2 始まった恋の欠片
「大丈夫か? 柚月」
朝起きると、制服に着替えてからリビングに向かう。そこには珍しく、越村家の長男、卓己が朝食の席についていた。
「卓兄がなんでいるの? 今日は平日だし仕事だよね。時間過ぎてるよ」
時刻は午前七時三十分。
いつもは、私一人しかいない朝の時間に、珍しく二人の兄がいた。
卓兄は優雅に新聞を読みながらコーヒーを飲んでいる。裕兄は、かいがいしく調理中のようで、キッチンから声が聞こえた。
「柚月、学校行けんの?」
二人の様子に驚きながら、ダイニングテーブルの自分の定位置についた。すると、キッチンで料理をしていた裕兄が、目の前の皿にパンケーキを置いてくれる。
「何枚食う? とりあえず一枚な」
そして、裕兄も席につくと食事が始まった。
今日の朝食はパンケーキ。それと、パンプキンスープにハムやスクランブルエッグ。勿論サラダもある。そこにイチゴやキウイなどの旬のフルーツが食卓を飾る豪華版。
たまにベーグルやフレンチトーストも出るけど、我が家は基本、パンケーキを好んで食べる。
「いただきまーす」
裕兄の声に合わせて、私も手を合わせた。
「それで、大丈夫なのか、貧血は?」
卓兄が広げていた新聞を片づけ、フォークを手に取り私を見る。
「うん、大丈夫。今日は球技大会の話し合いがあるから出ないと。無理はしないから。それより、卓兄は時間大丈夫なの? いつもは、もう居ない時間でしょう?」
「ああ、たまにはな……」
言葉を濁す卓兄を不思議に思った。
いつもは、何に対してもきっぱりと言い切る卓兄にしては、微妙な反応だ。
裕兄の目の前に積み重ねられたパンケーキを見つめ、横に置いてあるシロップを手に取る。
「感謝しろよ、柚月。卓兄、柚月のために半日休みとったんだから」
私の隣でパンケーキの山を平らげる裕兄にげんなりしていたら、思わぬ言葉に、食べていたイチゴを落としてしまった。
「えっ、そうなの?」
「まあな。有給も溜まってるから。お前に何かあったら……あの二人が怖い」
あの二人とはパパとママのことだろう。
すると、裕兄がニヤニヤと卓兄を見ていた。
「気にすんな、柚月。卓兄しばらく見なかっただろ? 彼女の所に入り浸っていたんだよ。俺達の世話をしていなかったから焦って戻って来たんだ」
食べていたパンケーキを、喉に詰まらせるのではないかと思うくらいむせた。
「ええ――! 卓兄帰ってなかったの? どうりで姿を見ないと思った。か、彼女いるんだ。美人さん?」
兄妹の間では、まず話題に上がらない恋愛事情。思わず興味が湧いて聞くと、卓兄の眉間に皺が寄る。
「お前ら、さっさと食って学校行けよ。祐太も柚月が心配で朝からいるんだろ?」
話したくないとばかりに、矛先を裕兄に変えた。
「えっ。裕兄も……ごめんね」
「いや。別に俺は気ままな学生だし、院へ進学も内定済みだから問題ない。俺、要領良いから」
確かに裕兄は要領がいい。それは卓兄だって同じだ。
それに引き換え、末っ子の私は微妙に要領が悪かったりする。
「柚月、考え込む前に早く食べろよ。迎えが来るだろ」
パンケーキをパクついていると、訳のわからない言葉と裕兄のニヤニヤした気持ち悪い笑顔。
「迎えって誰が?」
そう返した時、チャイムがなった。
「指定した時間の五分前か。中々優秀だ。柚月早く食べろ……迎えが来たぞ」
この時ほど、嫌な予感がしたことはなかった。
ウキウキと玄関へと向かう裕兄とは違い、落ち着いたままコーヒーを飲む卓兄は素知らぬ顔だ。どうやら卓兄も誰が来たか知っているようだ。
「卓兄、誰が来たの?」
「はっ?……お前の彼氏だろ?」
怪訝な顔でそう言われ首を傾げた。
……私に彼氏いたっけ?
「柚月、早くしろよ。待たせる気か?」
玄関から聞こえた、裕兄の大きな声で我に返る。
「う、うん、今行くから」
戸惑いながらも、リビングのソファに置いてあった鞄を掴み玄関へと向かった。
「卓兄行ってきます」
「ああ、楽しんで来い」
えっ……。見送り方間違ってない?
わからないまま向かった玄関で、ありえない人物を目にした。その衝撃で、手に持っていた鞄をドサリと落とした。
そこには、昨日と少し雰囲気の違った『月夜の猫』が私を見ていたから。
月夜の猫は、いつも見るふわふわな髪はきっちりと整えられ、なぜか眼鏡をかけている。
その姿は、まるで神経質そうなガリ勉タイプの優等生。
どちらかと言うと、クラスにいても必要事項しか話さない近寄りがたいタイプ。
どうして、こんな姿してるの? それよりも何で私の家に来てるの?
