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闇に咲く桃花  作者: しんいち
第二章

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十話目 病衣の鬼


 スマートフォンのライトを点けたい。

 

 そう思った。

 

 けれど、こんな暗闇の中で光を点ければ、私の存在を知らせるようなものだ。

 

 月明かりは出ている。

 

 それでも、足元を照らすにはあまりにも弱い。

 私は何度も足を止めながら、手探りで田んぼの中を進んだ。

 

 乾いた稲穂が腕に触れる。

 葉先が服を擦る。

 そのたびに、びくりと肩が跳ねた。

 

 ――怖い。

 帰りたい。

 

 そう思っているのに、ここまで来てしまった。

 私は稲穂をかき分け、ようやく建物のすぐ近くまで辿り着いた。

 

 建物の横の木々の影に身を隠す。

 ここなら、向こうからは私の姿が見えないはず。

 

 私はしゃがみ込み、荒くなった息を必死に抑えた。

 

 ……人の声は聞こえない。

 

 なのに。

 いる。

 何かが、ここにいる。

 

 そんな気配だけが、濃く漂っていた。

 

 大勢の人間がいるような。

 けれど、誰一人として喋っていないような。

 静かすぎる気配。

 

「やっぱり……肝試しじゃないわね。」

 

 自嘲気味に呟いて、怖さを紛らわせる。

 

 もちろん、返事なんてない。

 聞こえるのは、風に揺れる木々の音だけ。

 そして――。

 青白い光が、また闇の中に浮かび上がった。

 

 私は息を止めた。

 何度見ても、懐中電灯ではない。

 

 もっと淡く。

 もっと丸い。

 

 まるで夜の中に浮かぶ、小さな月のような光。

 けれど、その光には妙な違和感があった。

 

 冷たい。

 見ているだけで、身体の奥まで冷えていくような光だった。

 

 私は首を傾げながら、ゆっくりと息を整える。

 

 ……一瞬だけ。

 

 ほんの一瞬だけ顔を出せばいい。

 次に光が現れた瞬間、首を伸ばして確認する。

 そして、すぐに隠れる。

 そうすれば大丈夫。

 

 私は腰を屈めたまま、木陰からほんの少しだけ顔を出した。

 

 光を待つ。

 まだ。

 まだ……。

 そして――。

 

 光が灯った。

 私は顔を上げた。

 

 ――その瞬間。

 

 身体が凍りついた。

 

「……なに……あれ。」

 

 声にならなかった。

 そこにいたのは、一人や二人ではなかった。

 大勢の男たち。


 淡い光に照され浮かび上がった、黒い影のような人影が、古びた祠を取り囲んでいる。

 

 誰も喋らない。

 誰も動かない。

 

 ただ、祠を囲むように人形のように立っている。

 

 そして、その輪の中心。

 あの病衣の女がいた。

 俯いたまま、じっと祠を見つめている。

 

 何をしているの。

 

 ここで。

 こんな夜中に。

 そう思った次の瞬間だった。

 

 祠の奥から――。

 青白い光が、ゆっくりと浮かび上がった。

 

 ふわり。

 宙へ浮いた光は、女の横を通り過ぎていく。

 

 そして。

 その光が弾けた。

 

 青白い煙が、空中へ広がる。

 それは一度、腕のような形を作った。

 

 次に、足。

 そして――頭。

 

「……え?」

 

 私は目を疑った。

 霧散した光の煙が。

 人の形を作っていく。

 

 青白い光が薄れていく。

 すると、そこに立っていたのは――。

 

 人間だった。

 確かに、人の姿をしている。

 

 けれど。

 どうして。

 どこから現れたの。

 

 私は声を出すことすら忘れ、その光景を見つめていた。

 

 喉が勝手に鳴る。

 

 ごくり。

 

 その音さえ、この静寂の中では大きすぎるように感じた。

 

「……もしかして。」

 

 唇が震える。

 

「……あれが……桃花たちの言っていた……」

 

 ――死害。

 その言葉を口にした途端。

 祠から、また青白い光が浮かび上がった。

 

 すっと。

 夜空へ伸びていく。

 

 まるで、何かを呼び寄せるように。

 

「……っ。」

 

 もう無理。

 ここにいてはいけない。

 

 ——逃げなきゃ。

 

 私はようやく我に返った。

 

 桃花。

 桃花に知らせないと。

 昨日までなら馬鹿にしていた言葉。

 

 鬼。

 死害。

 

 そんなものが本当に存在するなんて、信じたくもなかった。

 

 でも。

 今、私の目の前にある、あの光景——

 

