十二話目 戦う化け物
いつまでも手を取らない私を見て、桃花は不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの、紗季さん?」
その顔は――あまりにも自然だった。
さっきまで目の前で化け物を斬っていた人間とは思えない。
まるで、道端で転んだ友達に声を掛けているだけ。
その温度差が、逆に怖かった。
「……なんなの、この人」
こんな状況なのに。
どうして、そんな顔ができるの?
私は震える身体を抱えながら、桃花を見つめた。
すると、彼は私の顔を覗き込み――。
ふっと口角を上げた。
「もしかして紗季さん……」
悪戯っぽい笑み。
「腰でも抜けた?」
「――っ!」
カッと顔が熱くなる。
「そんなわけないでしょ!」
私は差し出された手を払いのけた。
「ちょっと転んだだけよ!」
……まあ。
本当は、腰が抜けていたのだけれど。
意地だけで身体を起こす。
膝がまだ震えているのを悟られないように、お尻についた土を乱暴に払った。
「遅かったじゃないのよ!」
恐怖を誤魔化すように、私は桃花へ食ってかかった。
「お陰で死害に殺されかけたじゃない!」
「んっ?」
桃花が目を丸くする。
そして、すぐに首を横に振った。
「違うよ。」
「……え?」
「紗季さんを襲ったやつ、死害じゃない」
「死害……じゃない?」
私は思わず聞き返した。
じゃあ――あれは何?
桃花は何でもないことのように、背後へ視線を向ける。
「あそこにいるのが死害。」
指差した先。
赤黒い炎を纏った巨大な異形と、病衣をまとった鬼。
二体はまだ戦っていた。
地面が震える。
轟音が響く。
炎が夜空を赤く染める。
それを見ながら、桃花は淡々と続けた。
「紗季さんを襲ったのは――怨鬼だよ。」
「……おんき?」
聞いたことのない言葉だった。
「怨念の鬼って書いて、怨鬼。」
桃花は少し考えるように顎へ指を当てる。
「簡単に言えば……実体を持った幽霊?」
「幽霊……」
「操り人形みたいなものでもあるかな」
「操り人形……?」
「うーん……」
桃花は腕を組んで唸る。
「ゾンビの方が分かりやすいかな」
「ゾンビ……」
私は思わず呟いた。
……いや。
確かに、さっきの姿を考えれば一番分かりやすい。
でも――。
そんなものが本当に存在しているなんて。
私はもう一度、さっき男が消えた場所へ目を向けた。そこには、落ちた眼鏡だけが残っている。
あれが人間だったのか。
それとも最初から――。
考え始めると、背筋がまた冷たくなった。
「それでね。」
桃花が再び指を上げた。
「あれが、その怨鬼たちを操っていた死害ってわけさ。」
私は桃花の指先を追う。
視線の先では――。
炎の巨人と病衣の鬼が、互いの距離を詰めていた。
炎が爆ぜる。
黒い煙が渦巻く。
巨大な腕が振り下ろされるたびに、大地が震え、病衣の鬼がそれを紙一重で躱す。
鬼の爪が炎の巨人を切り裂けば、赤黒い炎が一瞬だけ散った。
けれど、炎の巨人は怯まない。
二体は互角。
少なくとも、私の目にはそう見えた。
「……それで、あの炎の化け物が?」
「うん」
桃花は頷いた。
「狒々王」
「ひひおう……」
口にしてみる。
何とも奇妙な名前だった。
「火の王とも呼ばれてる。山神の一人だよ。」
「……神様?」
思わず聞き返した。
桃花は待っていましたと言わんばかりに、少しだけ胸を張った。
「そう」
「神様に知り合いがいるの……?」
「まあ、正確には――」
桃花は眼鏡を押し上げる。
「裏伊勢の三種の神器の一柱、って言った方が正しいかな。」
「……裏伊勢の三種の神器?」
その言葉を聞いた瞬間。
この前の神社で聞いた言葉が、頭の中を駆け抜けた。
――裏三種の神器。
あの宮司さん。
そして、桃花。
「それって……」
私は桃花を見た。
