さく安堵してしまう。
まだ時間がある。
まだ、何かできるかもしれない。
――そう思った。
けれど。
「勘違いしないでね。」
桃花くんの声は冷たかった。
「十年あるからって、助かるわけじゃない。」
「……」
「その十年を、人間として生きられる保証もないよ。」
「……え?」
「当然だよ。」
桃花くんは淡々と続ける。
「普通に暮らしても、君と遊んでも、人間らしい時間を取り戻しても――何も変わらない。むしろ、人間らしさを取り戻すほど、死害の呪いとの境目で苦しむことになる。」
私は黙り込んだ。
さっきまで差し込んでいた光が、少しずつ消えていく。
桃花くんは、さらに言った。
「そして死害になったら――さっき紗季さんが見たように、僕たちが彼を喰らう。」
脳裏に、あの光景が蘇る。
狒々王。
美咲さん。
そして――あの黒い球体。
何も残らなかった。
「喰らわれた魂は、もう戻らない。」
桃花くんが悠斗くんを見る。
「ただの『無』になる。」
私も、つられるように悠斗くんを見た。
悠斗くんは何も言わなかった。
ただ、こちらを見ている。
助けを求めるでもなく。
恨むでもなく。
泣くでもなく。
ただ、静かに。
まるで――自分の運命を、他人事のように見つめているみたいだった。
その横顔に、私は言葉を失った。
桃花くんが、私の耳元で囁く。
「今なら、彼を人間として終わらせることができる。」
「……」
「もしかしたら、生まれ変われるかもしれない。まあ、僕は生まれ変わりなんて信じてないけどね。」
冗談めいた口調。
なのに。
その言葉だけが、ひどく重かった。
「さあ、紗季さん。」
肩が跳ねる。
「決めて」
桃花くんの声が、地下室に響く。
「彼を――どうする?」
指先が震えた。
足も震える。
頭の中が真っ白になる。
決められない。
何が正しいのか分からない。
何を選べば、悠斗くんにとって一番いいのか。
私は答えを求めるように、悠斗くんを見る。
目が合った。
けれど。
彼は何も言わなかった。
助けて、とも。
殺して、とも。
ただ、私を見つめている。
その時だった。
――ゴトッ。
足元で、小さな音がした。
見ると。
そこには、桃花くんの刀が落ちていた。
先ほどの衝撃で、私の手から離れていたものだ。
私はゆっくりと腰を屈め、それを拾った。
重い。
両手で抱えるように持ち上げ、埃を払う。
そして――桃花くんへ差し出した。
「……殺して」
あの時の自分は、なぜそう言ったのか分からない。
考えて出した答えではなかった。
気がついたら、口から零れていた。
桃花くんは刀を受け取った。
そして。
ほんの少しだけ、口角を上げた。
彼が悠斗くんへ振り向く。
私は――その顔を一瞬見た。
そして悠斗くんから目を逸らし、暗い階段へ向かって歩き始めた。
背後で。
――カチャ。
刀が抜かれる音がした。
私は振り返らなかった。
最後まで見届ける。
そう決めていたはずなのに。
私は逃げた。
助けたいと言った。
救いたいと言った。
それなのに。
最後には、桃花くんへ全部を押しつけてしまった。
――私は、やっぱり図々しい。
そんな言葉が、胸の中に残った。
★☆
部屋を出る。
暗い廊下を歩く。
階段の前まで来たところで、私は足を止めた。
そこで待った。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
やがて。
暗闇の向こうから、足音が聞こえた。
カツ。
カツ。
カツ。
そして、桃花くんが姿を現した。
刀を肩に担いでいる。
スマホのライトを向ける。
その頬に――ほんの僅かな赤い跡があった。
終わったのだ——。
何も聞かなかった。
桃花くんも何も言わなかった。
二人で、黙って階段を上った。
一段。
また一段。
足が重い。
疲れているのか。
後悔しているのか。
自分でも分からない。
ただ、身体だけが鉛のように重かった。
ようやく地下室を抜ける。
月明かりの差し込む廊下に戻った。
私は小さく息を吐いた。
そこで、ふと思い出す。
「そういえば……恒一さんは?」
「ああ、いたよ。」
「どこに?」
「家具の下敷きになってた。」
「……死んだの?」
「いや。まだ生きてたよ。」
桃花くんは、あっけらかんと言った。
「ピクピクしてたから。」
「……そう」
私はしばらく黙った。
そして、尋ねる。
「殺さないの?」
あの人は——
家族を壊した。
美咲さんを。
お姉さんを。
悠斗くんを。
それでも――。
桃花くんは肩を竦めた。
「僕は……人を殺さないんだ。」
「……は?」
思わず聞き返してしまった。
冗談なのか。
本気なのか。
もう私には分からなかった。
洋館を出る。
門を抜ける。
見慣れた道が、目の前に広がっていた。
少し歩けば、私の家。
窓には明かりがない。
両親は、もう眠っているのだろう。
「ふぅ……」
私は大きく息を吐いた。
秋の近い夜の空気は、少し冷たかった。
冷たい空気が肺に入ってくる。
それだけのことが、妙に懐かしかった。
「じゃあ、紗季さん。」
桃花くんが手を上げる。
「ねぇ、桃花」
「うーん?」
「あなた……人間なの?」
桃花くんが振り返る。
しばらく、私を見つめていた。
「人間なんて、言った覚えはないけど。」
