三話目 境内で出会った二人
私は悠斗くんの家を飛び出したあと、あてもなく歩き続けていた。
どこへ向かえばいいのか、自分でも分からない。
家へ帰る気には、どうしてもなれなかった。
宿題はやらなくちゃいけない。
そんなことは分かっている。
けれど、自室の窓から見えるあの洋館を思い浮かべただけで、胸の奥が冷たく強張る。
あの光景が脳裏に蘇るたび、机に向かうどころではなくなってしまう。
それに――。
明日から、私はあの家族とどんな顔をして会えばいいのだろう。
どこか噛み合わない笑顔。
言葉では説明できない居心地の悪さ。
そんな漠然とした違和感は、恒一さんの"あれ"を見た瞬間、疑いではなく確信へと変わってしまった。
――あの家は、おかしい。
胸の奥で誰かが囁き続ける。
誰かに話したい。
この胸につかえたものを吐き出したい。
どうすればいいのか、教えてほしい。
自分勝手だと分かっている。
それでも答えを探すように歩き続けた足は、気づけば町外れにある大きな神社へと向かっていた。
朱色の鳥居をくぐる。
一歩足を踏み入れた瞬間、町の喧騒が遠ざかった。
木々を揺らす風の音。
葉擦れの音だけが静かな境内に響いている。
長い石畳をゆっくり歩く。
やがて立派な本殿が見え、その隣に建つ社務所へ自然と視線が向いた。
本当に、こんな話を信じてもらえるのだろうか。
「家族がおかしい」なんて曖昧な話を。
そもそも神社で、ああいうものをどうにかできるのだろうか。
近所に住む家族の問題に、私なんかが首を突っ込んでいい話でもない。
そう自分に言い聞かせても、頭から離れない顔があった。
悠斗くん。
勉強を教えれば、目を輝かせて「ありがとう」と笑う。
一緒にゲームをすれば、私が本気になって悔しがる姿を見て、腹を抱えて笑ってくる。
年の離れた弟みたいな存在。
その笑顔を思い浮かべるたび、胸が締めつけられた。
初めて会った日の、あの寂しそうな表情。
不安を押し隠すような笑顔。
あの時、彼は姉のことを話していた。
でも、本当に悩んでいたのは、それだけだったのだろうか。
洋館を出てからというもの、その疑問だけが私の中で膨らみ続けていた。
「……どうしよう。」
小さく漏れた声は、静まり返った境内へ吸い込まれていく。
社務所へ向かう決心がつかず立ち尽くしていると、不意に本殿の扉が音を立てて開いた。
二人の男性が姿を現す。
「それでは、あとのことは……」
「はい。あれの始末はこちらで済ませておきます。」
思わず息を止めた。
"あれ"。
何の話だろう。
一人は白衣に紫の袴をまとった、五十代ほどの神主。
もう一人は、水色のジャケット姿の男性だった。
口髭を整え、丸い眼鏡の奥で柔らかな笑みを浮かべている。
年齢は四十代前半くらいだろうか。
どこか人当たりの良さそうな雰囲気なのに、不思議と目だけが鋭かった。
私は視線が合う前に慌てて顔を逸らす。
――やっぱり帰ろう。
そう思って踵を返した、その時だった。
「ねぇ、君。」
優しい声が背中から飛んできた。
振り返ると、水色のジャケットの男性がこちらへ歩いて来る。
「は、はい……。」
緊張で声が少し震えた。
「宮司さんに何か用事かな?」
「あ……いえ、その……参拝に来ただけです。」
自分でも分かるくらい、不自然な笑顔だった。
男性は小さく首を傾げる。
「本当に?」
穏やかな声。
けれど、その視線だけは私の奥底まで見透かしているようだった。
「何か相談したいことがあって来た……そんな顔をしているよ。」
心臓が、大きく跳ねた。
どうして。
何も話していないのに。
言葉が喉で止まり、視線を逸らすこともできない。
そんな私を見て、男性はふっと表情を和らげた。
「安心して。」
その声は、不思議なくらい穏やかだった。
「私は別の神社で宮司をしている者なんだ。もし良ければ、話くらい聞けると思う。」
そう言って社務所を指差す。
「お茶とお菓子くらいしか出せないけど……どうかな?」
あまりにも自然な誘い文句に、張り詰めていた緊張が少しだけほどけた。
——ナンパみたい。
思わず、小さく笑ってしまう。
「……はい。少しだけ。」
私は静かに頷いた。
その時はまだ知らなかった。
この小さな返事が、朝霧家に隠されたおぞましい真実へ足を踏み入れる最初の一歩だったことを。
