8 変わった日常
「あ、柚月、油絵出来そう?」
廊下のロッカーから、四号サイズのキャンバスを取り出していると、瀬奈に声をかけられた。
「うん。描きたくなって。上手く描けるかわからないけど」
「上手いかどうかはどうでもいいよ。柚月が描こうと思ったなら油絵も喜んでいるよ」
「ありがとう……」
瀬奈も荷物を取りに来たらしい。自分のロッカーから、私よりも少し大きいキャンバスを取り出した。
「瀬奈は水彩画?」
「そうだよ。あ、柚月。話聞いてた? 今日から球技大会の日まで、いつもの教室は使えないから二棟に移動だよ」
そう言えば、朝のホームルームで先生が言ってたっけ。いつもの油絵専用の教室は、換気とエアコンの点検で使えないって。
二棟……。レント君のいる普通科だ。ちょっとドキドキする。必ず会える訳じゃないけど、近くにいるってだけで落ち着きがなくなった。
「柚月行くよ?」
自分の世界に入りすぎて、荷物を取り出す手が止まっている私を瀬奈が、訝し気にせかす。
「う、うん。里美は?」
瀬奈が準備万端と歩き出した。慌てて、その背中を追いかけると、里美の姿が見えないことに気が付いた。
「里美は先生に呼ばれて職員室。やっぱり里美は陶芸コースを選択するのかもね」
「……そっか。じゃあ、来年はクラス別になるね」
今年に入ってから何となく聞いていた。
やっぱり、里美もお父さんの影響か陶芸がやりたいと。
私達のクラスは主に油絵や水彩画、日本画を重点的に教えられる。
陶芸や彫刻はもう一つのクラスだ。里美が陶芸を選択すると、必然的にクラスが別になる。
「……寂しくなるね」
つい本音が出た。
いつも一緒にいると当たり前になって、離れたくない。
卒業までは一緒に過ごしたかったけど、こればっかりは仕方がない。
――自分の人生だから。
「そうだね。でも、里美が選んだ道だから」
毅然と前を向き歩く瀬奈は、自分の未来も見据えていた。
「……そうだね」
二人を見ていると、自分の進路が見つからない私は少し焦ってしまう。
才能も人並み。容姿も普通。特に特技もない……。あと一年と半年で何かが見つかるだろうか。
瀬奈と並んで廊下を歩いていると、普通科の二棟へと入る。
同じ校内なのに、雰囲気がまるで違う。
芸術学科のように、専用の大きなロッカーがない。そのせいか、廊下も広く感じるし、なにより女子も男子も……おしゃれに見える。
毎回通る度に思う。本当に同じ年齢なのかと。
スカート丈は短いし化粧はバッチリ。髪型も可愛いし、自分達とは大違い。別の生き物に見えた。
「毎回思うけど芸術学科は陸の孤島だよね」
瀬奈も同じ思いらしく苦笑いを浮かべた。
「だね。毎日、キャンバスやスケッチブックに向かっている私達と違うね」
自分の手を見ると、絵の具や鉛筆でところどころ汚れている。数日このままの場合もあった。手を洗っても消えない努力のあと。
これが私達の誇りだ。
歩いていると、廊下にいる生徒達が私達を何気なく観察しているのがわかる。
やっぱり道具とキャンバスを持っていると目立つ。滅多にこっちに来ない芸術学科が珍しいのだろう。
息が詰まる中、黙々と歩いていると、友達と一緒にこっちへと歩いて来るレント君の姿が見えた。
……あ。凄い偶然。
レント君の昼間の装い。眼鏡をかけて冷たい雰囲気を醸し出している。夜とは違う地味な姿にも胸が高鳴る。
手に教科書を持っているところを見ると、次は移動教室らしい。
……なんて偶然。
いきなりの出来事に心臓がうるさい。昨日のことを鮮明に思い出した。
美味しいと言って、たくさん食べてくれたことや、たくさん笑って話をした。また一歩、距離が近づいた気がした楽しい時間。
でも、約束通り校内では話かけてはだめだ。レント君の今までの努力を無駄にしてはいけない。
……でも少しなら見てもいいかな?
だんだんと近づく私達の距離。
横にいる友達と何か話しているレント君。……これが学校でのレント君の姿。
すると、ふいにレント君と目があった。
レント君は、ちょっと驚いた顔をした。でも、何事もなかったかのように私から視線を外す。
レント君のように、普通に、何事もないように普通に歩かないと。
そう思うのに、左手と左足が同時に出るのはどうしようもない。歩き方を忘れてしまった。まるでロボットのようだけど、自分では、もうどうしようも出来ない。
「柚月?どうしたの?」
私の隣で歩いている瀬奈が、不思議そうに首を傾げている。
「な、なんでもないよ。えっと、どこだっけ、教室」
「……どこって何言っているの。柚月?」
瀬奈が怪訝な顔を向けてくるのも当たり前。
いくら普通科の棟と言っても、今回みたいに、いつもの教室が使いえない場合は使用している。知っているのが当然だ。
お願い、瀬奈。今だけは私に合わせて!
