第99話 守るための呪い
東方古代魔法都市エルディア。
朝日が昇るよりも早く、ミレイユは宿を出た。
手には杖。
腰には魔法具を詰め込んだ小さな鞄。
そして、鞄の中には昨夜から調べ続けている古書が入っていた。
《深淵の呪鎖》。
古代文明が封印した、第四の器。
「……さて」
ミレイユは街の中央にそびえる図書塔を見上げた。
「昨日の続きを始めましょうか」
昨夜、ギルドから届いた連絡によれば、各地の古代遺跡で黒い魔力の異常が確認され始めているらしい。
エルディアの魔力観測塔も、その一つだ。
偶然とは思えない。
誰かが、古代文明の魔力経路を意図的に動かしている。
そして、その影響は封印された呪術にまで及んでいた。
「問題は、誰が、何のためにやっているのか……ね」
ミレイユは地下書庫へと足を進めた。
*
図書塔の地下。
「ミレイユさん、お待ちしておりました」
司書が、いつになく険しい顔で出迎えた。
「封印扉の状態は?」
「昨夜から変化はありません。ただ……」
司書は一枚の記録板を差し出した。
「封印区域の魔力を調べたところ、奇妙な反応が見つかりました」
「奇妙な反応?」
「はい。封印が弱まるたびに、別の場所から魔力が流れ込んでいるのです」
ミレイユは記録板を受け取った。
そこには、地下書庫を中心に、複数の魔力経路が描かれていた。
そのうちのいくつかが黒く染まっている。
「……この経路、街の外まで続いているわね」
「その通りです。しかも、終点が分かりません」
「なるほど」
ミレイユは記録板を見つめた。
「誰かが外から魔力を送り込んでいる。しかも、単に封印を壊すのではなく、封印の中にあるものを動かそうとしている……」
「それは、いったい何のために?」
「さあね」
ミレイユは肩をすくめた。
「でも、ろくな目的じゃないでしょうね」
彼女は記録板を返した。
「封印区域に入るわ。昨日の異形が、まだ残っているかもしれない」
「危険です!」
「だから、私が行くのよ」
ミレイユは笑った。
「危険なものを放置するほど、私は無責任じゃないわ」
そう言って、彼女は封印扉の前へ進んだ。
*
封印扉の向こうは、昨日とは様子が違っていた。
壁に刻まれた魔法文字が、淡い紫色に輝いている。
床には、幾重にも重なった魔法陣。
その中心には、黒い亀裂が一本だけ走っていた。
「……ここね」
ミレイユはしゃがみ込み、亀裂に杖を近づけた。
魔力を流す。
すると、亀裂の奥から微かな反応が返ってきた。
まるで、何かがこちらを見ているようだった。
「……気味が悪いわね」
ミレイユは立ち上がった。
「でも、何も分からないまま帰るわけにはいかない」
彼女は魔法陣の周囲を調べ始めた。
すると、壁の一部に古い碑文が刻まれていることに気づいた。
文字はかすれていたが、読み取れる部分もある。
『第四の器は、力を縛るものではない』
『暴れる力を受け止め、流れを次へ渡すためのもの』
『しかし、器に願いを重ねすぎた者は――』
そこで文章が途切れていた。
「……また、ここで切れているのね」
ミレイユは眉をひそめた。
「都合の悪いところだけ消されている……?」
単なる経年劣化ではない。
文字が削られた跡がある。
誰かが意図的に、記録の一部を消したのだ。
ミレイユは壁を調べ、隠された仕掛けを見つけた。
石板の端を押す。
カチリ。
壁の一部が開いた。
その奥には、小さな記録室が隠されていた。
「……当たりね」
ミレイユは中へ入った。
*
記録室には、三枚の古い石板が並んでいた。
一枚目には、七つの器の図。
二枚目には、魔力を循環させる仕組み。
そして三枚目には――
鎖に縛られた人々の姿が描かれていた。
「……何よ、これ」
ミレイユの表情が変わった。
石板には、古代文字が刻まれていた。
『守護のために生まれた鎖は、やがて人の願いを受け取った』
『失うことを恐れた者は、鎖に願った』
『もう二度と、誰も失わない力を』
ミレイユは息を呑んだ。
石板の絵が続く。