☆★
社務所へ案内された私は、応接室らしき部屋へと通された。
年季の入った木製の棚には、神事に使う道具や古びた書物が整然と並び、部屋の隅には季節の花が静かに飾られている。
外の蝉時雨が、障子越しにぼんやりと聞こえてきた。
「少し待っていてね。」
そう言い残し、口髭の男性は部屋を出ていく。
私は勧められるままソファへ腰を下ろし、落ち着かない気持ちのまま室内を見渡した。
不思議と、この部屋だけ空気が澄んでいる。
さっきまで胸にまとわりついていた重苦しさが、ほんの少しだけ薄らいだ気がした。
「お待たせ。」
扉が開き、男性が戻ってくる。
両手には湯気の立つコーヒーと、小皿に盛られた焼き菓子。
香ばしい香りが部屋いっぱいに広がり、張り詰めていた心が少しだけほどける。
そして、その後ろからもう一人――。
少年が静かに部屋へ入ってきた。
私は自然とその姿へ目を向ける。
歳は私と同じくらいか、少し下だろうか。
黒縁の眼鏡。
どこか幼さを残した顔立ちなのに、不思議と整った目鼻立ちをしている。
少しだけ癖のある黒髪が額にかかり、その奥の瞳だけが妙に静かだった。
……ちょっとタイプかも。
そんな場違いなことを考えてしまい、自分で少し恥ずかしくなる。
でも、それ以上に気になったのは、どうして彼がこの男性と一緒にいるのかということだった。
二人は私の向かいへ腰を下ろす。
口髭の男性が柔らかく笑った。
「改めて自己紹介をしようか。
私は仙道 聖人。
今日はこんな格好だけど、普段は神社で宮司をしている。」
一度言葉を切り、隣の少年へ視線を向ける。
「それから、こちらは鬼切 桃花。
そうだな……私の友人、かな。」
「友人……?」
思わず聞き返してしまう。
どう見ても歳は十以上離れている。
友人と言うより親子に近い。
その組み合わせに違和感を覚えた私へ、桃花くんは小さく口元を緩め、軽く頭を下げた。
私も慌てて会釈を返す。
……やっぱり不思議な二人だなぁ。
そう思っていると、仙道さんが穏やかな口調で尋ねた。
「君の名前も聞いていいかな。」
「あっ、はい!」
背筋を伸ばし、慌てて頭を下げる。
「白石紗季です。」
「紗季ちゃんか。」
仙道さんは一つ頷くと、膝の上で手を組み、ゆっくりと言葉を続けた。
「さっきは急に声をかけてしまってごめんね。」
その表情から笑みが少し消える。
「実は私たち、この町で最近起きている奇妙な出来事を調べているんだ。
今日は、この神社の宮司さんから話を聞いていたところでね。」
「奇妙な……出来事?」
その一言に、心臓が強く脈打つ。
頭の中に浮かぶのは、あの洋館。
そして、恒一さんの異様な姿。
思わず喉が小さく鳴った。
「境内で君を見かけた時、随分と思い詰めた顔をしていた。
それに……」
仙道さんは私の目を真っ直ぐ見つめる。
「君から、少し嫌な気配を感じた。」
その一言で、部屋の空気が静まり返る。
まるで心の奥を見透かされたようで、私は思わず息を呑んだ。
「何か知っていることがあるなら、聞かせてほしい。
もちろん私の思い過ごしなら、それで構わない。
コーヒーを飲みながら世間話をして帰ってくれてもいい。」
そう言って肩を竦める。
「最近は若い子と話す機会も少ないからね。
学校の悩みくらいなら、おじさんが相談に乗るよ。」
「仙道さん。」
その時だった。
隣で黙っていた桃花くんが、じっとりとした目を向ける。
「いい歳したおっさんが女子高生を口説いてるようにしか聞こえないけど。
警察、呼ぼうか?」
一瞬、部屋が静まり返る。
そして私は思わず吹き出してしまった。
「違う違う!」
仙道さんは慌てて両手を振る。
「誤解だよ、桃花!
この歳でナンパなんてしないって!」
「うわぁキモ……その言い訳が一番怪しい。」
「紗季ちゃん、信じて!」
必死な仙道さんと、どこか楽しそうにからかう桃花くん。
そのやり取りがおかしくて、自然と笑みがこぼれた。
さっきまで胸を締めつけていた恐怖が、ほんの少しだけ遠ざかる。
だからだろう。
私は意を決して口を開いた。
「あの……。」
二人の視線が、同時に私へ向く。
私は一度だけ深呼吸をした。
そして、朝霧家で見たこと。
悠斗くんのこと。
あの洋館で起きた、おぞましい出来事を、一つ残らず話し始めた。




