十七話目 償い
悠斗くんは、ゆっくりと立ち上がった。
そして。
床に這いつくばる恒一さんの横へ並ぶ。
しばらく彼を見下ろしたあと――。
悠斗くんは、私の方へ顔を向けた。
「……DVだよ」
あまりにもあっさりとした言葉だった。
「……え?」
私は思わず恒一さんを見る。
床に伏した彼の姿からは、そんな過去など想像もできない。
「十年くらい前かな。」
悠斗くんは淡々と語り始めた。
「こいつ、仕事のストレス発散とか言って……家で母さんや姉さん、それに僕に暴力を振るってたんだ。」
そう言うと。
悠斗くんは恒一さんの頭を、指先で軽く払った。
「ストレス……発散?」
「そうだよ。」
悠斗くんは笑った。
けれど、その笑顔には温度がなかった。
「本当にそれが理由だったのかは知らないけどね。」
悠斗くんの目が細くなる。
「『俺がお前たちを食べさせてやってるんだから、これくらい当たり前だ』って……いつも偉そうに言ってた。」
「…………」
私は何も言えなかった。
目の前にいる恒一さんと、悠斗くんの話が結びつかない。
真面目そうな顔。
人当たりの良さそうな声。
近所で会えば、軽く頭を下げて挨拶する。
そんな人だった。
「……そんな人には、見えない……。」
思わず口から漏れた。
悠斗くんは、私の言葉を聞くと鼻で笑った。
「そうだろうね。」
そして。
恒一さんの頭を、何度も平手で叩いた。
「こいつ、外面だけは良かったから。」
「…………」
「仕事もできたみたいだし、人前じゃいつも愛想笑いしてた。」
乾いた笑い声。
「たまに会社の人を家に連れてきてさ。『いやいや、僕なんて大したことないですよ』なんて、謙虚そうな顔して笑ってるんだ。」
悠斗くんの指が、ぎゅっと握られる。
「だから……誰も信じてくれなかった。」
その言葉だけが。
妙に静かだった。
「母さんは僕たちを連れて逃げようとした。」
悠斗くんは天井を見上げる。
「先生にも相談した。
それでも、誰も信じてくれなかった。」
「…………」
「みんな、こいつに騙されてた。」
悠斗くんの視線が、再び恒一さんへ向く。
「『あんな良い人が、そんなことするわけない』って。」
私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
――良い人。
その言葉が、妙に重かった。
「……そんな時だった。」
悠斗くんが呟く。
「僕が、もう耐えられなくなって交番行って相談したんだ。」
「……警察に!」
「でも、やっぱり信じてもらえなかった。」
悠斗くんは笑っていた。
笑っているのに。
その目には何もなかった。
「それで家に帰ったら……こいつが、待ってた。」
恒一さんの髪を掴む。
「連絡が行ってたんだろうね。何度も殴られた。」
私は息を呑んだ。
「その時、姉さんが僕を庇ってくれたんだ。」
悠斗くんの声が僅かに震えた。
怒りなのか。
悲しみなのか。
私には分からない。
「……それが、こいつには気に入らなかったみたいでね。」
そこで悠斗くんは言葉を止めた。
そして。
恒一さんを見下ろした。
「姉さんは……その後、こいつに酷いことをされた。」
「…………」
私は息を止めた。
それ以上の説明は必要なかった。
言葉にされなくても。
何があったのか、分かってしまった。
「それから……」
悠斗くんの声が、低くなる。
「毎晩、姉さんは怯えてた。」
私は唇を噛んだ。
「母さんは必死に止めようとしたよ。」
悠斗くんの目に、暗い光が宿る。
「何度も謝って、やめてくれって頼んで……それでも、こいつは止まらなかった。」
「もう……いい、辞めて。」
私は思わず呟いた。
聞きたくなかった。
これ以上。