その瞬間。
街灯の下で。
彼の瞳が――赤く光った。
ぞくり、と背筋が冷える。
あれは——
死害の瞳。
私は一瞬だけ息を止めた。
けれど。
「……そうだね。」
それだけを答えた。
桃花くんは、少しだけ笑った。
「じゃあ、紗季さん。またね。」
「うん。また!」
桃花くんは背を向ける。
そして、夜の道を歩いていく。
私は、その背中を見送った。
街灯の下まで来たところで。
桃花くんが、突然振り返る。
「あ、そうだ。」
「なーに?」
「忘れてた」
彼は遠くから、声を張った。
「すぐに仙道さんが来るから。心配しなくていいよー」
「うん!」
「じゃあ!」
桃花くんが両手を振る。
そして。
闇の中へ消えていった。
私は、その場所をしばらく見つめていた。
――またね。
彼はそう言った。
けれど。
私は、もう二度と会えないような気がしていた。
なぜだろう。
理由は分からない。
ただ。
あの赤い瞳を見た瞬間から。
私の中に、小さな確信だけが残っていた。
――あれは、最後だったのだ。
★☆
朝が来た。
カーテンの隙間から差し込む朝日で、私は目を覚ました。
昨日の夜は、よく眠れた。
シャワーを浴びて、ベッドへ倒れ込むように横になったことまでは覚えている。
そこから先の記憶はない。
夢すら見なかった。
それだけ、疲れていたのだと思う。
――外から、何か物音が聞こえた。
私はゆっくりと起き上がり、カーテンを開けた。
空は、昨日までと何も変わらないくらい晴れている。
眩しい朝日が、部屋の中へ差し込んでくる。
その光を見ながら、私は思った。
――昨日のことなんて、全部夢だったらいいのに。
そう願いかけて。
すぐに、その願いを捨てた。
窓の向こう。
朝霧の洋館が、ブルーシートで覆われていた。
その前には黒い車が何台も停まっている。
何人もの大人が集まり、何かを話していた。
私は一人ずつ、その姿を目で追った。
――仙道さんは?
けれど、見つからない。
それでも。
桃花くんが言っていたことだけは、嫌というほど分かった。
すべて、終わったのだ。
私は時計を見る。
「……え?」
次の瞬間。
「ヤバい! 遅刻!」
私は慌てて制服に着替え始めた。
「お母さん! 起こしてよ!」
「やだ、何度も起こしたわよ。」
「もう……!」
慌ただしくリビングを動き回る。
朝食をかき込み、鞄を掴んで家を飛び出す。
――いつもの朝。
いつもの日常。
まるで昨日の夜なんて、最初から存在しなかったみたいに。
学校へ着くと、さっそく友達に捕まった。
「紗季! 遅刻よ!」
「ちょっと寝坊しただけよ。」
「ちょっと寝坊? もう二時限目よ。」
「……えへへ」
苦笑いを浮かべる。
笑って。
誤魔化して。
くだらない話をして。
授業を受けて。
昼休みに友達と笑って。
放課後には部活へ行く。
何も変わらない。
昨日までと同じ一日。
――そう。
何も変わっていない。
ただ一つ。
変わってしまったものを除けば。
部活が終わり、家へ帰る。
いつもの道を歩く。
いつもの角を曲がる。
そして。
いつもの場所を見る。
――悠斗くんはいない。
もう、あの家から出てくることはない。
朝霧の洋館も。
その日のうちに取り壊しが始まっていた。
「ねえ、お母さん」
夕食のあと、私は何気なく尋ねた。
「あの朝霧さんの家……どうしたの?」
「さあ? お母さんも詳しいことは知らないわ。」
それだけだった。
大人たちは何も知らない。
いや。
もしかしたら、知らないふりをしているだけなのかもしれない。
私はそれ以上、聞かなかった。
夜。
宿題を終えた私は、ふと窓の外を見た。
暗闇の向こう。
朝霧の洋館は、半分ほど姿を失っていた。
重機だけが取り残されている。
昨日まで、そこにあったはずの家。
そこにいたはずの人たち。
全部、壊されて。
消されて。
最初から何もなかったみたいになっていく。
私は窓辺に立ったまま、昨日のことを思い出していた。
最後に見た悠斗くん。
あの時。
私は言った。
――殺して。
その言葉を聞いた悠斗くんは、何も言わなかった。
ただ。
少しだけ寂しそうに笑っていた。
まるで。
ずっと待っていた答えを、ようやく聞けたみたいに。
あの表情が。
あの口元が。
頭から離れない。
「……どういう意味だったの?」
誰もいない部屋で、私は呟いた。
もちろん、答えは返ってこない。
窓の外を見つめる。
暗闇。
壊された洋館。
そして。
その向こうに広がる、何もない夜。
――私は今でも考えている。
あの時。
私は悠斗くんを救えたのではないか。
もっと別の答えがあったのではないか。
もし。
もう一度だけ、あの場所に戻れたのなら。
私は違う言葉を選べたのではないか。
そんなことを考えてしまう。
けれど。
どれだけ考えても。
あの日の夜に戻ることはできない。
悠斗くんも。
お姉さんも。
美咲さんも。
あの夜に関わった人たちは、もう誰もいない。
私は窓を閉めた。
カーテンを引く。
部屋の明かりだけが、静かに私を照らしていた。
それでも。
どうしても、最後に見た悠斗くんの笑顔だけが消えてくれない。
あの笑顔の意味を。
私は、今でも知らない。
――そして。
きっと。
これからも、知ることはないのだろう。
Fine




