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闇に咲く桃花  作者: しんいち
第二章

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九話目 田園の向こう側


 私は玄関を飛び出すと、病衣姿の女が歩いて行った方角へと足を向けた。

 

 ――美咲さんじゃない。

 

 なら、きっとあの人だ。

 

 顔までははっきり見えなかった。  けれど、私の頭に浮かんだのは、あの家族写真に写っていた少女。

 

 悠斗くんのお姉さん――。

 

 どうして、こんな時間に外へ出たのだろう。

 しかも、あの服装。

 

 病衣のような白い服をまとい、夜の住宅街を一人歩く姿は、どう考えても普通じゃない。

 

 引きこもりだと聞いていたけれど、精神的な病気なら、家を抜け出して徘徊してしまうこともあるのかもしれない。

 

 そんな考えが頭をよぎり、私は自然と歩幅を速めた。

 

 すると――。

 

 街路灯の明かりが届く角を、一つの人影が静かに曲がっていくのが見えた。

 

「いた……!」

 

 私は慌てて駆け出す。

 けれど、すぐに追いつけると思っていた距離は、一向に縮まらなかった。

 

 急いでいるはずなのに。

 

 女との間隔だけが、不自然なほど変わらない。

 私は息を整えながら、女が曲がった角までたどり着き、物陰からそっと先を覗き込む。

 

「……あれ?」

 

 もう、あんな先にいる。

 ついさっきまで見えていたはずなのに。

 まるで、私が近づくたびに同じだけ離れていくようだった。

 

 声を掛けようかと思った。

 けれど、その瞬間。

 胸の奥で、小さな警鐘が鳴る。

 

 ――駄目。

 ――声を掛けちゃいけない。

 

 理由は分からない。

 それでも私は、その違和感に逆らえず、気づかれないよう距離を保ったまま後を追うことにした。

 

 どこへ向かっているのだろう。

 目的地があるのか。

 それとも、ただ当てもなく歩いているだけなのか。

 

 私はポケットからスマートフォンを取り出し、時間を確認する。

 

 十分。

 十分だけ様子を見よう。

 

 もし戻って来なければ、その時は悠斗くんか美咲さんに連絡を入れよう。

 そう決めて、私は再び歩き始めた。

 

 住宅街を抜けると、景色は一変した。

 

 人の気配は消え、古びた家がぽつぽつと建っているだけ。

 街路灯の数も急に少なくなり、辺りは夜の闇に飲み込まれていく。

 

 道の脇には田んぼが広がり、小さな川が静かに流れていた。

 

 虫の鳴き声だけが耳に残る。

 昼間なら何でもない田舎道。

 

 なのに夜になるだけで、まるで別世界のように感じられる。

 

 そして女は、不意に立ち止まった。


 一本の街路灯。

その真下にぼんやりと立ち、何かを見つめている。

 

 私は暗闇へ身を潜め、息を殺す。

 

 街路灯の白い光が、女の姿だけを舞台のように照らしていた。

 

 彼女は微動だにしない。

 ただ、じっと暗闇の一点を見つめている。

 

 ——何を見ているの?

 

 私も目を凝らしたが、そこには何も見えない。

 それでも、心臓だけが嫌な音を立て始めていた。

 

 スマートフォンを見る。

 十分が過ぎていた。

 

 そろそろ連絡を――。

 

 そう思った、その時だった。

 女が、ゆっくりと歩き出す。

 

 しかし、その進んだ先は道路ではなかった。

 直角に向きを変え、そのまま田んぼの中へ足を踏み入れたのだ。

 

「えっ……。」

 

 私は思わず目を丸くした。

 田んぼに水は張られていない。

 乾いた稲株が残るだけだ。

 それでも、あんな場所を迷いなく歩けるだろうか。

 

 しかも。

 街灯の届かない闇の中を。

 まるで足元など見えているかのように。

 

 いや――。

 歩いているの……?

 

 違う。

 私の目には、一歩も踏みしめていないように見えた。

 

 地面を滑るように。

 音もなく。

 夜の闇を漂うように。

 女は田んぼの奥へと進んでいく。

 

 私は息を呑み、その先へ視線を向けた。

 

「……何、あれ。」

 

 田んぼの中央付近。

 黒い影のように木々が集まる一角がある。

 その奥に、小さな建物の屋根がかすかに見えた。

 

 田んぼの真ん中に一軒家?。

 

 いや……祠?

 

 それとも、小さな神社なのかな。

 

 暗すぎて判別できない。


 ——流石にここまでよね。


 私はスマートフォンを握りしめた。


 もう、電話を掛けよう。


 そう思った。

 

 けれど、画面を開いたまま指が止まる。

 ここを、どう説明すればいいの。

 

 目印になる建物もない。

 住所なんて分かるはずもない。

 

 だからといって、あそこへ近づく勇気もなかった。

 

 さっき見た女の動き。

 あれは本当に人間だったのだろうか。

 見間違い。

 そう思いたい。

 けれど、胸の奥では別の答えが静かに膨らんでいく。

 

「……一度、帰ろう。」

 

 お母さんに相談しよう。

 そう決め、私は踵を返しかけた。

 

 その瞬間だった。

 

 木立の奥で、小さな光が灯る。

 ふっと現れ。

 すぐに消える。

 そしてまた、少し離れた場所で光が灯った。

 

 蛍ではないのはすぐに分かる。

 

 蛍にしては光が強すぎる。

 何より、その動きがあまりにも直線的だった。

 誰かが、懐中電灯でも振っているような光。

 

 ――他にも誰かいるの。

 

 その考えが頭をよぎる。

 胸の奥で、恐怖よりも強い感情が芽を出した。

 

 好奇心。

 いや……、確かめたいという衝動だった。


 宗教団体の集まり。

 あるいは、何かの儀式?

 

 もしかして……友達と肝試し。

 あり得ないと思いながらもそんな楽観的な答えが頭を過る


 ——やっぱり確かめておきたい。


 もちろん、危険だとは思っていた。


 でも。


 あの女性が悠斗くんのお姉さんなら、こんな場所に一人でいることの方が危険だ。


 そう思った瞬間、私はもう引き返せなくなっていた。 

 

 私は深く息を吸い込み、木立の方へと静かに歩き始めた。


 




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