「『裏三種の神器』のこと?」
その瞬間だった。
桃花の表情から笑みが消えた。
「……へぇ」
さっきまでのおちゃらけた雰囲気が、ほんの一瞬で消える。
眼鏡の奥の瞳が細くなる。
「よく知ってるね」
「……え?」
「誰から聞いたの?」
声が低い。
私は心臓が跳ねるのを感じた。
「えっと……」
咄嗟に視線を逸らす。
「パソコンで……ちょっと調べてた時に」
「ふーん」
納得したようには、とても見えない。
けれど、それ以上追及することはなかった。
私は胸を撫で下ろし、慌てて話題を変える。
「それで……」
私は戦い続ける二体を見る。
「あの狒々王っていうのは、あんたの仲間なの?」
「そうだよ」
桃花はあっさり答えた。
「僕がお願いしたんだ。」
「お願い?」
「紗季さんを見ていてって。」
「……え?」
私は固まった。
「ここ数日、何かに見られてるような気がしてたんだけど……もしかして。」
「それ、狒々王だよ。」
「…………」
言葉が出なかった。
あの気配。
部活帰りに感じた視線。
角を曲がった先に誰かいるような感覚。
てっきり――。
桃花が私を見張っているのだと思っていた。
まさか。
あんなものが……。
「狒々王が言ってたよ」
桃花は楽しそうに笑う。
「『私の気配に気付く、面白い人間だ』って」
「……気に入られたってこと?」
「そうみたい。」
桃花は嬉しそうに頷いた。
「それでね。」
「まだ何かあるの?」
「『食べたい』ってさぁ」
「…………」
私は固まった。
「……は?」
間の抜けた声が出た。
「ほら、狒々王が紗季さんの事、美味しそうだから食べたいって言うんだ。」
桃花は何でもないことのように繰り返す。
「やっぱりダメ……だよね。」
「……当たり前でしょ!」
私は高速で首を縦に振った。
「食べられるのなんて絶対嫌よ。
気に入ったってそう言う意味なの?」
「アハハ。」
桃花は笑う。
そのあまりにも軽い返事に、私は頭を抱えた。
――何なのよ。
この人。
この世界。
私が昨日まで「ありえない」と思っていたものが、今では当たり前のように目の前に存在している。
そして――。
私がそんなことを考えている間にも。
遠くで、地面を揺らす轟音が響いた。
「――っ!」
私は顔を上げる。
狒々王が大きく腕を振り上げていた。
赤黒い炎が一気に膨れ上がる。
対する病衣の鬼も、身体から黒い煙を噴き出しながら、ゆっくりと身を低くする。
互いの殺気が、離れている私のところまで伝わってくる。
空気が重い。
息が苦しい。
そして――。
二体の異形が、同時に地面を蹴った。
大地が轟いた。
戦いは――最終局面へ入ろうとしていた。
――ドンッ!
二体が同時に地面を蹴った。
次の瞬間。
炎と黒煙が激突した。
「――っ!」
私は思わず腕で顔を覆う。
轟音。
大地を揺らすほどの衝撃。
赤黒い炎が大きく弾け、その向こうから黒い影が飛び出した。
病衣の鬼だ。
その長い腕を振り上げ、狒々王へ襲い掛かる。
けれど――。
狒々王の腕が伸びる。
そして――。
ガシッ。
病衣の鬼の腕を掴んだ。
「――ッ!」
鬼が身を捻る。
逃げようとする。
けれど、もう遅かった。
狒々王が身体を大きく捻り――。
ブチッ。
何かが千切れるような、不気味な音が夜の田園に響いた。
「……!」
病衣の鬼の身体が大きく揺れる。
その腕が、狒々王の手の中にあった。
けれど血は流れない。
傷口から噴き出したのは、真っ黒な煙だった。
煙は夜空へ昇り、風に散っていく。
「ガ……ァ……」
初めて。
病衣の鬼が苦しそうな声を漏らした。
狒々王は、その腕を投げ捨てる。
そして次の瞬間。
残った脚を掴んだ。
「――え?」
私は思わず声を漏らした。
狒々王が腕を振る。
病衣の鬼の身体が宙へ浮いた。
そのまま――。
ズドンッ!
