二話目 音がない家
土曜日の放課後。
教室で帰り支度をしていると、スマホが小さく震えた。
送り主は、悠斗くんだった。
『今日、お姉ちゃん遊びに来ない?』
画面に表示された短い文章を見つめる。
昨夜、明かり一つ灯らない洋館を見たときの光景が脳裏によみがえり、胸の奥がざわついた。
行くべきじゃない。
そう思う自分と、確かめたいという好奇心が胸の中でせめぎ合う。
やがて私は、小さく息を吐いた。
『……少しだけなら。』
送信ボタンを押した瞬間、不思議と胸騒ぎはさらに大きくなった。
★☆
部活動を休み、私は朝霧家の門の前に立っていた。
見慣れているはずの洋館。
それなのに、今日は別の建物のように見える。
無意識に大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。胸の鼓動だけがやけに大きく響いていた。
意を決し、門をくぐる。
昼間だというのに庭は薄暗く、生い茂った木々が屋敷を覆い隠していて、門の外では、ひぐらしが夏の終わりを惜しむように鳴いていた。
けれど、一歩敷地へ足を踏み入れた途端、その声は遠ざかった。
音だけが、切り取られたみたいに。
玄関へ近づくと、重たい扉が音もなく開いた。
「いらっしゃい、紗季ちゃん。」
美咲さんが、いつもの穏やかな笑顔で立っていた。
白いカーディガン。
紺色のロングスカート。
……今日も同じ服。
「お邪魔します。」
玄関へ足を踏み入れた瞬間だった。
ひやり、と足元を冷気が撫でる。
エアコンの風とは違う。
九月とは思えない冷たさが、靴の隙間から這い上がるように足首へまとわりついた。
思わず腕をさすると、美咲さんが微笑む。
「この家、昔の造りだから涼しいのよ。」
「そ、そうなんですね……。」
私は曖昧に笑い返した。
違う。
これは涼しさじゃない。
空気そのものが重く淀み、呼吸をするたび肺の奥へ湿った冷気が流れ込んでくる。
まるで長いトンネルの中へ迷い込んだようだった。
「お姉ちゃん、こっち!」
悠斗くんに案内され、廊下を歩く。
外から見ても大きな屋敷だったが、中へ入ると、その広さは想像以上だった。
けれど、私の目を引いたのは、その豪華さではない。
床の隅には、うっすらと埃が積もっている。
高価そうな棚や置物にも、白い膜が張りついていた。
朝霧の人たちが引っ越してきて、もう三か月以上。
掃除が追いつかないほど広い家なのかもしれない。
そう思おうとしても、その光景はどこか廃墟を思わせた。
そして、何より気味が悪かったのは――生活の音が、何ひとつ聞こえないことだった。
テレビも。
洗濯機も。
食器の触れ合う音も。
時計の針が進む音さえ聞こえない。
屋敷全体が、静寂を閉じ込めているようだった。
そのとき。
――ドン。
頭上から重い音が響いた。
思わず肩が跳ねる。
続けて、
ゴン。
ゴン……。
何か重たいものを床へ叩きつけるような音。
「……今の。」
思わず見上げると、悠斗くんは足を止めることもなく歩き続ける。
「ああ、お姉ちゃんだよ。」
あまりにも自然な返事だった。
「また暴れてるのかな。」
私は二階へ視線を向けた。
薄暗い階段。
その先にある、一枚の閉ざされた扉。
次の瞬間。
ガリ……。
ガリ、ガリガリ……。
今度は何かを引っ掻くような音が響いた。
硬い爪で壁紙を削るような、不快な音。
背中に鳥肌が走る。
「……大丈夫なの?」
「うん。いつものことだから。」
悠斗くんは少しも気にしていない。
その音に慣れ切ってしまっているようだった。
――本当に、引きこもりのお姉さんなの?
