三章 幸福な家族編
私には、小さな友人がいます。
――朝霧悠斗くん。
小学六年生の男の子なんです。
彼との出会いは、家の近くにある小さな公園だった。
その日、部活動が長引き、日もすっかり傾いていた。
少しでも早く帰ろうと公園を抜けたとき、街灯の下にある古びたベンチで、一人の少年がじっと座っているのが目に入った。
風に揺れる木々がざわめく。
遊具は誰もいないのに、ブランコだけがギィ……ギィ……と、小さく軋んでいた。
夕暮れの公園に、子どもが一人。
それだけでも少し違和感を感じる光景。
けれど――その子は、あまりにも動かなかった。
まるで、誰かを待ち続けているみたいに。
「悠斗くん……どうしたの?」
思わず声を掛ける。
街灯がぱっと灯り、白い光が少年の横顔を照らした。
その瞬間、彼はゆっくりと顔を上げる。
きょとん、とした表情。
その目は私を見ているのに、どこか焦点が合っていない気がした。
私は少しだけ気まずくなって、頭を掻く。
知っているはずがないよね。
私が一方的に知っているだけなんだから。
★☆
三か月ほど前。
家の向かいにある大きな洋館へ、一組の家族が引っ越してきた。
朝霧家。
近所でも話題になるほど仲の良い家族だった。
「おはようございます。」
「おはよう、紗季ちゃん。今から学校?」
いつも柔らかく笑うお母さん。
「こんにちは。紗季ちゃんは今日も元気だね。」
背広をきっちり着こなし、誰にでも気さくに話しかけるお父さん。
まるで絵に描いたような幸せな家庭。
近所の人たちは、口をそろえてそう言っていた。
……でも。
その家族の中で、悠斗くんだけは違った。
学校の帰り道。
庭先。
買い物帰り。
どこで見掛けても、彼はいつもうつむいていた。
笑っている姿を、一度も見たことがない。
何度か声を掛けたこともある。
けれど返事はなく、まるで私の声なんて聞こえていないようだった。
無視をしているというより――心だけが、どこか別の場所へ行ってしまっているように。
だから、私は思っていた。
きっと私のことなんて覚えていない、と。
「……ああ、お姉さんか。」
その一言を聞いた瞬間、私は思わず目を見開いた。
初めて聞く、悠斗くんの声だった。
「私のこと、知ってたんだ。」
驚きを隠せないまま、私は彼の隣へ腰を下ろす。
「どうしたの? こんな時間に。
お家に帰らなくても、大丈夫なの?」
問い掛けると、悠斗くんは家のある方角へ目を向けた。
そして、小さく笑った。
その笑顔だけが、不思議なくらい冷たく見えた。
「うん……今ね、お姉ちゃんが暴れてるんだ。」
「お姉ちゃん……?」
私は記憶をたどった。
朝霧家の人たちとは、近所付き合いもあって何度か顔を合わせている。
優しそうなお父さん。
いつも穏やかに笑うお母さん。
そして、悠斗くん。
でも――お姉さんなんて、一度も見たことがなかった。
「もしかして……引きこもり、とか?」
言葉を選びながら尋ねると、悠斗くんは小さく頷いた。
「……そっか。」
部屋に閉じこもり、家族とも口を利かない。
テレビや漫画でしか知らない世界を思い浮かべる。
幸せそうに見える家庭にも、人には言えない事情があるのかもしれない。
そんなことを考えると、胸の奥が少しだけ苦しくなった。
「だったらさ、うちに来る?」
私がそう言うと、悠斗くんは驚いたように顔を上げた。
「こんなところに一人でいたら寒いし、それに……暗くなると危ないよ。
家もすぐ近くだし、お母さんもきっと大丈夫だから。」
数秒だけ迷うように視線を泳がせたあと、彼はふっと表情を緩めた。
「……うん。」
その笑顔は、初めて年相応の子どもらしく見えた。
それが、私と悠斗くんの始まりだった。
それから彼は、何度もうちへ遊びに来るようになった。
事情を聞いた母も快く迎え入れ、夕飯を一緒に食べることさえあった。
