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8.桜の香り

 病院からの連絡はまだ来ない。家族ではないから面会に行くこともできず、ただ思いを馳せて祈るだけ。

 顧問の先生がみんなに阿部先輩のことを伝えると、みんなは信じられないといった面持ちで顔を見合わせた。

「え、だって普通に指揮してたじゃん」

「阿部ちゃんが生死の境? 嘘でしょ?」

悲しいけど本当なんだ、と先生が首を振ると、みんなは水を打ったように静まり返る。

「……あの、みんなでお手紙書きませんか?」

小さな声を上げたのは、いつか先輩にリードを直してもらった三番クラリネットの一年生だった。

「私、阿部先輩にすごく感謝してるんです。でもちゃんとお礼言えてなくて。このまま……ってことになったら、きっと私一生後悔します」

彼女の細く高い声は、すっと空に溶けていった。その余韻は、ゆっくりとみんなに伝播した。

「……私も」

「……私も」

「私も!」

「私も!」

先生は優しく笑った。

「わかった。じゃあ、手紙を書いた人は俺に渡してくれ。責任を持って届ける」

それから、表情を硬くして続けた。

「しかし、忘れちゃいけない。阿部が助かるかどうかは、誰にもわからないんだ。手紙を書いても、阿部は読まないまま逝くかもしれない。そのことは、忘れちゃだめだぞ」

誰からともなく、頷いた。そして、みんな必死に紙を探し始めた。

 わたしももちろん書いた。先輩と演奏できて楽しかったこと。的確な先輩の指導がすごく頼もしかったこと。先輩を心から尊敬していたこと。先輩が存在したことに感謝していること。先輩の全てが大好きだったこと。書けば書くほど気持ちがほとばしる。文字が乱れ涙が飛び散る。汚くなっちゃう、とどこかで思うけど、もう止められない。先輩逝っちゃやだ、逝っちゃやだよ……!


 先生から電話が入ったのは、その日の夜のことだった。

「渡辺。驚かないでくれ。阿部が、阿部が……」

受話器を両手で握りしめ、耳にめり込むほど押しつける。

「どうしたんですか、どうなったんですか!?」

「…………」

何も聞こえない。どういうこと、早く教えてよ!