そう思った、その瞬間。
ガリガリという音が、不意に止んだ。
屋敷全体が息を潜めたような静寂。
私は思わず息を止める。
その静寂の中で、確かに感じた。
二階の暗闇から。
誰かが、こちらを見ている。
視線だけが、ゆっくりと私の背中を這い上がってきた。
そして私は、悠斗くんの部屋へ案内されると、張りつめていた肩から自然と力が抜けた。
そこだけは、ごく普通の子ども部屋だった。
ベッドに勉強机。
本棚には漫画や図鑑が並び、床には読みかけの雑誌が一冊転がっている。
少し大きめのテレビの横には、無造作に置かれたランドセル。
屋敷全体に漂っていた異様な空気が嘘だったかのように、その部屋だけには生活の匂いがあった。
――やっぱり、私の考えすぎなのかな。
そう思い始めた頃だった。
「お姉ちゃん、これやろ!」
悠斗くんが嬉しそうに最新のゲーム機を抱えてくる。
その笑顔を見ていると、さっきまでの緊張が少しだけほどけた。
★☆
気づけば、あっという間に時間が過ぎていた。
ゲームを終えた私は、大きく背伸びをしながら時計へ目を向ける。
そのとき。
机の端に置かれた写真立てが目に留まった。
「これって、前に住んでた家?」
写真には、一軒家の前で並ぶ四人家族が写っている。
「うん。少し前の写真だよ。」
悠斗くんは気にする様子もなく答えた。
私は何気なく写真を見つめる。
悠斗くんは、今とほとんど変わらない。
その隣には、中学生くらいの女の子。
――この子がお姉さんね。
眼鏡を掛けた、おとなしい印象の少女だった。
けれど。
お父さんも、お母さんも笑っているのに。
彼女だけが笑っていなかった。
カメラではなく、誰もいない横の空間を見つめている。
表情は強張り、その瞳だけが何かに怯えているようだった。
その違和感に首を傾げたとき。
写真の隅に、小さく印字された日付が目へ飛び込んできた。
――五年前。
「……え。」
心臓が止まりそうになった。
五年前なら。
悠斗くんは、まだ小学一年生のはず。
でも、写真の彼は今とほとんど変わらない。
見間違い?
日付の設定ミス?
そう思おうとしても、一度浮かんだ違和感は頭から離れなかった。
「お姉ちゃん?」
不意に声を掛けられ、肩が大きく跳ねる。
「そろそろ続きやろうよ。」
悠斗くんは何も気づいていない。
その無邪気な笑顔が、今は少し怖かった。
「ご、ごめんね。
宿題、思い出しちゃって……。
今日は帰るね。」
「……そっか。じゃあ下まで送るよ。」
寂しそうに笑う悠斗くんに私は首を振り「大丈夫だからと」申し出を断る。
そして私は笑顔で手を振り、部屋を出た。
――早く、この家から出たい。
それだけが頭の中を支配していた。
廊下を早足で歩く。
そのときだった。
廊下の奥。
少しだけ開いた扉の向こうから、会話をしている声が聞こえた。
恒一さん……?
美咲さんも一緒なのかな?
帰る挨拶くらいはしよう。
そう思い、私はゆっくりと近づく。
聞こえてきた声は、どこか妙だった。
「……アイ……。
アイ……。
ワカリ……マシタ……。」
途切れ途切れ。
一語一語を思い出すような、不自然な喋り方。
相槌を打っているようなのに。
返事をする相手の声が聞こえない。
私はそっと扉の隙間から中を覗いた。
その瞬間。
息が止まった。
恒一さんが立っていた。
背筋を真っ直ぐ伸ばしたまま。
瞼を一度も閉じず。
虚ろに口だけを動かしている。
その視線の先には――
誰もいない。
いや。
部屋の隅にいる、煙とも影ともつかない塊。
輪郭だけがゆらゆらと揺れ、人の形になりかけては崩れていく。
恒一さんは、それを見つめながら話しかけていた。
「……アイ。
アイ……。
カシコマリマシタ。」
全身から血の気が引く。
見間違い。
確める……。
でも、身体は一歩も前へ出られない。
逃げなきゃ。
本能だけが叫んでいた。
私は踵を返し、階段へ向かって駆け出す。
その背中越しで。
機械が壊れたような声だけが、いつまでも追い掛けてきた。
「ア……イ……
アイ……
カシコマリマシタ……。」
★☆
「――こんなことが、あったんです。」
私は震える声で話し終えた。
向かいに座る神社の神主、仙道さんは腕を組んだまま静かに目を閉じる。
「なるほどね……。」
短く呟くと、隣で黙って話を聞いていた少年へ視線を向けた。
少年は小さく笑い、私に告げた。
「君はもうその子とは会わない方が良いかもね。」