頭の中は?マークばっかりで大混乱。
彼だよね? しかも、にこりとも笑わないし、見たことのある制服を着ている。どう見ても私と同じ学校だ。
夢だ……これは私が見た都合が良い夢。まだ、昨日の後遺症が残っているのかな。
「柚月、妄想もいいけど遅刻するぞ」
「えっ?」
あきれた裕兄の声に現実逃避から引き戻された。
玄関の下駄箱の上に置いてある、猫の形をした置時計を見る。いつもは、もうすでに家を出ている時間だ。
「ああっ! 遅刻だ。行って来ます!」
鞄を掴み、急いで靴を履くと飛び出した。走り出そうとすると、左手を掴まれる。
「大丈夫。歩いても間に合うよ」
間近で聞いた彼の声に心臓が音を立てた。
そして、なによりも、手を繋がれているのが嬉しいやら恥ずかしいやらで、今の私は許容量いっぱいだ。
……心臓が煩い。まさか彼が私を見ているなんて。
「じゃあ頼んだぞ、レント。気を付けて行って来い」
裕兄が笑顔で手を振り、玄関のドアを勢いよく閉めた。
どうして裕兄が彼の名前を知っているの?
不思議そうに閉じられたドアを見つめていると手を引かれた。
「行こう……」
そう言うと、掴まれていた手を解かれる。
少し残念……。
私は絶対に顔が赤いし、心の中では慌てふためいているのに、彼……レント君は至って冷静だ。
「あ、あの。どうして私の家に? それに……あの」
このシチュエーション……。なにが何だかわからない。誰かに説明して欲しい。
「あの……説明して」
私の欲しい情報は、このレント君が知っているはず。勇気を振り絞って聞くと、前を歩いていたレント君の足が止まった。
「説明するから……一時間目サボってもいい?」
えっ、サボる?
まさかの一言に頭が追いつかない。
「こっち」
困惑する私が連れて行かれたのは、いつも水曜日に通っているフットサル施設。
その横にある芝生が豊かな公園だった。
「ここなら、この時間帯は人がまばらだから、制服でうろついていても大丈夫」
レント君が、私にベンチに座る様にと目で合図する。
大人しく、言われた通りに腰を下ろす。すると、レント君が何処かに行ってしまった。
「あ、あのっ!……」
なにこれ。いきなり置き去りにされたの……。説明してくれるって言ったのに酷い。
サッカーボールを追い駆けている彼とは全然違う。月夜の猫は、昼間は、野良猫みたいに周囲を警戒するらしい。
「はぁ……」
溜め息を吐きながら空を見上げた。雲、一つない爽やかすぎる青空。
「いい天気。絶好の洗濯日和」
「……主婦かよ」
絶妙なツッコミに驚き前を見る。そこには、どこか行ったと思っていたレント君が、紅茶の缶を差し出してくれた。
手には、私の好きなミルクティーを持っている。
「あ、ありがとう。あの、お金を」
急いで鞄の中からお財布を取り出した。
「いいよ。昨日のお詫びも入ってるし。素直に貰って。でないと、俺が困るから。ごめん、顔は大丈夫だった?」
人、一人分あけてレント君が横に座った。
「あ、ありがとう。う、うん。大丈夫。私こそごめんね。迷惑かけたみたいで」
そう言われると、今さらお金を渡すことも出来なくて、ありがたくミルクティーを受け取った。
言われて思い出したのは、あの鼻血。
とても、人に見せられる顔ではなかったと思う。けっこう血が出て服にまでついていたし。
「いや。人がいるのを確認しないで、ボール蹴ってた自分も悪いから。ところで、あんな時間に一人で何してたの?」
思わず目が泳いだ。
本当のことは言えない。「レント君を見に行ってました」なんてストーカーみたいだもん。
「それに、たまにいるよね? 知り合いでもいるの?」
目を逸らし焦っている私に、レント君がさらに聞いてくる。
「あ、兄がフットサルしてるの。今、両親がいないんだ。それで、家に一人でいるのが寂しくて……それで兄に付いて来たの。でも、暇だからウロウロしていたらあそこに……」
まさか、知られていたなんて思わなかった。暗闇に紛れてこっそり見ていたのに。
思わず苦し紛れの嘘を並べた。最後は言葉を濁し声が小さくなる。
すると、レント君は興味なさそうに「ふーん」と一言……。たったそれだけ。
追及されることがなくて、密かに安堵した。
胸を撫で下ろし、貰ったミルクティーのプルトップを開けた。飲みながら今の話を逸らそうと、一番聞きたかった話を口にした。
「あの。それで、何で迎えに来てくれたの? それと同じ学校だったんだ」
「……昨日、越村が倒れたあと、お兄さんと話したんだ。そしたら、怪我をさせた責任をとって明日の朝、様子を見に来いって言われてさ」
私の苗字……あ、裕兄から聞いたのか。それよりも、裕兄なに考えてんの。それ脅迫じゃん。
もしや、これをきっかけにしろとか?
