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1 フェンス越しの彼

夜のフィールドに、その人はいた。


 闇が覆う空に、少し欠けた月がスポットライトのように彼を照らしている。

 周りには、彼の他に何人も一緒になってボールを追い駆けている。なのに、私は彼しか目に入らない。

 彼の姿に、私は釘づけになった。

 夢中になっていると、つかんでいたフェンスが、カシャリと音を立てる。


 一目惚れ。


 古臭いけど、この言葉が一番良く似合う。

 十七年生きてきて初めて感じた。何とも言えない不思議な震え。

 ――彼から目が離せない。

 サッカーボールを巧みに操り、敵をかわし不敵な笑みを見せる。軽やかにゴールを目指す彼に……私は、一瞬にして心を奪われた。


「……凄い。あの人」


 フェンスを掴んでいる両手に力が入る。

 彼が風を切り力強く走ると、柔らかそうな黒髪がふわりと揺れる。身軽な身のこなしは、まるで無邪気な猫のよう。


「やったぞ。レント!」


 彼がゴールを決めると歓声が大きく上がった。見惚れていたらボールがゴールポストに吸い込まれていった。

 もう心臓が煩い。彼が私を見ている訳でもないのに、顔に集まる熱も、息苦しさもどうして良いのかわからない。

 そして、私は声に反応した。彼の名前を呼ぶ声に――。


「レント?」


 仲間に囲まれている中心に無邪気な猫のような彼がいた。

 屈託のない笑顔を見ると、胸が苦しくなる。

 ――だめ、一気に落ちる。

 名前も、年齢も何も知らない彼に、今日、私は、人生で初めての一目惚れをして、恋をしました。







「お前、またパズルやってんの? 何を悩んでいるか、お兄様に言ってみろ……。柚月ゆづき

 絨毯に座り、ローテーブルの上のパズルをじっと見つめている私に、からかうような声がかけられた。

 ローテーブルの上には、三千ピースのパズルが無造作に散らばっている。

 散らばっていると言っても、小さな小箱を何個も用意し、今は色別に選別中なのだ。この作業が何気に好きだったりする。

 視線を上げると、四つ上の兄、裕太ゆうたが目の前のソファに座り話しかけてきた。


「うるさいな……ほっといてよ」

 まるで反抗期の子供のように、つんつんした態度で不機嫌に返事を返す。

「相変わらず可愛くないな、お前は……。俺はもっと可愛い妹が欲しい。こんな感じの」

 裕兄が手に持っていた雑誌の、とあるページを開き、「見ろ」と言わんばかりにパズルの上にドンと置いた。


 そこには、私と同じ年の有名なアイドルが、大人びた色っぽい表情で微笑んでいる。

 いつもの、明るい爽やかな笑顔とは違い、普段見せない艶やかな表情と大人びた装い。

 思わず釘付けになった。


「柚月、これがギャップと言うやつだ。お前も彼氏が出来たら覚えとけ。これに男は弱い」

 裕兄が力強く話始める。

 ……自分も彼女がいないのに。はっきり言って、ちょっとうざい。

「はいはい。パズルの邪魔しないでよ」

 そんなギャップに興味がない。雑誌を掴むと、裕兄に向かって放り投げる。

「お前、せっかく教えてやってんのに。それよりわかったのか? 月夜の猫の正体は?」

「なっ! なによ。その呼び方」

 思わず動揺して声が掠れた。


 肩のラインより少し長めに整えてある黒髪が頬に触れる。

「まだわかんないの? お前さ、あれから半年以上経ってるだろ。十月の秋の落ち葉から、新緑の六月になったぞ。まだ本人にも聞けないのかよ。……俺が聞いてやろうか?」

「い、いらない。自分で聞くもん」

 裕兄に任せたら、彼に何を言うのか不安だもん。

 あの時、裕兄も一緒にいた。正確には、彼がゴールを決めた瞬間に来たらしいけど、私は彼しか見えていなかったから気づかなかった。

 視線を感じて振り返ったら、にやにやしていた悠兄の顔は今も忘れない。

「聞けないから今に至るんだろ? 見ているだけじゃ始まらない。それに……もう彼女がいるかもな」

 ……一番言われたくなかった。


「い、いじわる! そんなの……あっ!」

 言い返そうとローテーブルに思いっきり手をつくと、箱に分けてあったパズルがひっくり返り、そこら中に散らばった。

「あ――!」

「なにしてんだよ。それよりも時間だから行くぞ。パズルは後で拾えよ。今日こそ聞いて来い。毎週のように「また来週」は今日はなしだからな。時間は待ってくんねーよ、柚月」