聞いてはいけない気がした。
けれど。
悠斗くんは止まらなかった。
「……とうとう」
悠斗くんが呟く。
「姉さんは、自分で命を絶った。
コイツの子供が出来たんだ。」
「…………!」
胸が締め付けられた。
悠斗くんは淡々と続ける。
「部屋で、それを見つけた母さんは……壊れたんだ。」
そして。
ゆっくりと恒一さんを見る。
「包丁を持って殺そうとしたんだよ。」
私は口元を手で覆った。
胃の奥がひっくり返るような感覚。
あまりにも酷い。
あまりにも――。
「……ひどい」
震える声が漏れた。
床では、恒一さんが相変わらず頭を下げ続けている。
「きょめんなざい……」
ゴン。
「きょめんなざい……」
ゴン。
「きょめんなざい……」
ゴン。
何度も。
何度も。
同じ言葉を繰り返す。
私はその姿を見つめていた。
さっきまでなら。
少しでも可哀想だと思ったかもしれない。
けれど。
今は違った。
この男が何をされたのかではなく――。
この男が、何をしたのか。
それを知ってしまったから。
「……こんなの……」
私は震える拳を握った。
その時。
ふと、背後から桃花くんの視線を感じた。
振り返る。
桃花くんは何も言わず、ただ私たちを見ていた。
その表情からは。
何を考えているのか、まったく読み取れなかった。
「ただ……」
悠斗くんは、少しだけ視線を落とした。
「こいつを殺そうとした母さんは、逆に殺されたんだ。」
「…………」
「揉み合った末の事故だったって言えば……そうなのかもしれない。」
淡々とした声。
まるで、遠い昔に起きた出来事を語っているようだった。
「でもね。」
悠斗くんの声が、ほんの少し低くなる。
「母さんを殺したこいつは、そのあと僕にも包丁を向けてきたんだよ。
『お前が生きてたら、証言されちまう。俺がDVしてたって話すだろ』って」
「…………うっ」
喉が鳴った。
もはや、聞くに堪えない。
私がこの場所に来たのを後悔し始めた時——
「それを姉さんが助けてくれたんだ。」
「……え?」
私は顔を上げた。
「だから、姉さんが助けてくれたんだよ。」
「でも……」
私は戸惑いながら尋ねる。
「お姉さん亡くなってたって?」
悠斗くんは、当たり前のように答えた。
「うん」
「じゃあ……どうして?」
「だから――」
悠斗くんが笑った。
その笑顔は、あまりにも無邪気だった。
「甦って、助けてくれたんだよ。」
「…………」
「紗季姉ちゃんも見たんでしょ?」
悠斗くんの指が、ゆっくりと横へ向く。
「化け物になった僕の姉さんを。」
私は先ほどの光景を思い出していた。
洋館から出て来た病衣服の女性やはり彼女は悠斗くんお姉さん。
そして……凄まじい形相で、狒々王と戦った病衣の鬼。
そして恐る恐る、私は視線を動かす。
黒い煙の塊。
人の形をした闇。
私は、ようやく理解した。
「……もしかして」
声が震える。
「お母さん……美咲さんなのね?」
「そうだよ」
悠斗くんは笑った。
「これが僕の母さん。」
「…………」
胸が締め付けられた。
予想はしていた。
それでも。
本人の口から告げられると、現実の重さが違った。
黒い塊。
人の形をしているだけ。
髪も。
顔も。
服も。
かつて私が見た美咲さんの面影は、もうどこにも残っていない。
ただ二つの赤い瞳だけが。
影の中で、私を見つめていた。
私は小さく息を吐く。
ここまでの経緯は分かった。
でも——
まだ聞かなければならないことがある。
私は悠斗くんへ向き直った。
「……それで」
声を絞り出す。
「『やり直す』って……どういう意味なの?」
私は床にいる恒一さんを見る。
「お父さんを……殺さなかったの?」
「ああ」
悠斗くんは顎に手を置いた。