「先生! どうなんですか!」

「……………」

大きく息を吸い込む音が聞こえ、涙声が耳に届いた。

「目を、覚ました!」

一気に力が抜け、わたしは床にへたりと座り込んだ。

「本当? よかった、よかったです……」

「明日から一般病棟に移るらしい。そうしたら、俺たちも見舞いに行ける。はははっ、いやあ、本当によかった。はは、はははっ」

先生は湿った声のまま笑い続けた。わたしも気づけば笑っていた。いつまでもいつまでも、笑い声を漏らし続けた。

 翌日、先生とわたしは早速お見舞いに行った。みんなの手紙をちゃんと持って。

「こんにちはー」

扉を開けると、懐かしい阿部先輩の姿が目に飛び込んできた。途端に涙が吹き出てきて、わたしは先輩に駆け寄った。

「生きてる! よかった! よかったあぁぁ……」

先輩はわたしの頭をくしゃくしゃ撫で、優しく言った。

「ごめんな、心配かけて。本当に、ごめんな」

先生は、そんなわたしたちを見て微笑んだ。

「聞いたか、阿部。本選金賞だったんだぞ」

阿部先輩はちょっと目を見張って、歓声を上げた。

「そうなんですか? おお、すごい」

先生は苦笑いする。

「生徒指揮が振ってるとこなんて、他のどこにもなかったぞ。もう、阿部にはかなわんな」

「そんな。別に俺の手柄じゃありませんよ」

音を作ったのはお前たち奏者だからな、と先輩はわたしの頭をぽんぽんする。先生は早口に言った。

「部のみんなからの手紙だ。ありがたく読めよ。ここに置いとくから、俺はもう行くな」

あれ、気遣わせちゃった? わたしは先輩と顔を見合わせ、くすくす笑う。

 先生を見送ってから、わたしは言った。

「先輩。あの中身、読みました」

先輩はくしゃりと表情を崩した。

「ああ、あれな。また、会えたんだな」

透けそうな顔色は相変わらずだけど、綺麗な笑顔とあったかい声は元気だった頃とぴったり同じ。わたしはすっかり安心して言う。

「この世界に残ってくれて、ありがとうございます」

「うん、俺も残れて嬉しい。たまたまここは俺が普段から行ってた病院でね、医者にはこっぴどく叱られたけど」

当たり前です、とふくれてみせる。先輩は笑ってくれる。こんなちょっとしたことが、たまらなく幸せ。

「そうだ、みんなからの手紙、読みません?」

「そうだな」

ベッドの上に色とりどりの封筒が並ぶ。先輩は順番に手に取り、中を開けていった。

「おっ、濡れたみたいにしわっしわになってるのがあるぞ。どれどれ、渡辺香織より……?」

「もう! 涙ですよ!」

書いたときの気持ちがフラッシュバックして、目からぽろりと転がり出た。

「うわ、ごめん。泣くなって」

先輩は笑いながら謝る。

 しばらく黙って手紙に集中した後、先輩はしみじみと言った。

「でも、ありがたいよな。こんな俺に、こんな手紙書いてくれるんだもんな」

わたしは言う。

「だから先輩、わたしの不確かな記憶なんかに頼らなくたって、ちゃんと先輩は生きられるんですよ?」

わたしが何を言ったか、先輩には正確にわかったみたいだった。

「そうか……そうかもな……」

先輩は何度も頷いた。


「また部活に戻ってくださるんですか?」

聞くと、先輩は首を振った。

「それはさすがに無理だ。楽器も吹けないし、指揮もできない。今度指揮台に立ったら間違いなく死ぬって、医者に脅された」

「やっぱりそうですか……」

じゃあ、学校の中で見つけるしかないかな。三年生の教室が同じ階でよかった。きっと、北寄りの階段を使えば簡単に会える。そんなことを思っていると、先輩は衝撃的な言葉を吐いた。

「ごめんな。香織、お別れだ」

「はい!?」

どういうこと、もう今すぐ死にそうってこと? でも助かったばかりだし、そんな風にはとても見えない。先輩はくすくす笑った。

「変な勘違いしてるな? 違うよ、そういう意味じゃない。俺、アメリカに行くんだ」

「はい!?」

アメリカですって? 行ってどうするの、英語の勉強? それならもっとちゃんと治してからじゃないと……。

 先輩はすっと真面目な顔になって言った。

「親父がアメリカにいるって、前言ったろ? 親父、心臓外科医なんだ。親父の病院に転院して、手術を受ける」

「手術? それなら日本でだって……。どうしてわざわざ?」

先輩はわたしの手を握った。

「ごめんな。でもね、あの無茶のせいで、俺の体は限界なんだ。もう日本で独り暮らしを続けることはできない。アメリカに行って、親父と暮らすよ」

「でも、でも、十年くらい会ってなかったんじゃないんですか?」

先輩はふふっと笑った。

「俺がね、馬鹿だったんだよ。親父はプロだから、俺の病気のこともよく知ってる。もし万が一、と考えるとアメリカに遊びに来いなんて言えなかったんだろ。だからといって、年がら年中忙しい親父には日本に渡る暇もない。ただそれだけの話だったんだよ」

そうだったんだ。てっきり、憎み合いそしり合う関係なのかと思ってた。

「だからね、親父の手術を受けたいってここの医者を通して言ったら、先約なんてすっとばしてやってやるからすぐ来い、って言ってくれたよ」

幸せそうに微笑む先輩。新しい桜のつぼみがのぞいて見えるような笑み。

「出発はいつですか?」

「明日」

「ええっ、トゥモロー!?」

ひどい、そんなの早すぎる。心の準備ができてない。

「急でごめんね。でもね俺、また次いつ倒れるかわからないんだ。俺の心臓がもってるうちに、渡っちゃわなきゃいけない」

「そうですか……」

仕方ない、か。先輩が命を繋ぐためなら。この世界にとどまるためなら。

「いつか日本に帰ってきてくれますか?」

「もちろん。治ったら、絶対」

先輩は力強く頷いてくれる。


 面会時間終了のチャイムが鳴った。先輩はわたしを見て言う。

「明日の朝早く、ここを出る。これが最後だ」

わたしも先輩を見て言う。

「絶対また会いましょうね」

小指を出すと、先輩も小指を絡めてくる。

「指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーます!」

先輩はふわりと笑う。わたしはこらえきれなくなり、先輩に抱きつく。

「今までありがとうございました。大好きです」

先輩も抱きしめ返してくれる。

「俺もだよ。香織には感謝しかない。大好きだ」

どちらからともなく、ゆっくりと重ね合わせた唇。最初で最後のキスは、甘い桜の香りがした。

3000字くらいの短編にするつもりがこんなに長くなって、自分でもびっくりしています。


阿部先輩を死なせるべきかどうか、だいぶ悩みましたが、結局ハッピーエンドみたいになってよかったかなって思います。


ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。

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