 私は慌てて顔を引っ込めた。

 そして踵を返そうとした、その時――。

 

 ――ガサッ。

 

「……!」

 

 服が何かに引っ掛かった。

 

 枝。

 

 私はそこで初めて気付いた。

 逃げようとした拍子に、木の枝が服に絡みついていたことに。

 

 外そうと手を伸ばす。

 けれど。

 指が震えて、うまく動かない。

 

 ――まずい。

 

 今の音。

 絶対に聞こえた。

 額から汗が流れ落ちる。

 

 一滴。

 また一滴。

 

 枯れ葉の上に落ちて、消えていく。

 

 私は動けなくなった。

 振り返れない。

 怖いからじゃない。

 

 ――背後に何かいる。

 

 そう感じた。

 すぐ後ろ。

 手を伸ばせば届きそうな距離。

 

 そこに。

 何かが立っている。

 

 息ができない。

 身体が動かない。

 涙が勝手に頬を伝っていく。

 

 お願い。

 動いて。

 

 お願いだから。

 動いてよ……!

 

 心の中で何度も叫ぶ。

 その時だった。

 

 ――ガサッ。

 

 今度は。

 すぐ後ろから聞こえた。

 

「――っ!」

 

 身体が跳ねる。

 

 動けた。

 

 私は振り返ることもせず、その場から這うように逃げ出した。

 

「誰か……。」

 

 声が震える。

 

「誰か、助けて……。」

 

 自分でも驚くほど弱々しい声だった。

 

 もちろん、返事はない。


 後悔……、ここに来てしまった後悔。

 そんなことを考えている余裕などない。

 

 私は必死に前へ進む。

 

 けれど――。

 

「……え?」

 

 目の前が塞がれていた。

 乾いた稲穂。

 逃げ道を覆い隠すように、無数の稲が立ち塞がっている。

 

「もう……!」

 

 私は立ち上がり、両手で稲穂をかき分けた。

 

 そして……気付いた。

 

 ……おかしい。

 

 静かすぎる。

 

 さっきまで聞こえていた虫の囁き、頬を撫でる風の感覚すら消えている。

 

 私はゆっくりと顔を上げた。

 

 そして……見えた。

 

「……え。」

 

 赤い光。

 

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 

 暗闇の中に、何十もの赤い光が浮かんでいる。

 私は息を呑んだ。

 

 それは――目だった。

 

 男たちが。

 いつの間にか私を取り囲んでいる。

 

 誰一人として声を発さない。

 ただ、全員が。

 私だけを見ていた。

 赤く光る両目で。

 

「……いや。」

 

 一歩、後ずさる。

 

 すると。

 その男たちの向こう。

 

 祠の方から、ゆっくりと何かが歩いてきた。

 

 最初に見えたのは、白い病衣。

 

 けれど。

 もう、あの女ではなかった。

 

 全身から黒い煙が立ち上っている。

 煙は身体を覆い、輪郭を歪ませていた。

 

 顔が見えない。

 

 ただ――。

 

 二つの赤い目だけが、闇の中に浮かんでいる。

 そして。

 

 その赤い目が、私を捉えた。

 

「……ひっ。」

 

 喉の奥から、小さな声が漏れる。

 黒い煙の中で、口が開いた。

 

 人間のものとは思えないほど大きく。

 裂けるように。

 

 その口元が、ゆっくりと歪んだ。

 笑っている。

 

 そう理解した瞬間。

 

 額から何かが突き出しているのも分かった。

 

 一つ。

 そして、もう一つ。

 

 月明かりに照らされ、その輪郭がはっきりと浮かび上がる。

 

 ――角。


 不規則に突き出た二本の角。

 

「……鬼。」

 

 震える唇から、言葉が漏れた。

 

 もう、女ではない。

 人間でもない。

 そこにいたのは。

 

 私を見つめる、異形の存在だった。

 

「……助けて。」

 

 涙が溢れる。

 声が震える。

 

「助けて……。」

 

 誰に言っているのか、自分でも分からない。

 それでも。

 頭に浮かんだ名前だけを、私は必死に呼んだ。

 

「……桃花。」

 

 その瞬間だった。

 月明かりに照らされ、地面へ伸びていた私の影が――。

 

 ゆらり、と揺れた。

 

「……え?」

 

 私の影ではない。

 その影の中に。

 

 青い光が二つ。

 ゆっくりと浮かび上がった。

 

 弧を描くように細められた二つの光が、私を見上げる。

 

 ――目が合った。

 

 そして……

 私は、自分の足元から聞こえた声を聞いた。

 

 低く。

 かすかに笑うような声で。

 

 ――「人間……助けてやろうか。」


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