十五話目 闇に続く階段
――もし。
本当に、あの笑顔が偽物だったのなら。
そんなことを考えながら、私は再び歩き出した。
隣を歩く桃花くんは、何も言わない。
さっきまで色々と教えてくれたのに。
今は、何も。
結局、答えは見つからないまま。
私たちは、朝霧家の洋館の前に立っていた。
相変わらず暗い。
窓には明かり一つ灯っていない。
家の中から物音も聞こえない。
ただ、巨大な洋館が夜の闇の中に佇んでいる。
まるで――。
最初から誰も住んでいなかった廃墟のようだった。
私はゆっくりと振り返った。
すぐそこに、私の家がある。
数分も歩けば帰れる距離。
今なら、まだ引き返せる。
桃花くんと一緒に来たことをなかったことにして。
何も知らなかった頃に戻ることもできる。
ほんの一瞬。
迷いが生まれた。
その迷いを察したのか。
桃花くんが、私の顔を覗き込んだ。
何も言わない。
ただ、じっと私を見る。
――どうする?
そう問いかけられているような気がした。
私は拳をぎゅっと握り締める。
そして。
小さく頷いた。
ふぅ……。
肺の奥に溜まっていた息を吐き出す。
覚悟を決めた。
「いいわよ。」
私は、覗き込んでくる桃花くんを見上げる。
少しだけ強がって笑った。
「早く行きましょ。」
桃花くんの口角が、僅かに上がった。
そして。
何の躊躇いもなく、玄関のドアノブへ手を伸ばす。
「えっ?」
私は思わず声を上げた。
「正面から行くの?」
覚悟は決めた。
決めたけれど。
まさか正面突破するとは聞いていない。
そんな私の驚きをよそに、桃花くんは平然と答えた。
「だって、他の入口を探すの面倒でしょ?」
「……そんな理由?」
呆れてしまう。
けれど。
私は密かに、別のことを考えていた。
――もしかすると。
桃花くんにとって、こそこそ侵入したり、不意打ちを狙ったりする必要なんてないのかもしれない。
つまり。
これは余裕なのだ。
正直、見た目だけなら、とても強そうには見えない。
確かに。
私が襲われた時、桃花くんは一瞬で怨鬼を倒してみせた。
けれど、あの時の相手は背後からの不意打ちだった。
しかも、下半身を失っていて、すでに瀕死だった。
今回の相手は違う。
朝霧家の中にいるのは――。
死害。
それも。
先ほど狒々王が相手にしたものと同等の存在がいるかもしれない。
果たして。
桃花くんは、本当に勝てるのだろうか。
余裕なのか。
それとも――。
ただの無謀なのか。
私には判断できなかった。
でも。
ここまで来た以上。
彼を信じるしかない。
私は桃花くんの少し後ろへ回り、黙ってその背中を見つめた。
そして。
ドアノブが回る。
カチャ……。
――開いた。
「……え?」
思わず目を見開く。
鍵が掛かっていると思っていた。
けれど。
玄関の扉は、あまりにも簡単に開いた。
私たちが来ることを、最初から知っていたかのように。
「お邪魔しま~す。」
桃花くんは玄関の中へ顔を入れ、まるで友達の家に遊びに来たような調子で声を掛けた。
「もう!」
私は慌てて声を潜める。
「静かに入りなさいよ!」
「だって、黙って入ったら不法侵入になるじゃん。」
桃花くんは悪びれもせず、続ける。
「挨拶くらいはさぁ。」
「……そういう問題じゃないでしょ。」
本気なのか。
冗談なのか。
やっぱり分からない。
桃花くんはそのまま靴を脱ごうともせず、土足で玄関を上がっていった。
「ちょっと!」
私は慌てて後を追う。
そして。
小さく頭を下げた。
「……お邪魔しま~す。」
誰もいない玄関に、私の声だけが響いた。
返事はない。
当然だ。
なのに。
なぜか――。
誰かに聞かれているような気がした。
家の中は、闇だった。
窓から差し込む月明かりが、廊下の一部だけをぼんやりと照らしている。
その先。
廊下の奥は――。
完全な漆黒。
数メートル先すら見えない。
「……」
私は思わず息を止めた。
まるで。
あの暗闇の向こうに、何かが潜んでいるように見える。
「ちょっと待って」
私はスマホを取り出した。
ライトを点ける。
小さな光が、暗闇を照らした。
けれど。
照らせるのは、ほんの数メートル。
その先は、やっぱり闇の中だった。
こんな明かりでは、心許ない。
それでも。
ないよりは、ずっといい。
桃花くんはそんな私を待つことなく、廊下の奥へ歩き始める。
私は慌てて、その背中を追った。
「ねぇ、どこへ行くのよ?」
小声で尋ねる。
「悠斗くんの部屋、二階だったよ。」
私は一度しか来たことがない。
それでも覚えている。
「お姉さんの部屋も二階だったし……」
そして。
「私が見たおじさんの部屋も、二階だった。」
だから当然。
桃花くんも二階へ向かうと思っていた。
けれど。
彼は階段の前を通り過ぎた。
そのまま――。
一階の奥へ。
「……え?」
私は足を止めかけた。
そちらには、まだ行ったことがない。
一度も見たことのない、一階の奥。
桃花くんは迷う様子すらない。
まるで。
この家の中を、最初から知っているかのように。
私は喉を鳴らした。
スマホの光を握り締める。
そして。
息を殺しながら、桃花くんの後を追った。
一歩。
また一歩。
廊下の奥へ進むたびに、家の中の空気が冷たくなっていく。
――何があるの?
