4 初心を忘れないために
「ごめんね、島津君。私パズル作らなきゃいけなくて……。先に帰って」
残念な気持ちのまま放課後になると、待ち合わせに指定された、二棟と三棟の渡り廊下に向かった。そこから少し離れた空き教室の前で、レント君に何回も謝っていた。
「せっかくここまで来てくれたのに、ごめんね」
本当に残念だ。顧問を恨みたくなる。
この会話が最後かも知れない。でも、顔見知りになったから、夜にまた練習を見に行けば話かけてくれるかも知れない。見に行っても良いかな……。
行っても良いのか勇気を出して聞こうとした時、レント君が口を開いた。
「パズル同好会、気になるんだけど見ててもいい?」
「えっ……?」
思わずレント君の顔を見返した。
「迷惑なら帰るから」
「全然大丈夫! 他の二人は、もうパズルが仕上がっているから今日は来ないの。私一人だけだから」
思わずレント君の腕を掴み、力いっぱい頷いた。
私の行動に、レント君は驚いたようで、困ったように周りを見る。
それにつられるように私も視線を向けると、何人かの女子が、興味深々でこっちを見ていた。
「ごめん。……こっちだから」
慌てて腕を離した。
その場から逃げ出すようにレント君に声をかけ、同好会が使用している教室へと案内する。
私の顔は絶対、いま赤い。後ろからついてくるレント君の視線が気になるが、恥ずかしすぎて振り返れない。
早足で歩くと、教室の扉を勢いよく開けた。
この教室に入ると、まず、最初に嗅覚を刺激される。
油絵独特の石油のような何とも言えない匂いと、ニスの匂いが混じり合って慣れないと少々きつい。
そして次に、圧倒的な存在感を醸し出している、巨大な一枚の油絵に視覚を奪われる。
教室の一角。壁一面を独占しているその絵画は、芸術学科の卒業制作で描かれた作品。
三年間の思い出を描いたと、のちに本人は語ったと言う。
『初心を思い出す風景』
そうタイトルがつけられたそこには、授業風景が描き出されていた。
クラス中が絵の具やパレット、パレットナイフなどを手に持ち、大騒ぎしながら、無邪気な笑顔を浮かべている。
躍動感に溢れ、今にも動き出しそうだ。
見ているだけで心が温まり、このクラスの仲の良さが伺える。
「すげー。この絵、初めて見た」
私の隣で、レント君が感心したように絵を見つめていた。
「凄いでしょう? 芸術学科の宝物だよ。この絵を描いた先輩、今は有名なんだ。この作品も『買いたい』って人がいるくらい」
自分が褒められたみたいで嬉しくて、ついペラペラと話してしまう。
「越村のクラスもこんな感じなの?」
「うん。だいたいこんな感じかな。さすがにコンテストや選考会になると、お互いライバルになるけど、普段は良い仲間かな」
照れながら答える。
レント君を見上げると、心臓が止まりそうになった。
だって……無邪気に笑って私を見てくれていたから。
「恵まれたクラスで羨ましいな」
「そ、そう? あ、適当に座って」
赤い顔をレント君から隠すように、窓へと近寄った。
照れている姿を見られたくなくて、別に開けなくても良い窓を開けた。
すると、爽やかな風がふわりと室内に入り込み、私の髪を優しく撫でる。
「越村、パズルはどれ?」
顔の火照りが収まるのを待っていると、レント君に声をかけられた。
「っ、……レント君近いよ!」
振り返ると、すぐ目の前にレント君がいた。その距離、二十センチ。
思わずのけぞるように、窓のサッシに両手をつく。
「えっ……。ああ、悪い」
私の声に、すぐに数歩下がってくれた。
だけど、なぜかレント君の目が泳ぐ。口元を手で覆うと、背を向けて黒板とは反対側に置いてある画材スペースへと行ってしまった。
……どうしたのかな?
