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闇に咲く桃花  作者: しんいち
第二章

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十一話目 夜を裂く白刃

「人間……助けてやろうか。」

 

「……え?」

 

 声がした。

 けれど、私は動けなかった。

 いや――動かなかったんじゃない。

 ――動けなかった。

 

 私の足元。

 

 月明かりに照らされた私の影の中にいる「何か」が、じっと私を見ていたからだ。

 

 影が、揺れる。

 風なんて吹いていない。

 それなのに、私の影だけが水面のように波打っていた。

 

 そして――。

 

 ボッ。

 

 影の中心から、赤黒い炎が吹き上がった。

 

「きゃああああっ!」

 

 突然の炎に驚き、私はその場に尻餅をつく。

 けれど、不思議なことに熱は感じなかった。

 

 炎なのに。

 

 触れてもいないのに。

 

 ただ、そこにあるだけで本能が「近づくな」と叫んでいる。

 

 赤黒い炎は地面を這い、私の足元を包み込む。

 

 そして――。

 燃え広がった炎が、ゆっくりと一つの形を作り始めた。

 

 腕。

 脚。

 胴体。

 

 最後に頭部が持ち上がる。

 

 炎の中から現れたのは、人間とは到底呼べない異形だった。

 

 二メートルほどもある巨体。

 異様に張り出した肩。

 地面へ届きそうなほど長い腕。

 

 人間というより、巨大な猿を無理やり人の形にしたような姿だった。

 

 そして、その顔に浮かんでいるのは――二つの青い瞳。

 

 炎の中に浮かぶ、冷たい青。

 

 それが私を見下ろしていた。

 

「人間……」

 

 地の底から響いてくるような声。

 

「は、はい……」

 

 返事をすることしかできなかった。

 巨人はゆっくりと病衣の鬼へ顔を向ける。

 

「そこにいろ」

 

 私は震えながら頷いた。

 すると巨人は、腕をゆっくりと上げる。

 

「眷属よ」

 

 その言葉に呼応するように――。

 暗闇の中で、青い光が灯った。


 私は周囲を見渡し、息を飲んだ。


 三つや四つ

 

 ……違う。

 そんな数じゃない。

 

 赤い瞳を取り囲むように、無数の青い光が次々と浮かび上がっていく。

 

 何十。

 いや……それ以上。

 

 夜の闇に、星のように無数の瞳が開いた。

 

「駆逐せよ」

 

 巨人の声が響いた。

 

 次の瞬間。

 青い光が、一斉に動いた。

 

 まるで獲物に群がる獣の群れ。

 赤い瞳の男たちへ、一斉に襲いかかる。

 

「うわあああああっ!」

 

 静寂に包まれていた田園に、悲鳴が響き渡った。

 

 何かが地面を叩く。

 何かが弾き飛ばされる。


 黒い影が、夜空を横切り、次の瞬間、地面に何かが落ちた。

 それが何なのか、私は確認することができなかった。 

 

 赤い光が消え。

 また一つ、青い光が走る。

 

 そのたびに黒い煙が噴き上がり、異形たちの姿が霧のように崩れていった。

 

 何が起きているのか分からない。

 

 分からないのに――。

 

 目の前では、確かに何かが殺し合っている。

 

 ドサッ。

 

「ひぃっ!」

 

 突然、何かが私のすぐ前に落ちてきた。

 私は反射的に後ずさる。

 

 それは――腕だった。

 

 けれど、そこから血は流れていない。

 傷口から溢れ出しているのは、血ではなく黒い煙。

 

 煙は地面へ落ちることもなく、ゆっくりと宙へ昇っていく。

 

 そして――消えた。

 

「……人じゃない」

 

 震える唇から、言葉が漏れた。

 

 やっぱりそうだ。

 あの男たちは人間じゃない。

 

 だったら……。

 今、私が見ているものは何?