私は暗闇の先を見つめながら、ただ黙って歩き続けた。
「ねぇ……本当に、こっちで合ってるの?」
私は桃花くんの背中に隠れるようにして、恐る恐る尋ねた。
「多分ね。」
「多分って……」
思わず「もう……」と不満を漏らす。
こんな暗闇の中を歩いているというのに、桃花くんは相変わらず緊張感がない。
すると桃花くんは、少し面倒臭そうに振り返った。
「二階には気配がないんだ。」
「……気配?」
「一階にもない。」
そう言って、桃花くんは廊下の奥へ視線を向ける。
「だから、多分……地下室にいるんじゃないかな。」
「地下室?」
その言葉に、私は思わず聞き返した。
桃花くんは足を止めると、廊下の奥にある一つの扉を指差した。
「仙道さんの話だと、この洋館の元の持ち主は医者だったみたいだね。」
「へぇ……」
初めて聞いた話だった。
この洋館に、そんな過去があったなんて。
医者。
そう聞いて、私はふと思う。
――もしかして、昔は病院だったの?
けれど。
父からも母からも、そんな話を聞いたことはない。
近所の人たちからだって、聞いた記憶はなかった。
ただ私が知らないだけなのか。
それとも、あまりにも昔の話で誰も覚えていないのか。
いくつもの可能性が頭をよぎる。
けれど。
当然、答えなんて出るはずもなかった。
「それで……?」
私は考えるのを諦め、桃花くんに続きを促した。
「ああ」
桃花くんは扉を見つめたまま答える。
「仙道さんが見つけた間取り図を見たんだけどね。」
「うん……」
「何に使っていたのか分からない、結構広い空間があるみたいなんだ。」
「……じゃあ」
私は唾を飲み込む。
「そこにいるの?」
桃花くんは、小さく頷いた。
「狒々王の話だと、家には誰も出入りしていないらしいからね。」
そして。
まるで散歩の行き先を決めるような軽い口調で続けた。
「おそらく、そこだと思う。」
「……おそらく?」
「まあ、違ってたら手分けして探そうか。」
「…………」
私は思わず桃花くんを見つめた。
軽い。
軽すぎる。
本当に大丈夫なのだろうか、この人。
これから死害がいるかもしれない場所へ向かうというのに。
私は桃花くんの指差した扉へ向かう。
一歩。
また一歩。
廊下を進む。
近づくほどに、空気が冷たくなっていく。
扉の前へ辿り着いた。
桃花くんは何も言わず、私へ手を向けた。
「……?」
少し下がれ。
そういう意味らしい。
私は言われた通り、一歩、二歩と後ろへ下がる。
桃花くんがドアノブへ手を伸ばした。
私は息を呑んだ。
何かがいる。
そんな確証はない。
なのに。
扉の向こうから、こちらを覗いているような感覚があった。
――カチャ。
小さな音。
桃花くんが、ゆっくりと扉を開く。
ギィ……。
古びた蝶番が軋んだ。
私は反射的に身構えた。
けれど。
何も出てこない。
桃花くんはライトすら点けず、暗闇の中を覗き込んでいる。
――夜目でも利くの?
その姿に、私は僅かな違和感を覚えた。
「……どう?」
小声で尋ねる。
桃花くんは振り返らず、こちらへ手招きをした。
「……ああ」
静かな声。
「ここだね。」
「え?」
「ほら、階段があるよ。」
私は恐る恐る桃花くんの横へ並んだ。
そして。
扉の中へスマホのライトを向ける。
「…………」
息が止まった。
そこにあったのは、部屋ではなかった。
地下へ続く階段。
古い石造りの階段が、暗闇の中へ延々と続いている。
ライトを向けても。
下まで届かない。
光が途中で闇に呑み込まれてしまう。
ひんやりとした空気が、地下から這い上がってくる。
頬を撫でる風。
冷たい。
まるで――。
地下から何かが息を吐いているようだった。
「…………」
私は無意識に喉を鳴らした。
霊感なんてない。
それでも分かる。
ここは――普通じゃない。
「……どうするの?」
やっとの思いで尋ねる。
桃花くんは刀を肩へ担いだ。
「もちろん、降りるさ。」
あまりにも当たり前の答えだった。
「…………」
私は階段の先を見る。
真っ暗だ。
何がいるのか。
何が待っているのか。
何も分からない。
こんな場所。
何も知らなければ、絶対に入らない。
喉が渇く。
足が動かない。
それでも桃花くんは、私の恐怖など気にする様子もなく扉を大きく開いた。
そして。
カツン。
靴音を響かせる。
一段目。
カツン。
二段目。
闇の中へ、桃花くんの姿が沈んでいく。
「ちょ、ちょっと待ってよ……!」
私は慌てて後を追った。
恐る恐る。
一段ずつ。
地下へ。
暗闇の中へ。
――その先に何が待っているのか。
この時の私は、まだ知らなかった。