レント君の顔も少し赤く見えたけど、気のせいだよね。
気を取り直して、がたがたと豪快に音を立てて机を動かし始めた。
「島津君。これがパズルだよ。もう少しで完成なの。二時間はかかるから、あきたら気にしないで帰ってね」
声をかけると、レント君が近づいて来る。私の傍まで来ると、パズルを覗き込み、横に置いてあった椅子に座った。
「パズルって、作る方じゃなくて絵なの?」
意外そうな顔を見せ、私を見たあと原画を指さした。
不思議に思いながらも頷く。どうして、レント君がこんなにも驚いているのかわからず首を傾げた。
「えっ? うん、そうだよ。パズル部だもん」
そこまで言って、はっと気づく。
「あ、ごめん。パズル部は、パズルの原画を描いてるって説明しなかったね……。普段は、普通のパズルもやるんだよ。でも、今日は元となる原画なの。けっこう時間かかるから、あきたら島津君は帰ってね」
最低でも二時間。もしくは、それ以上かかる。レント君を、そこまで付き合わせる訳にはいかない。
レント君もサッカーの練習があるだろうし。
「わかった。あきたら帰るよ。てか、そんなにも落ち込むことないのに。勘違いしてた俺が悪いのに、越村慌てすぎ」
声を上げて笑うレント君に心臓が痛いくらいに煩い。
……私は無事にいられるかな。幸せすぎて死んでしまいそう。
「描かないの?」
そう言われ、慌てて道具を取りに行こうとして迷いが出た。
――油絵とは、ケンカ中だから。
しばらく触れていない。パレットや油壷。それにペインディングナイフ……。油絵に必要な道具を並べ、イーゼルに置いたキャンバスに触れる。
あと少しで完成。色をのせるだけだから、頑張れ私!
呪文のように心の中で唱え、筆を手に取る。
ここ一カ月、スランプに陥っているらしく、油絵の道具を見るのも苦痛で、一切触れていない。
色で迷いが生じるから。
これでいいのか。これで合っているのか、わからない。
自分の持っていた色がどんな色だったかが、思い出せないでいた。
周りを気にしすぎて、個性が消えた――。
「友達?」
配色を悩んでいると、キャンバスの前に座っている私の背後に、レント君が立った。
「う、うん。私は親友だと思っているの。中学から一緒で、記念にパズルにしようと思って」
キャンバスには、里美と瀬奈、そして私が笑っている。
まだ二年だけど、それぞれ希望している未来は違う。卒業後は違う道へと進むことが決まっていた。
今の瞬間を、今でしか残せない思い出を、絵に閉じ込めておきたかった。
「そっか」
なぜかレント君が寂しそうに見えた。
「俺、本でも読んでるから気にしなくていいよ」
「う、うん。あ、気分が悪くなったら言ってね。油絵の匂いは、慣れていない人は具合悪くなる時あるから」
そう言うと、レント君は軽く頷いた。そして、私から少し離れた椅子に座り、本を鞄から取り出す。
その姿を確認すると、気合を入れて油壺を手に取った。
集中すると、物静かな室内に、レント君の本をめくる音と、窓から心地よい風が入ってきた。
盗み見るように、レント君を伺う。だけど、本人はまったく私の視線に気が付かないようで本に没頭している。
たまに、足を組みかえる仕草に見惚れてしまう。
レント君自身が、絵画のように思ってしまった私はそうとう重症だ。
病名は――ありきたりだけど、恋の病?
思わず筆を置きスケッチブックを取り出すと、その姿を描き写す。
気になったら、すぐに描く。その精神が身についている。鉛筆を走らせ、目の前の光景を紙に焼き付けた。
レント君がいるからだろうか?