ゲームをしたり、宿題を教えたり。
年の離れた弟ができたみたいで、その時間は案外悪くなかった。
もちろん、朝霧さん夫婦もそのことは知っている。
遅くなる日には、お母さんが迎えに来ることもあった。
「またね、お姉ちゃん。」
「うん。またね、悠斗くん。」
そのやり取りが、いつしか当たり前になっていく。
だけど――。
今思えば。
あの頃から、朝霧家には小さな違和感がいくつも転がっていた。
そのときの私は、それを「気のせい」で片づけてしまっていたけれど。
最初に気になったのは、お母さん――朝霧美咲さんだった。
一見すると、ごく普通の優しいお母さん。
けれど、何度会っても、彼女は同じ服を着ていた。
白いカーディガンに、紺色のロングスカート。
最初は、お気に入りなんだろうと思った。
でも。
晴れの日も。
雨の日も。
真夏の蒸し暑い日も。
季節が少しずつ移り変わっても、その服だけは変わらなかった。
ある日、母に何気なくそのことを話すと、不思議そうな顔をされた。
「え? この前はベージュのワンピースだったじゃない。」
「……え?」
私は思わず聞き返した。
私には、そんな服を着た美咲さんなんて、一度も見た覚えがなかった。
あの日からだった。
私の中で、「朝霧家は何かがおかしい」という小さな違和感が、静かに形を持ち始めたのは。
おかしいのは、美咲さんだけじゃなかった。
悠斗くんのお父さん――朝霧恒一さんにも、私はずっと小さな違和感を抱いていた。
恒一さんは、毎朝決まった時間に家を出る。
それだけなら、何も不思議ではない。
社会人なら当たり前だし、私だって学校へ行く時間はほとんど変わらない。
けれど、恒一さんは違った。
玄関の扉が開く時間。
門を出る歩幅。
腕時計へ目を落とす仕草。
そして、美咲さんへ向ける言葉まで。
「行ってきます。」
「いってらっしゃい。」
その声の大きさも、間の取り方も、笑顔さえも。
一日たりとも変わることがなかった。
まるで、誰かが同じ映像を毎日再生しているみたいに。
朝霧家の前を通るたび、私は知らず知らずのうちに足を止め、その光景を眺めてしまっていた。
見れば見るほど、不自然だった。
だから私は、ある日それとなく悠斗くんへ尋ねてみた。
「お父さんって、いつもあんな感じなの?」
悠斗くんは少しだけ首を傾げ、それから困ったように笑った。
「お父さん? 別に変わったところはないよ。
仕事が忙しくて、あまり遊んでくれないし、ちょっと神経質だけど……。
でも、いろいろ買ってくれるし。いいお父さんだよ。」
その答えに嘘はないように思えた。
だからこそ、余計に分からなくなる。
私が気にしすぎなだけなのだろうか。
そう自分に言い聞かせても、胸の奥に引っ掛かった棘は抜けなかった。
そして、もう一つ。
どうしても説明のつかないことがあった。
ある夜。
悠斗くんが帰ったあと、部屋にゲームソフトを忘れていったことに気付いた私は、それを届けようと窓を開けた。
向かいに建つ朝霧家の洋館。
時計は、夜九時を少し回っていた。
けれど――。
家には、一つとして明かりが点いていなかった。
「えっ……もう寝ちゃったの?」
思わず苦笑する。
小学生なら早寝なのかもしれない。
でも家族ごと?
その程度にしか思わなかった。
……その日は。
次の日も。
その次の日も。
夜九時を過ぎても。
十時になっても。
朝霧家の窓に明かりが灯ることは、一度もなかった。
まるで誰も住んでいない空き家のように。
洋館は夜の闇へ静かに溶け込み、そこだけ時間が止まってしまったような静寂をまとっていた。
窓ガラスは黒く沈み込み、何も映さない。
けれど、見られている。
そんな気がして、私は何度もカーテンを閉めた。
――気味が悪い。
そう思い始めた頃だった。
朝霧家に抱いていた違和感が、決して私の思い過ごしではなかったと知る出来事が起きたのは。