心の中で叫ぶように目で訴える。
そうこうしている内に、レント君と、もうすぐすれ違う距離。
二メートル。一メートルと徐々に近づく。
……あ。
すれ違う間際……。レント君が私と反対側にいる友達から視界を遮る様に、手に持っていた教科書を持ち上げた。
「……手と足同時って、どうしたの?」
私にだけ聞こえる声でそう呟いた。
「……っ!」
思わず立ち止まり振り返る。
すると、レント君が少し笑いながら私を見ると、すぐに行ってしまった。
……不意打ちだ。
しかも、歩き方まで見られているなんて。
校内では「話しかけるな」って言ってたのに。ずるい……。
「柚月。どうしたの? 顔が赤いけど」
茫然と立っている私に、瀬奈が心配そうに聞いてくる。
私の行動が変すぎたせいか、瀬奈の視線もすれ違ったレント君を追っていた。
「な、何でもないよ。もうすぐ授業始まっちゃう。急ごう、瀬奈」
赤い顔を隠すように、瀬奈を追い越して教室を目指した。
……もう心臓がもたない。
幸せすぎて死んじゃいそう。
教室に着いてからも、鼓動のドキドキはおさまらない。イーゼルにキャンバスを セットしながら、何回もレント君を思い出してしまった。それは、色を混ぜている間も続いていて。
「ああ――!」
そんな浮ついた気持ちでいると、やはり起こってしまった不慮の事故。
大げさだが……大失敗。
キャンバスに入れたくない色をのせてしまった。
グループごとに固まり絵を描いているが、他のクラスメイトからの視線も感じる。
「……柚月。さっきから何やっているの? それと、エプロンしないと制服が最悪なことになるよ」
私の右隣で描いていた瀬奈が溜め息を吐いた。
「柚月どうしたの? 瀬奈この短時間に何がどうしたの?」
授業開始のぎりぎりに教室に飛び込んで来た里美も、私の左隣で筆を持ち不思議な顔をしている。
「さっきから変なのよ。普通科の廊下を歩いただけなんだけど。途中で変な歩き方になったり、顔真っ赤にしたりしてた」
エプロンを付けていると、長い髪を後ろで一つに纏めている瀬奈が、髪にまたしても鉛筆をさしながら、里美に話し出した。
「……ああ、なるほど。島津君と会ったんでしょ?」
「島津君て柚月の好きな人? さっきすれ違ったの?」
里美がにやにやと私を見る。すると、瀬奈が興奮したように立ち上がった。
「柚月、素直に吐いちゃいなさいよ。時間はたっぷりあるんだから」
時間はたっぷり……確かにそうだ。あと三時間はこの教室にいる。
クラスメイト達は、時間が経つと出たり入ったりしている。芸術学科では至って普通の光景だ。
集中力が途切れたり、迷い出したら、気分転換も兼ねて、その場を離れ気を紛らわす。国語や数学などの一般的な授業では無理だけど、その他の専門的な授業は許されている。
芸術学科だけの特権。
だが、その分、提出課題は厳しい……。
「う……うん。さっきすれ違ったの」
二人に説明しないと課題が進まない。照れながら、さっきの出来事を二人に話した。
「そうなの? どんな人か見れば良かった」
瀬奈が心底残念そうに天を仰ぐ。
「まあイケメンだよね。眼鏡とって元に戻せば、二年前まで騒がれていた島津連斗だし。背は伸びたけどね」
「えっ? 里美はレント君のこと知っているの?」
里美を見ると、ぎこちなく笑った。
「まあね。私もサッカーしてたじゃない? 多少は知識あるんだ。島津君が、今は有名なリーグチームの監督の息子ってことも」
心配になった。レント君の過去が噂になることだけは避けたいのい、私が思っているよりも有名なのかも知れない。
「里美。レント君のことは内緒にしておいて欲しいの。レント君は、静かに過ごしたいって言っていたから……」
そう訴えると里美は真剣に頷いた。
「わかってるよ。確かに大変だよね、噂になると。島津君。友達に怪我させてるし」
「……えっ?」
怪我? そんなこと聞いてない。お父さんとの確執だけだと思ってたのに。誰かに怪我をさせたの?
「柚月。私も詳しくは知らないんだよ。人の噂だから……それでも聞きたい?」
私が知らなかったのが意外だったのか、里美が気まずそうに目を伏せる。
私は大きく頷いた。
知りたかった。
私の隣で、キャンバスに筆を走らせている瀬奈も、気になったのか筆が止まった。
「噂だからね。二年前……。U―十五の練習試合の最中に、島津君がチームメイトに故意に怪我させて、それ以来姿を消したの」
「レント君が怪我を? 嘘だよ」
絶対に嘘だ。
あの優しいレント君が、人を傷つけるなんてある訳ない。
「柚月。里美は、確信もない噂って言っているから信じないで」
考え込んだ私を心配したらしく、瀬奈が手を止めた。
「うん……」
「柚月。確かに噂だけど、怪我をしたのは本当だよ。その時、島津君自身も怪我をしたって聞いているから……。それ以来、島津君はサッカーを辞めたの」
レント君も怪我を?そう言えば、昨日の夕飯のあと、しきりに左膝を気にしていた。
「柚月。心配なら、島津君に直接聞いてみたらどうかな?」
里美の助言はありがたいけど、昨日のレント君の様子を見ていたら、聞くのが怖い。無理に聞いてしまうと、レント君が私を避けてしまいそうだから。
そう思うと、心がどんよりと重たくなった。