 裕兄が立ち上がり玄関へと向かう。


 わかってる。永遠に続く時間なんてないって。

 散らばったパズルを見た後、のろのろと立ち上がり玄関へと向かった。



「今日は雨かよ」

 玄関のドアを開くと、先に出ていた裕兄が一本のビニール傘を差し出してきた。

 外はあいにくの雨。

 薄暗い雲の隙間からぽつぽつと雨が降っている。足元は濡れていて、それを見た瞬間、私は重いため息を吐いた。


「お前、わかりやすいな。この雨じゃ月夜の猫はいないかもな」

 私の心をよんだのか裕兄が豪快に笑った。

 ムカつきながらも傘を受け取り雨の中を歩き出す。

「月夜の猫がいるといいな」

「いても裕兄は黙っててよ」

 ここは、しつこく念を押す。余計なことはしないようにと。

「わかってるよ。俺はいつも通りフットサルやってるから、居なかったらすぐに来いよ。それと夜だから一人であんまり暗い場所に行くな。お前、一応……女なんだし」


 一応と言われて裕兄を睨むが、からかっている雰囲気は見られない。

 ……本当に心配してくれているんだ。

 裕兄は、いつも私をからかったり意地悪なことを言うけど、なんだかんだと、基本甘い。

「うん、わかってる。あの人がいなかったら、すぐに戻るから」

 私がそう答えると、裕兄が頷いた。

 家から徒歩十五分。

 そこに、裕兄行きつけのフットサルの施設がある。


 毎週水曜日。裕兄とその仲間たちが週一でフットサルを楽しんでいた。

 高校の同級生や後輩が主なメンバーで、夜の八時から始まり、時には夜中まで入り浸っている。

 そのフットサルの施設は、とあるクラブユースの隣に併設させていて、そこで私は……会ったんだ。

 裕兄が言う、通称……『月夜の猫』に。

 初めて彼を見たのは、肌寒さを感じ始めた高校一年の秋。

 いつも家で、一人寂しくパズルをしている私を不憫に思ったのか、裕兄がフットサルに連れ出してくれた。


 我が越村家は、父も母も仕事人間。

 父は単身赴任中。母はアメリカに長期出張のため不在。今は両親と一緒に住んでいない。

 私達の面倒は、長男の卓己たくみが担っていた。

 卓兄は二十七歳。働いているから家で会うのは週末ぐらい。朝起きると会社に行っていないし、夜はいつ帰っているのか、わからない。

 だから、必然的に私の面倒は次男の祐太になっている。

 大学生で時間はあるからと基本自由人だ。


「柚月、どうする? 雨も小雨だし、もしかしたら練習してるかもよ。照明ついてるし」

 裕兄に話しかけられ、うーんと考えながらも、いつもの彼のいる場所へと視線を向ける。

 確かに、照明がフィールドを照らしていた。


「う、うん、見て来る。あとでそっちに行くね」

 傘が邪魔になると思って、裕兄に押し付け返事を待たずに駆け出した。

 後ろから「濡れるぞ!」と声が聞こえたけど、聞こえていないふりをした。

 だって、傘があると邪魔だし、小雨になってそんなに気にならない。なにより傘は目立つから。

 話かける勇気がない私が傘をさして見ていると人目を引く。

 いつもの習慣が染みついたせいか、こっそりと彼を見るのが好き。

 自分でも怪しい人になっている気がする。でも、少しでも会いたい。

 日頃、パズルばかりで体を動かすことがないからか、少し走っただけで息が上がった。


 彼に会えると思うと心臓が煩いくらいに音を立てる。

 いるかな……?

 ドキドキしながら、フェンスが見えたところで立ち止まった。

 いつものような練習中に聞こえる声がしなかった。


「やっぱり、雨で練習は中止なのかな……」

 少し残念に思いながらもフェンスに一歩、また一歩と近づく。

 何本かの木々を抜けると、フェンスに触れる。いつも通りカシャン――と音が鳴った。

 照明に照らされている芝生のフィールドに視線を向ける。

 すると何人かの姿が見えた。

 いるのかな?

 彼の姿を見ようと、明るい街灯の下へと移動し、じっと目を凝らす。


「……いないや」

「ちょっと! 危ない! 避けて」

 残念に思っていると、いきなり焦ったような大声が聞こえた。何事かと思い、声の方向へと振り向いた時……後悔した。


 なぜなら、次の瞬間、顔面にサッカーボールが直撃したからだ。

 しかも、思いっきり蹴られたであろう渾身の一撃を。

 頭が真っ白になって、漫画で言うなら本当に頭の周りに星が飛んでいる感じ。

 それほどまでに強烈な一撃。

 フェンスに背を預け、顔を両手で押さえながら、ずるずると座り込んだ。


「ごめん。怪我は……ケン。ドクターいるか見てきて!」

 一人が返事をすると、すぐにどこかへ行ってしまった。残った一人が、心配そうに話しかけてきたけど、痛くて答えられない。

 痛い……。痛いってもんじゃない。じんじんするし顔全体が猛烈に痛い。顔の形が変わったらお嫁にいけなくなる。

 いや、その前に人前に出られない!

