十六話目 やり直す家族
地下は、思っていたほど深くはなかった。
階段を降り、短い通路を進む。
そして、突き当たりを曲がったところで――。
私は足を止めた。
そこに、一枚の鉄の扉があった。
古びている。
表面には赤茶色の錆が浮かんでいる。
けれど。
よく見ると、そこまで古いものではない。
ドアノブも比較的新しい。
少なくとも、何十年も前から使われていたようなものには見えなかった。
私はスマホのライトを扉へ向ける。
その横で。
桃花くんが、何も言わず扉へ顔を寄せた。
そして。
耳を押し当てる。
「…………」
しばらくして。
桃花くんが私を手招きした。
「……?」
私は一度、息を吐く。
そして彼の真似をするように、恐る恐る扉へ耳を当てた。
冷たい。
鉄の冷たさが耳から頬へ伝わってくる。
何も聞こえない。
そう思った――その時。
『だ……め……で……くりゃ……い……』
「…………!」
聞こえた。
かすかな声。
何かを訴えている。
私は桃花くんを見る。
声を出すのが怖くて、口だけを動かした。
――声?
桃花くんは私の顔を見て、無言で頷いた。
やっぱり。
いる。
この扉の向こうに。
朝霧家の人間が――。
桃花くんが、静かに口を開いた。
「紗季さん」
「……なに?」
「最後の確認。」
桃花くんの目が、真っ直ぐ私を見る。
「本当に行くのかい?」
私は一瞬だけ黙った。
怖い。
今すぐ逃げ出したい。
けれど――。
「行くわ。」
私は答えた。
「だって……こんな怖い階段、一人じゃ戻れないでしょ。」
少しだけ冗談めかして笑う。
桃花くんが、呆れたように鼻で笑った。
けれど。
私はもう決めていた。
最後まで見届ける。
それに――。
きっと大丈夫。
根拠なんてない。
それでも。
桃花くんなら、私を守ってくれる。
なぜか、そう思えた。
「……入りましょ。」
私が促すと。桃花くんは小さく息を吐いた。
「分かった。」
そして、ドアノブを握る。
「開けるよ。」
カチャ――。
ギィィィ……。
鈍い金属音を響かせながら、扉が開いた。
「……っ!」
次の瞬間——眩しい光が、私の目を刺した。
「なに……これ……」
反射的に手で顔を覆う。
暗闇に慣れた目には、あまりにも強い光だった。
しばらくして。
少しずつ視界が戻ってくる。
私は指の隙間から、その先を覗いた。
「…………え?」
思わず、目を疑った。
私は反射的に後ろを振り返る。
そして、もう一度前を見る。
もう一度。
後ろを見る。
何度確認しても。
そこにあるものは変わらなかった。
――廊下。
普通の廊下だった。
玄関には靴箱。
その先には板張りの床。
白い壁紙。
天井には照明。
まるで――。
どこかのマンションの一室にある共用廊下だった。
「……家?」
私は呟く。
いや。
「……マンションよね、これ?」
以前、友達の家へ遊びに行ったことがある。
そのマンションの入り口と、あまりにもよく似ていた。
けれど。
ひとつだけ、おかしい。
廊下を照らしている照明。
古びた蛍光灯のような器具だけが、そこだけ時間から取り残されたように古い。
けれど。
そんなことはどうでもいい。
私が気になったのは――。
どうして、こんなものが地下にあるのか。
洋館の地下。
そのさらに奥。
そこに、まるで普通のマンションのような空間が広がっている。
理解できない。
理解したくない。
そんな私の視線の先に。
もう一枚の扉があった。
今度は鉄ではない。
真新しい木製の扉。
その向こうから――。
「……だずげで……」
声がした。
先ほどより、はっきりと。
「……ください……」
私は息を呑んだ。
聞き覚えがある。
この声を。
私は知っている。
――恒一さん。
あの時——
こっそりと様子を覗いた時に聞いた声。
間違いない。
頭の中に、あの時の光景が蘇る。
身体が強張った。
足が動かない。
けれど。
桃花くんは何の躊躇いもなく歩き出した。
土足のまま。
「ちょっと……!」
私は慌てて後を追った。
桃花くんは木製の扉の前で立ち止まる。
そして。
ドアノブへ手を掛けた。
カチャ。
躊躇いはない。
そのまま扉を開けた。
「…………」
私はその後ろから中を覗き込んだ。
そして……言葉を失った。
白い壁紙。
大きなダイニングテーブル。
テレビ。
ソファー。
キッチン。
そこに広がっていたのは――。
まるで普通のマンションのリビングだった。
何もかもが普通。
だからこそ。
その中央にあるものが、あまりにも異様だった。
「…………っ」
ダイニングテーブルの前。
一人の男がいた。
恒一さん。
彼は床に裸で土下座をしていた。
何度も。
何度も。
振り子のように頭を下げている。
「……ごめ……なさい……」
その正面。
椅子に座っているのは――。
「……悠斗……くん」
私の声は、ほとんど音にならなかった。
悠斗くんは何事もなかったかのように椅子に座っている。
そして。