地面へ叩きつけられ、土煙が舞い上がった。
さらに狒々王は鬼の脚を離さない。
ぐるり。
その身体を持ち上げる。
頭が下。
脚が上。
まるで逆さ吊りにされた人形のように、病衣の鬼が宙にぶら下がった。
黒い煙が、身体から絶え間なく漏れている。
狒々王の青い瞳が弧を描き顔を近づけ、その瞳が、病衣の鬼を見据えた。
私は息を呑んだ。
終わったの。
そう思った。
けれど――。
病衣の鬼が。
笑った。
「……え?」
その瞬間。
腹部が大きく裂けた。
「――っ!」
私は声を失った。
そこにあったのは傷口ではない。
暗闇だった。
身体の中に、底の見えない穴が開いている。
その奥から――。
赤い瞳が覗いた。
「……もう一体?」
私の呟きと同時に、黒い腕が飛び出した。
狒々王が反応するより早く、その腕が狒々王の頭部を掴む。
そして――。
「ガァッ!」
狒々王が初めて叫んだ。
病衣の鬼の腹から現れた「何か」が、狒々王へ襲い掛かる。
炎が激しく弾ける。
赤黒い火の粉が夜空へ舞い上がった。
狒々王は必死に振り払おうとする。
けれど、離れない。
黒い異形が狒々王の顔へ食らいついた。
「――ッ!」
私は思わず目を逸らした。
聞こえてきたのは、鈍い音。
そして――。
炎が一気に弱まった。
「嘘……」
狒々王の身体が大きく揺れる。
その巨体から、赤黒い炎が次々と剥がれ落ちていく。
青い瞳の光が――一つ、また一つと消えていく。
それでも狒々王は腕を伸ばした。
病衣の鬼を掴もうとする。
けれど、その手は届かなかった。
「グ……ォ……」
巨体が膝をつく。
地面が震える。
そして――。
ズンッ。
狒々王の身体が、大地へ倒れた。
赤黒い炎が、静かに揺れている。
さっきまで夜を照らしていた巨大な火が――。
今は、消えかけた蝋燭のように弱々しくなっていた。
「……狒々王?」
私は呆然と呟いた。
勝ったと思った。
確かに、そう思った。
なのに。
終わっていなかった。
病衣の鬼が、ゆっくりと起き上がる。
その腹部に開いた黒い穴。
そこから、もう一つの「何か」が這い出してくる。
一体じゃない。
最初から――。
私たちが見ていた死害の中に、もう一体が隠れていたのだ。
私は息をすることさえ忘れて、その光景を見つめていた。
「……嘘でしょ」
そして。
病衣の鬼の赤い瞳が――。
ゆっくりと、私へ向いた。
私の背筋を、冷たいものが這い上がった。
私は桃花くんの腕を掴んだ。
「桃花……! 狒々王がやられちゃった!
ヤバイよ……逃げよう!」
私は桃花の腕を掴んだ。
けれど――。
桃花は、私の手を見下ろした。
それから、倒れた狒々王へ視線を戻す。
「…………」
何かを考えているようだった。
私は固唾を呑んだ。
どうするの桃花、あんなの人間に勝てるわけないじゃない。
私が慌てて手を取ろうとした時だった。
「……ふっ。」
桃花は鼻で笑った。
「お~い、狒々王。」
桃花くんは、倒れ伏した巨体へ向かって声を掛ける。
「そろそろ遊ぶのは止めて、そいつを――」
一瞬。
桃花くんの瞳から笑みが消えた。
「――始末しろ。」