「姉さんは殺そうとしたよ。」
そして、母親の黒い影を見る。
「母さんも、姉さんの力で甦ってすぐにこいつを殺そうとした。」
赤い瞳が、ぎょろりと動いて、恒一さんを捉える。
「でもね……」
悠斗くんは笑った。
「僕が止めたんだ。」
「……どうして?」
「殺したら、償えないだろ?」
その言葉に……私は目を見開いた。
「姉さんに酷いことをしたことも」
悠斗くんの声が、一つずつ落ちていく。
「母さんを殺したことも」
「…………」
「僕を何度も殴ったことも……殺そうとしたことも。」
悠斗くんは恒一さんを見下ろした。
「全部、償わせるんだ。」
そして。
悠斗くんは優しく恒一さんの身体を起こした。
壊れた人形を起こしてやるように。
「ほら!」
悠斗くんが笑う。
「世の中って、そういう仕組みでしょ?」
「……え?」
「どんなに悪いことをした人でも、刑務所に入れば罪を償える。」
悠斗くんの笑顔が、ゆっくりと深くなる。
「だから僕も、お父さんに償ってもらうことにしたんだ。」
私は、恒一さんを見る。
「それが……これなの?」
恒一さんは、起こされた身体を支えることもできず――。
再び床へ額をつけた。
「ごべんなざい……」
ゴン。
「ごべんなざい……」
ゴン。
「ごべんなざい……ごべんなざい……」
何度も。
何度も。
同じ動作を繰り返す。
頭を下げる。
上げる。
下げる。
上げる。
まるで、壊れたメトロノーム。
口元からはよだれが垂れ、目は焦点を失っている。
もう。
そこにいるのは、私が知っている恒一さんではなかった。
――人間なのかどうかすら、分からない。
「そうだよ。」
悠斗くんは楽しそうに答えた。
「あの日から、すっかり立場が逆転したんだ。」
悠斗くんは笑いながら続ける。
「仕事から帰ってきたら、毎日謝らせるんだ。
僕たちが許すまで。」
悠斗くんの目が細くなる。
「いつか僕たちが、お父さんを許して――」
そこで一度、言葉を切った。
「元の家族に戻れる日を待ってたんだよ。」
――元の家族。
その言葉だけが。
この異様な地下室の中で、妙に優しく響いた。
けれど。
「……でもねぇ」
悠斗くんの声が変わった。
笑顔が消え、顔が歪む。
「全然、許す気になれないんだ。」
悠斗くんは、ゆっくりと恒一さんの周りを回る。
「何度泣いても」
恒一さんを見つめ、呆れたように息を吐く。
「何度頭を床に擦り付けても、何度謝られても……」
悠斗くんの口元が歪んだ。
「全然、気が晴れないんだよ。」
そして。
ふっと笑った。
「そのうちね——『死んで償う』とか言って、逃げようとしたこともあったんだ。」
「……逃げる?」
「うん!」
悠斗くんは困ったように頷いた。
「だから、助けてあげたんだ。」
「…………」
「死ぬなんて、ずるいだろ。
僕達はコイツから逃げられなかったんだから。」
その言葉と同時に。
悠斗くんは恒一さんの隣へ座った。
そして——
「こうやって……」
恒一さんと同じように身体を揺らし始める。
ゆっくり。
一定の間隔で。
頭を上下させる。
二人で一つの人形になったかのように。
「ごめんなさい」
悠斗くんが、恒一さんの声を真似る。
「ごめんなさい」
また頭を下げる。
「ごめんなさい……こうやって謝ったのにねぇ。」
その顔には。
楽しそうな笑みが浮かんでいた。
私は、その光景から目を逸らせなかった。
いや。
逸らすことすら、できなかった。
――その瞬間。
私は悟った。
目の前にいる少年は。
もう、私の知ってる悠斗くんではない。
母親を失った被害者でも。
姉を失った弟でも。
暴力に耐え続けた、哀れな少年でもない。
とっくに壊れてしまっているのだと。