 

 化け物と化け物が、夜の田んぼで殺し合っている。

 

 その中心に、私はいる。

 逃げたい。

 今すぐ走って逃げたい。

 

 けれど――。

 

 四方から響く、鈍い衝撃音。

 何かが地面を引き裂く音。

 獣のような咆哮。

 そして、時折聞こえる悲鳴。

 

 私は耳を塞ぎ、その場に身を縮こませた。

 歯がカチカチと鳴る。

 

 怖い。

 怖いなんて言葉では足りない。

 これはもう――私の知っている世界じゃない。

 

 その時だった。

 

 ズン……。

 

 大地が揺れた。

 顔を上げる。

 赤黒い炎を纏った巨人が、一歩前へ踏み出していた。

 

 その先にいるのは――病衣の鬼。

 

 周囲にいた異形たちは、すでにほとんど姿を消している。

 残った二体が、互いを睨み合っていた。

 

 病衣の鬼が笑う。

 

 人間だった頃の面影など、もうどこにもない。

 裂けた口がゆっくりと吊り上がり、その奥から覗く牙が白く糸を引いていた。

 

 対する炎の巨人は何も言わない。

 

 ただ、両腕をゆっくりと広げる。

 赤黒い炎が、腕から肩へと巻き上がった。

 

 空気が歪む。

 

 地面の草が、熱ではなく「何か」に怯えるように揺れ始めた。

 

 病衣の鬼も姿勢を低くする。

 

 その瞬間――。

 二体の視線が交差した。

 空気が凍ったように感じた。

 

 そして。

 

 炎の巨人が――踏み込んだ。

 

 ズンッ!

 

 地面が沈む。

 巨大な腕が振り抜かれ、病衣の鬼が横へ跳ぶ。

 轟音と共に拳が地面へ叩き込まれ、土と草が一気に舞い上がった。

 

「……っ!」

 

 私は息を呑む。

 速い。

 あんな巨体なのに――速すぎる。

 

 病衣の鬼が跳ねる。

 次の瞬間、その身体が黒い煙へと変わった。

 

「消えた……?」

 

 違う。

 背後だ。

 炎の巨人の背後へ回り込んだ鬼が、腕を振り上げる。

 

 だが――。

 炎の巨人は振り返りもしない。

 長い腕だけを後ろへ伸ばした。

 

 ガッ!

 

 鬼の腕を掴む。

 

「――ッ!」

 

 初めて、鬼の口から声が漏れた。

 炎の巨人がそのまま腕を引く。

 病衣の鬼の身体が宙へ浮いた。

 

 そして――。

 

 地面へ叩きつけられる。

 

 ズドンッ!

 

 土煙が舞い上がった。

 それでも鬼は倒れない。

 四つん這いのような姿勢から、ゆっくりと顔を上げる。

 

 裂けた口が――笑っていた。

 

 その瞬間。

 

 私は気づかなかった。

 自分のすぐ背後。

 闇の中に――。

 二つの赤い瞳が浮かんでいたことに。

 

 ――ガサッ。

 

 すぐ背後で、何かが動いた。

 私は反射的に振り返る。

 

 その瞬間だった。

 

 ――ギュッ。

 

「え……?」

 

 腕を掴まれた。

 

 人の手だった。

 

 稲穂の隙間から伸びてきた、青白い腕。

 まるで血が通っていないような皮膚。

 細く、異様に長い指。

 そして、その指先から伸びた爪が――私の腕に食い込んでいた。

 

「きゃあああああっ!」

 

 私は必死に腕を振った。

 

「離して! 離してよ!」

 

 けれど、離れない。

 むしろ振りほどこうとするほど、爪が深く食い込んでくる。

 

 痛い。

 怖い。

 

 なのに――。

 

 私の視線は、その腕が伸びてきた稲穂の奥から離れなかった。

 

 何かいる。

 そこに――何かがいる。

 

 そして。

 稲穂の隙間で――二つの赤い光が灯った。

 

「……ヅガマエダ……」

 

「……っ!」

 

 人の声。

 けれど、人の声じゃない。

 喉の奥に泥でも詰まっているような、濁った声だった。

 

 全身に鳥肌が走った。

 悲鳴すら出ない。

 腕に食い込んでいる爪の痛みさえ、もう感じなかった。

 

 頭の中に、たった一つの言葉だけが浮かぶ。

 

 ――殺される。

 

 そう思った瞬間、身体が勝手に動いた。

 

「いやぁぁぁっ!」

 

 私は残った力を振り絞り、腕を思い切り引いた。

 

 すると――。

 