頭に浮かんだのは、上から目線の裕兄の顔。
なんだかとっても恥ずかしい。兄に恋愛事情がバレるのが憂鬱だ。この分じゃ、卓兄も知ってるだろう。
「そ、それで迎えに来てくれたの?」
「まあ一応。けっこう鼻血も出てたから」
私が気にしていた鼻血のことを、なんでもないように言われ動揺する。
やっぱり見られていたんだ。あの鼻血の顔……終わった。
がっくりと項垂れた。
「帰りも送るから。お兄さんと今日一日は送り迎えするって約束だし」
裕兄ったら、どんな約束をレント君にしたんだ。
「帰りも? そんな心配いらないよ。貧血も、もう大丈夫だから一人で帰れるよ。それに……えっと」
ここで迷った。私はレント君の名前を知らないことになってるんだ。レント君の名前を呼んだのは裕兄だもん。凄く羨ましい。私よりも先に名前を知るなんて。
「レント……。島津蓮斗。一応、越村と同じ学年なんだけど」
迷っていたら、私が名前で困っているのを察してくれたらしい。レント君が名前を教えてくれた。
「えっ――――同じ高二なの? でも見かけたことないけど」
不躾にレント君の顔をじろじろと眺める。……全然覚えがない。それに、見覚えがあったら絶対に何とかして声かけてるもん。多分……。
ちょっと色素の薄い外見は、目鼻立ちがくっきりで長身。こんなに目を惹くのに私は知らない。
どうして今まで気が付かなかったんだろう……。まさかの、好きな人が同じ学校で同じ学年だったなんて。
すごく偶然で嬉しい……。なのに、半年もの間気が付かなかった自分が情けない。
「ああ、わかんないのは仕方ないよ。俺は普通科。越村は芸術学科だろ? 棟が違うから滅多に会わない」
「そっか。普通科なんだ……」
それは分かんなくて当然かも知れない。でも、移動教室とかで、少しは見かけたりする奇跡もあるはずなのに。
それも、まったくなかった。
私達が通う高校は、普通科と芸術学科、それとスポーツ科に分かれている。
いつも過ごす棟も学科ごとに違う。同じ学年と言えども学年全員を把握すること自体が困難だ。
確かに……と納得していると、あることに気がついた。
「島津君はスポーツ科じゃないの? クラブユースに所属してるよね?」
てっきり推薦で入学して、スポーツ科だと思ったけど。
「俺は一般入試組。サッカー部にも所属してないから……。サッカーしてることは 内緒にしてるから、クラブに所属していること黙ってて」
何か事情があるようで、困ったように笑うレント君にドキドキしながら大きく頷いた。
そんな顔でお願いされたら断れないよ。
「それともう一つ。学校ですれ違っても話しかけないで欲しい。目立ちたくないんだ。昨日と今日とで外見が違うのわかる?」
それには、大げさなほど大きく頷いた。
どう見ても、今のレント君は大人しいイメージ。と、言うか……見ようによっては暗い。
「なんで変装するの?」
不思議すぎて聞かずにはいられない。
「元のままだと周りがうるさいから。この姿だとバレないから楽なんだ。一年間は静かだったから気に入ってる」
どういう意味かさっぱりわからなかった。
「いつも見に来てるのに、俺のこと本当に知らないんだ?」
私の不思議そうな反応に、なぜかレント君が驚いている。
「えっ、なんのこと?」
首を傾げると、爽やかに「なんでもない」と彼が笑った。
途端に心臓が跳ね上がる。
やだ……不意打ちって困る。こっちが照れるような笑顔って、ある意味凶器だ。 伝えたくなる……半年前からレント君を見てましたって。
――あなたに一目惚れしましたって。
昨日までは、見ているだけだったのに……。今日は違う。私を見て、名前を呼んで話しかけてくれる。
出会いは最悪でも話すことはできた。それが嬉しい。問題は……これからだ。これを、どうチャンスに繋げるか。
「そろそろ学校向かうか。もうすぐ一時間目終わるし。越村は部活してるの?」
これには迷いながらも頷き、ぼそりと告げた。
「うん。パズル同好会なの。三人しかいないけど」
「パズル同好会? そんなのあるんだ。初めて聞いた」
感心したように頷くレント君に若干恥ずかしい。なにせマイナーなパズル。三人しか部員がいないから部に昇格出来ないでいる。
おかげで予算はほとんど下りない。
「終わるまで待ってるよ。どこでやってんの?」
「えっ? 芸術学科がある三棟の一階の教室だよ。いいよ、待たなくて。今日は何時までかかるか、わかんないから。私は一人で帰るよ」
部員は同じ芸術学科の友達だ。
今は早く仕上げなきゃいけない課題があるから、サボることは出来ない。
「ふーん。じゃ一応、二棟と三棟の渡り廊下で待ち合わせしよう。放課後来てよ」
そう言うと、レント君が立ち上がり歩き出した。
えっと……私の返事は聞かないんだ。それに、迎えはいらないって言ったのに。なのに、待ち合わせ?
でも……隣にいられるだけで嬉しい。昨日までは見ているだけだったから。
レント君と話してみて決意を固めた。
半年間の想いを込めて、絶対、レント君に告白してみせるって。