こんなにも穏やかに鉛筆を走らせ、手が止まらないのは久しぶりだった。あんなにも苦しくて描くのが嫌だったのに、それが嘘のよう。
とても、心地よくて不思議な時間。
いつまでも続けばいいのに……そう思った。
この頃、憂鬱で嫌だった作業も、気合の入り方が違うのか驚くほど早く終わった。予定していた二時間で、パズルの原画は完成した。
「奇跡だ。……レント君、終わったよ」
「出来た?」
レント君に声をかけると、立ち上がり近づいてくる。私の横に立つと、キャンバスを覗き込んだ。
「綺麗だね。楽しそうなのが伝わってくる」
「本当? ありがとう。そう言って貰えて凄く嬉しい!」
まさか、レント君に褒めて貰えるとは思ってもいなくて、満面の笑みを浮かべた。
「将来は画家になりたいの?」
この質問には首を横にふる。
「ううん。自分の実力はわかっているつもり。だから違う道を模索中だよ。でも、絵に関わる仕事にはつきたいの……。レント君はサッカー?」
将来の話をするのは、何だかとても照れてしまう。願い通りの道に進めるのは稀だと、わかっているから。
「俺は、まだわからない。サッカーとは今、ケンカ中だから」
『ケンカ中』……私と一緒だ。
悲しそうな、困ったような表情に勢いよく立ち上がる。
その拍子に、椅子が音を立てて倒れた。
「あんなに楽しそうに、サッカーしているのに? 私、サッカーに興味なかったけど、レント君がボールを追いかける姿に感動したよ。すごく素敵だった!」
思わず拳を握りしめて力説すると、レント君が、また驚いた顔を見せた。
「あのさ、越村。さっきから俺の名前呼んでるの気づいてる?」
言われて気が付いた。
裕兄も呼んでたから、つい私も名前で呼んでしまった。
「ごめんなさい! つい……その」
嫌われたと思い、思わず俯き顔を上げることが出来ない。
もう、最悪。そうだよね。昨日、知り合っただけの同級生に名前を呼ばれるの、気持ち悪いよね。
心の中で呟いていたのに、まさか声に出してたなんて……。泣きそうだ……。
「……まあ、いいけど。二人の時は良いけど、人前では気を付けて」
思わず顔をあげた。
「いいの? あ、私も名前で呼んでくれてもいいよ!」
「……それは止めとく」
嬉しすぎて、勇気を出して言ったのに、その返しはへこむ。
がっくりと落ち込むとレント君の笑い声が聞こえた。
「帰るぞ。暗くなってきたし送って行くよ」
窓の外を見ると、確かに薄暗くなっている。校舎の中庭に設置されている街灯に灯りがついている。
時計を確認すると、もう六時を過ぎていた。
……まだ話したい。でも、残念だけど仕方ない。レント君もサッカーの練習があるから、わがままは言えない。
「うん、片づけるからもう少し待って」
道具を手早く片づけ窓を閉めていると、あることを思い出した。
「レント君は球技大会何の種目に出るの?」
「ああ……。サッカー」
あからさまに嫌そうな顔をするレント君とは違い、私は凄く嬉しい。
学校でも、あのプレーを見ることが出来るなら、絶対に応援しに行かないと。
「私、応援に行くね!」
「別に来なくてもいいよ……。自分で選んだ訳ではなくて、クラス全員で一斉にクジ引きだっただけだし……。越村は?」
私の勢いに苦笑いをしながら、レント君が話題を逸らすように聞いてくる。
「私もサッカーなの!」
満面の笑みを浮かべて嬉しそうに答えると、レント君はなぜか微妙な顔を見せた。
「越村。サッカー出来るの? 運動神経なさそうに見えるけど」
何気にひどい。それに、ぐさりと、その言葉が胸に刺さる。
「意外と大丈夫……だと思う。サッカーやったことないけど」
小学校や中学校の体育の授業でやったことはあるけど、真面目に受けてはいなかった。
だから、手を使ってはいけない。とか、簡単なルールしか知らない。
「今年から男女混合だから、けっこうラフプレーも多いと思うよ。大丈夫?」
そんなに心配されると反対に困ってしまう。
「なら、レント君が私にサッカー教えて」
思わず言ってしまった。
すると、予想通りレント君は困った顔を見せた。
「お願い! 教えてくれたら、顔面にボールぶつけたこと忘れるから」
我ながら酷い交換条件だ。これには、レント君も苦笑して、迷っている様子。
でも、卑怯な手段でも、レント君に教えて欲しい。
そして、なんでサッカーが嫌いなのか知りたい。あんなに楽しそうにプレーしているのに、絶対に嫌いな訳がないから。
本当は誰よりもサッカーが大好きなはずだ。
「……わかった。球技大会までの二週間教えるよ」
やっぱりレント君は優しい。優しすぎる。嫌なら断ってくれて良いのに。
「ありがとう。頑張るね」
私の態度から、もしかしたらレント君は気づいているのかも知れない。
――私がレント君を好きなことを。
「……うん、頑張って」
それでも構わない。
告白してだめでも、あの時、精一杯頑張ったと胸を張れるように、今を大切にしたい。後悔しないように。
そうすれば、たとえ結果が悪くても、やり遂げた思いは残るのだと教えられたから。この教室に飾られている巨大な絵画から。
こうして、私とレント君との秘密の特訓が始まった。