その隣には――。
人の形をした黒い煙。
輪郭だけが、辛うじて人間に見える。
煙がゆらゆらと揺れている。
その中には何もない。
そう思った。
赤い光が灯った。
ひとつ。
ふたつ。
黒い煙の中から――。
赤い瞳が開いた。
「…………!」
私は声を失った。
その瞳が、私たちを見ている。
ずっと待っていたかのように。
そして。
悠斗くんと目が合った。
「…………」
何も言えない。
いつもの悠斗くん。
私を見れば、笑顔を浮かべてくれる。
そんな男の子が。
今はただ、こちらを見つめている。
やがて。
悠斗くんの目が、ゆっくりと細くなった。
「紗季姉ちゃんに……」
その声から、いつもの無邪気さが消えていた。
「……お兄ちゃんかぁ」
悠斗くんが、桃花くんを見る。
そして。
私たちを睨み付けるように、目を細めた。
「なんで、ここにいるの?」
同時に。
悠斗くんの隣に立つ黒い煙が、大きく揺らいだ。
その奥で。
赤い瞳が、もう一度――。
ゆっくりと見開かれた。
「悠斗くん、こんばんは。」
桃花くんは、まるで久しぶりに会った友人へ挨拶するように、軽く手を上げた。
この場に似つかわしくないほど、穏やかな声だった。
「君の本当のお姉さんは――僕の仲間が始末したよ。」
その一言で、悠斗くんの眉が、ぴくりと動いた。
「……お前か」
声が低い。
「こそこそと、家の周りを調べていたのは?」
「いや、違うよ。」
桃花くんは肩をすくめた。
「それ、多分、仙道さん。」
「……」
「まあ、僕の仲間なんだけどね。」
桃花くんが悪びれもせず笑う。
悠斗くんは鼻で笑った。
「一緒じゃん。」
「……まあ、そうだね。」
桃花くんも鼻で笑い返した。
会話だけを聞けば。
本当に、普通の少年同士のやり取りだった。
けれど。
私は知っている。
この二人の間にあるものが、そんな生易しいものではないことを。
肌には鳥肌が立っている。
それなのに。
額から、一筋の汗が流れた。
汗が眉間を伝い、ゆっくりと頬へ落ちていく。
私は息をすることさえ忘れそうだった。
そんな私の隣で——
「……お喋りも、このくらいにしようか。」
桃花くんが呟いた。
肩に担いでいた刀を、ゆっくりと下ろす。
刀が正面へ向けられる。
そして。
鞘を握った。
「これから――」
桃花くんの声から、先ほどまでの軽さが消えた。
「僕が君たちを始末するよ。」
カチャ……。
小さな金属音。
ゆっくりと、刀身が鞘から姿を現していく。
その刃が、部屋の照明を受けて鈍く光った。
「ちょっと待って、桃花!」
私は咄嗟に桃花くんの肩を掴んだ。
桃花くんが振り返る。
「お願い……」
私は必死に訴えた。
「ちょっとだけ、私にも話をさせて。」
桃花くんは不満そうに眉を寄せる。
「……」
しばらく私を見つめた後。
口をへの字に曲げた。
「分かったよ。」
そして、渋々と刀を鞘へ戻した。
カチン。
小さな音がした。
私は改めて悠斗くんを見る。
「悠斗くん……こんばんは。」
返事はない。
悠斗くんは、ただ私を見つめている。
その目は。
私が知っている悠斗くんのものとは、どこか違っていた。
それでも私は続けた。
「この部屋……何なの?」
「…………」
悠斗くんは答えない。
「それに……」
私は恐る恐る、床にいる恒一さんへ目を向けた。
「恒一さんに、何をさせてるの?」
恒一さんは答えない。
そもそも。
私たちが話していることすら、聞こえていないようだった。
「ごめ……なさい……」
頭を下げる。
ゆっくりと上げる。
また下げる。
また上げる。
まるで壊れた人形。
同じ動作を、延々と繰り返している。
私は思わず目を逸らした。
そして。
再び悠斗くんを見る。
「ねぇ……悠斗くん。」
すると。
ようやく。
悠斗くんが口を開いた。
「この部屋?」
幼い声。
けれど。
そこに、子供らしい無邪気さはなかった。
「昔、僕たち家族が住んでいた場所を再現したんだよ。」
「……再現?」
私は辺りを見回す。
「そう」
悠斗くんは、部屋の中を見渡した。
「僕たちの家族を……やり直すために作ったんだ。」
そして。
悠斗くんは、床で頭を下げ続ける恒一さんを見た。
「そこの男が――」
悠斗くんの声が、僅かに低くなる。
「全部、壊したから。」
私は息を呑んだ。
「だから……」
悠斗くんが笑った。
いつもの笑顔だった。
なのに。
どうしてだろう。
その笑顔が――。
今まで見たどんな顔よりも、恐ろしく見えた。
「もう一度、家族をやり直してるんだよ。」
首を傾げた悠斗くんが私に聞く。
「変かな?」
静かな部屋に。
恒一さんの頭が床へ触れる音だけが、一定の間隔で響いていた。
――ゴン。
――ゴン。
――ゴン。
耳を塞ぎたくなる生々しい音。
私は息を整え彼に聞いた。
「何があったの?」
その問いに……悠斗くんは、すぐには答えなかった。
ただ――。
恒一さんを見つめていた。
そして。
ゆっくりと笑った。




