九話目 田園の向こう側
私は玄関を飛び出すと、病衣姿の女が歩いて行った方角へと足を向けた。
――美咲さんじゃない。
なら、きっとあの人だ。
顔までははっきり見えなかった。 けれど、私の頭に浮かんだのは、あの家族写真に写っていた少女。
悠斗くんのお姉さん――。
どうして、こんな時間に外へ出たのだろう。
しかも、あの服装。
病衣のような白い服をまとい、夜の住宅街を一人歩く姿は、どう考えても普通じゃない。
引きこもりだと聞いていたけれど、精神的な病気なら、家を抜け出して徘徊してしまうこともあるのかもしれない。
そんな考えが頭をよぎり、私は自然と歩幅を速めた。
すると――。
街路灯の明かりが届く角を、一つの人影が静かに曲がっていくのが見えた。
「いた……!」
私は慌てて駆け出す。
けれど、すぐに追いつけると思っていた距離は、一向に縮まらなかった。
急いでいるはずなのに。
女との間隔だけが、不自然なほど変わらない。
私は息を整えながら、女が曲がった角までたどり着き、物陰からそっと先を覗き込む。
「……あれ?」
もう、あんな先にいる。
ついさっきまで見えていたはずなのに。
まるで、私が近づくたびに同じだけ離れていくようだった。
声を掛けようかと思った。
けれど、その瞬間。
胸の奥で、小さな警鐘が鳴る。
――駄目。
――声を掛けちゃいけない。
理由は分からない。
それでも私は、その違和感に逆らえず、気づかれないよう距離を保ったまま後を追うことにした。
どこへ向かっているのだろう。
目的地があるのか。
それとも、ただ当てもなく歩いているだけなのか。
私はポケットからスマートフォンを取り出し、時間を確認する。
十分。
十分だけ様子を見よう。
もし戻って来なければ、その時は悠斗くんか美咲さんに連絡を入れよう。
そう決めて、私は再び歩き始めた。
住宅街を抜けると、景色は一変した。
人の気配は消え、古びた家がぽつぽつと建っているだけ。
街路灯の数も急に少なくなり、辺りは夜の闇に飲み込まれていく。
道の脇には田んぼが広がり、小さな川が静かに流れていた。
虫の鳴き声だけが耳に残る。
昼間なら何でもない田舎道。
なのに夜になるだけで、まるで別世界のように感じられる。
そして女は、不意に立ち止まった。
一本の街路灯。
その真下にぼんやりと立ち、何かを見つめている。
私は暗闇へ身を潜め、息を殺す。
街路灯の白い光が、女の姿だけを舞台のように照らしていた。
彼女は微動だにしない。
ただ、じっと暗闇の一点を見つめている。
——何を見ているの?
私も目を凝らしたが、そこには何も見えない。
それでも、心臓だけが嫌な音を立て始めていた。
スマートフォンを見る。
十分が過ぎていた。
そろそろ連絡を――。
そう思った、その時だった。
女が、ゆっくりと歩き出す。
しかし、その進んだ先は道路ではなかった。
直角に向きを変え、そのまま田んぼの中へ足を踏み入れたのだ。
「えっ……。」
私は思わず目を丸くした。
田んぼに水は張られていない。
乾いた稲株が残るだけだ。
それでも、あんな場所を迷いなく歩けるだろうか。
しかも。
街灯の届かない闇の中を。
まるで足元など見えているかのように。
いや――。
歩いているの……?
違う。
私の目には、一歩も踏みしめていないように見えた。
地面を滑るように。
音もなく。
夜の闇を漂うように。
女は田んぼの奥へと進んでいく。
私は息を呑み、その先へ視線を向けた。
「……何、あれ。」
田んぼの中央付近。
黒い影のように木々が集まる一角がある。
その奥に、小さな建物の屋根がかすかに見えた。
田んぼの真ん中に一軒家?。
いや……祠?
それとも、小さな神社なのかな。
暗すぎて判別できない。
——流石にここまでよね。
私はスマートフォンを握りしめた。
もう、電話を掛けよう。
そう思った。
けれど、画面を開いたまま指が止まる。
ここを、どう説明すればいいの。
目印になる建物もない。
住所なんて分かるはずもない。
だからといって、あそこへ近づく勇気もなかった。
さっき見た女の動き。
あれは本当に人間だったのだろうか。
見間違い。
そう思いたい。
けれど、胸の奥では別の答えが静かに膨らんでいく。
「……一度、帰ろう。」
お母さんに相談しよう。
そう決め、私は踵を返しかけた。
その瞬間だった。
木立の奥で、小さな光が灯る。
ふっと現れ。
すぐに消える。
そしてまた、少し離れた場所で光が灯った。
蛍ではないのはすぐに分かる。
蛍にしては光が強すぎる。
何より、その動きがあまりにも直線的だった。
誰かが、懐中電灯でも振っているような光。
――他にも誰かいるの。
その考えが頭をよぎる。
胸の奥で、恐怖よりも強い感情が芽を出した。
好奇心。
いや……、確かめたいという衝動だった。
宗教団体の集まり。
あるいは、何かの儀式?
もしかして……友達と肝試し。
あり得ないと思いながらもそんな楽観的な答えが頭を過る
——やっぱり確かめておきたい。
もちろん、危険だとは思っていた。
でも。
あの女性が悠斗くんのお姉さんなら、こんな場所に一人でいることの方が危険だ。
そう思った瞬間、私はもう引き返せなくなっていた。
私は深く息を吸い込み、木立の方へと静かに歩き始めた。