 それほどまでに顔中が熱くて痛い。

 あれ……。なに、これ。

 手にぬるりと何かが触れた。

 あ、これ鼻血だ。しかも結構な量の気がする。

 立ち上がることが出来なくて、視線を地面に向けた。すぐ前に、私を襲い凶器と化したサッカーボールが転がっていた。


 悪態をつきたくなった瞬間、目の前に、見たことのある赤と白が飛び込んできた。彼が着ているクラブチームのユニフォームだ。

 ぶつかった時の痛みが和らぎ落ちついてくると、鼻血をどうすれば良いのか大いに迷った。

 女子たしくハンカチを持ってない。もちろんティッシュもだ。裕兄といつも一緒だから財布どころか鞄さえ持って来てない。


 ……なんて低い女子力。

 問題は鼻血もだけど、私がここにいるのまずいのでは。夜にフェンスに張りついて見ていたなんて不審者だ。通報されたらどうしよう。

 早く立ち上がって逃げなきゃ。

 焦り始め何とか立ち上がろうと足に力を込めた。


「ちょっと見せて」


 すると、目の前にきた彼に、いきなり両手をつかまれ驚いて顔を上げた。

 そして、絶望した。

 さようなら……私の一目惚れ。この半年の想いを返せ。こんな血まみれの顔……見られたくなかった。

 目の前には、月夜の猫が、私の顔を見て言葉を失っていた。



「明日少し腫れるかもしれないから、痛み止め出しとくね」

 そう言ってくれたのは、フットサルとクラブチームの建物の裏手にある、総合病院の院長先生。

 クラブチームの専任ドクターで、夜でもすぐに見て貰えるらしい。

「レント。このことは監督やマネージャーに伝えておくからね」

 温和で優しいおじいちゃん先生かと思ったら、見た目よりも厳しいらしい。

 ベッドで横になっている私から離れ、ドアの前で気まずそうに治療を見守っていた彼が項垂れたように頷いた。


「今日は、悪天候になるから外での練習は中止になっただろ。室内練習と聞いていたが違ったか?」

 治療が終わると、看護師さんに起こして貰い、痛み止めの薬と水を貰う。

 私の顔は原型を留めていたが、おでこのあたりは未だに赤く少し腫れていた。

 鼻は無事だったけど、じんじんと痛みは激しく、元から少し貧血気味のせいか、しばらく動けなくてベッドで横になっていた。


「あ、あの。私は大丈夫です。だから……あまり怒らないで下さい」

 項垂れている彼が可哀想で、思わず口を挟む。

 その場にいる全員の視線が一気に私に突き刺さって、居心地が悪い。

「……優しいお嬢さんで良かったな、レント」

 院長先生の冷ややかな視線を受け止めたあと、彼が私を真っ直ぐに見つめた。

 落ち込んでいるその姿に、不謹慎だがときめいてしまう。

 鼻血を出している、とんでもない顔を見られたのに、彼と話せて嬉しいと思う私は、重症だ。


 遠目からだと黒髪に見えたのに、少し茶色がかったふわふわの髪に鳶色の瞳。

 心配そうな彼の瞳に私がうつっている……。そう思っただけで、緊張してしまう。


「本当に、ごめん」

 丁寧に頭を下げる彼に動揺した。

 初めて聞いた彼の声――。

 こんなにも近くで、面と向かって言葉を交わすのは初めて。

 しかも、謝ってくれる彼にドキドキして小さく「大丈夫です」としか言えなくて……。

 気のきいた言葉をかけられない自分が情けない。

 それに、絶対に今、顔が赤い。

 なのに、私と彼の出会いは最低最悪だ。

 なにか言わないと。ここできっかけを作らないと!

 これをチャンスに変えたいと思っても中々声が出てこない。何とか自分を奮い立たせ声をかけようとすると、大きな足音が聞こえた。


「柚月!」

 乱暴にドアを開け診察室に駆け込んで来たのは、慌てた様子の裕兄。

 人生で初めてと言っていいほど、この時ばかりは裕兄を恨んだ。

 もう少し後で迎えに来てくれたら良かったのに! せめて名前とか、学校とか聞きたかった。

「大丈夫か? 卓兄呼んだから安心しろ」

 いつも冷静な裕兄が、ここまで焦っているのを見るのは初めてかも知れない。しかも、卓兄まで来るとは……大事になってる。

「あ、あのね。大丈夫だよ。少し鼻血が出ただけだから」

 彼が、裕兄に何かされたら大変だと思って、慌ててベッドから下り立ち上がった瞬間……視界がグラリと揺れた。


 やばい……目が回る。


 ここで倒れたら、せっかく彼が近くにいるのに話せない

 暗くぼやけた視界の端で、彼が何か言っているように見えた。

 なんて言ったの? お願い……もう少しだけ頑張れ、私。

 そう願うのに気持ち悪さは増すばかり。

 やっぱり血が足りない……。明日のご飯は血を作る食べ物を食べよう。

 頭の中で、メニューを練った。

 人間、倒れるまで食べ物のことを考えるのか……。酷く食い意地が張っているようで情けない。


「柚月!」


 私の様子に、驚いた裕兄の声が聞こえた。身体が支えられず、床に倒れ込む寸前に誰かに抱きかかえられた。

 朦朧とする意識の中、見えたのは赤と白のユニフォーム。


 ああ、鼻血なんかじゃなくて、普通に出会いたかったのに。なにも話せないなんて残念すぎる。

 後悔していると目の前が真っ暗になり、そこで意識が途切れた。

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