 稲穂が大きく揺れた。

 

 ガサガサッ。

 

 その奥から、それが姿を現した。

 

「……え?」

 

 男だった。

 眼鏡を掛けている——普通の男の人。

 

 けれど――。

 

 明らかに、生きている人間ではなかった。

 

 肌は死人のように青白く、瞳には光がない。

 焦点の合わない目が、ただ私だけを見つめている。

 口は半開き。

 そこから、かすかな黒い煙が漏れていた。

 

 そして――。

 

 私は息を呑んだ。

 男には、下半身がなかった。

 

 腰から下が、まるごと消えている。

 切断されたのか。

 ただ、そこだけが最初から存在しなかったかのように、黒い煙が渦を巻いている。

 

「いや……」

 

 私は後ずさろうとした。

 けれど腰が抜けて、足に力が入らない。

 

 男はそんな私に這いずって近づき、ゆっくりと残ったもう一方の腕を伸ばした。

 

 指先が――私の喉へ向かってくる。

 

「いや……来ないで……」

 

 声にならない。

 顎だけが、わなわなと震える。

 

 逃げなきゃ。

 なのに、動けない。

 

 男の指が、私の首筋に触れた。

 

 冷たい。

 氷よりも冷たい指先。

 

 そして――。

 その手が、私の喉を掴もうとした。

 

 ――その瞬間。

 

 キィンッ!

 

 暗闇を切り裂くような音が響いた。

 

「――え?」

 

 何かが、私の目の前を横切った。

 

 白銀の光。

 次の瞬間――。

 

 ザクッ。

 

 男の両腕が、同時に切り落とされた。

 

「……っ!」

 

 私は声を失った。

 何が起きたのか理解できない。

 ただ、白銀の刃だけが見えた。

 

 刀……?

 

 それが稲穂の中へと引き戻される。

 

 そして――。

 

 ズブッ。

 

 今度は、男の身体そのものを貫いた。

 男の動きが止まる。

 まるで糸を切られた人形のように、身体がぴたりと静止した。

 

「……ぁ……」

 

 声にならない声。

 男の身体が小刻みに震える。

 

 すると――。

 

 目から。

 耳から。

 口から。

 

 身体中の穴という穴から、黒い煙が噴き出した。

 

 煙は男の姿を包み込む。

 そして、その輪郭が崩れていく。

 人の形が、少しずつ。

 少しずつ。

 夜の闇へ溶けるように消えていった。

 

 最後に残ったのは――。

 空っぽの眼鏡だけだった。

 

 カラン。

 

 乾いた音を立て、眼鏡が地面へ落ちる。

 

「…………」

 

 私は何も言えなかった。

 ただ、その場に座り込んだまま、目の前に落ちた眼鏡を見つめていた。

 

 今のは何?

 誰が――あれを斬ったの?


 稲穂が、ゆっくりと揺れた。

 風は吹いていない。


 それなのに。


 一歩。


 また一歩。


 誰かがこちらへ近づいてくる。


 私は息を呑んだ。


 そして――。


 稲穂の向こうから、少年が姿を現した。


 月明かりを受けた黒い髪。

 見慣れた顔。

 手には、白銀の刀。


 「……桃花……?」 

  

 どうしてここに。

 どうして――。

 そんな疑問すら口にできない。

 

 桃花くんは刀を軽く振る。

 刃についた何かを払うような仕草。

 そして何事もなかったかのように刀を収めると、私へ歩み寄ってきた。

 

 その顔には、戦っていた者とは思えないほど穏やかな笑みが浮かんでいる。

 

 私の前で立ち止まり。

 桃花は、いつもの調子で手を差し出した。


 「紗季さん、大丈夫?」


 「…………」


 返事ができなかった。

 私は差し出された手を見つめる。


 さっきまで、あの刀を握っていた手。

 あの化け物を、何の躊躇いもなく斬った手。

 それが今は、私を助け起こそうとしている。


 「……どうしたの?」


 桃花が首を傾げる。


 いつもの笑顔だった。


 優しい笑顔。


 なのに――。


 私は、その手を取ることができなかった。


 怖い。


 助けてもらったはずなのに。

 この人の方が――。


 ずっと怖い。

 


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