鎖は人々を守るように広がっていた。
崩れた建物を支え、暴走する魔力を押さえ、傷ついた者たちを危険から遠ざける。
だが、次の絵では様子が変わっていた。
鎖は街全体を覆い、人々の手足に絡みついていた。
誰も外へ出られない。
誰も自由に動けない。
そして、鎖の中心には、一人の術者が立っていた。
『願いは、やがて命令へと変わった』
『守るために縛り、失わないために離さず、ついには世界の流れを止めようとした』
ミレイユは石板から目を離せなかった。
「……そんな」
鎖は悪いものではなかった。
もともとは、暴走する力を受け止め、世界の流れを守るための器だった。
しかし、使い手が願いを重ねすぎた。
守りたい。
失いたくない。
誰も傷ついてほしくない。
その願いが、いつしか他者の自由を奪う力へ変わってしまった。
「……これが、《深淵の呪鎖》の封印理由?」
ミレイユは唇を噛んだ。
古代文明は、鎖そのものを危険だと判断したのではない。
鎖に自分の願いを預け、他人の意思まで支配しようとする使い手を恐れたのだ。
そして、その力を制御できなくなった結果――
世界の魔力循環まで崩壊させかけた。
「……馬鹿げているわ」
ミレイユは小さく呟いた。
「守るために力を求めたはずなのに、どうしてそんなことになるのよ」
答えは分かっていた。
分かっているからこそ、胸が痛かった。
守りたいものがある。
失いたくないものがある。
その気持ちは、決して間違いではない。
けれど。
その気持ちが強くなりすぎたとき、人は相手のためと言いながら、自分の不安を消すことばかり考えてしまう。
「……私は、違う」
ミレイユは自分に言い聞かせた。
「私は、そんな使い方はしない」
だが、その言葉を口にした直後。
石板の奥から、かすかな声が響いた。
『本当に?』
「……っ!」
ミレイユが振り向く。
誰もいない。
ただ、石板の鎖だけが、淡く紫色に輝いていた。
*
そのとき、地下書庫の奥で爆発音が響いた。
ドォンッ!!
「何!?」
ミレイユは記録室を飛び出した。
封印扉の前で、司書たちが慌てている。
「ミレイユさん! 魔力経路が急激に乱れています!」
「また黒い魔力!?」
「はい! 今度は封印区域だけではありません! 街の観測塔にも異常が!」
ミレイユは歯を食いしばった。
「……同時に動かしているのね」
誰かが複数の魔力経路を操作し、封印を揺さぶっている。
目的は、単なる破壊ではない。
各地の器をつなぐための経路を、無理やり動かそうとしているのだ。
その影響で、封印された呪術まで反応している。
「司書さん! 地上の人たちを避難させて!」
「分かりました!」
「私は魔力経路を止めるわ!」
ミレイユは杖を構えた。
「《百呪領域》!」
紫色の魔法陣が地下書庫全体へ広がる。
複数の呪いを重ね、黒い魔力の流れを細かく分断する。
だが、今回は昨日よりも強い。
黒い魔力が魔法陣を押し返してくる。
「くっ……!」
ミレイユは片膝をついた。
魔力が削られていく。
このままでは持たない。
もっと強い拘束が必要だ。
相手の流れを完全に止めるほどの力が。
その瞬間。
彼女の鞄の中で、古書が輝いた。
《深淵の呪鎖》。
表紙の紫色の鎖が、まるで生きているかのように動いている。
ミレイユは本を取り出した。
「……あなたの力があれば、止められるの?」
古書は答えない。
しかし、表紙の鎖がゆっくりと伸び、ミレイユの指先へ触れた。
頭の中に、言葉が響いた。
『願え』
『守りたいものを』
『失いたくないものを』
ミレイユの呼吸が止まった。
脳裏に浮かんだのは、古代都市の人々。
逃げ惑う研究者。
怯える司書。
そして――
ソアの顔だった。
危険な場所へ飛び込み、何度傷ついても笑う少女。
自分の力を恐れず、他人の手を取ることをためらわない少女。
「……ソア」
ミレイユは小さく呟いた。
今、彼女はどこにいるのだろう。
無茶をしていないだろうか。
ちゃんと食べているだろうか。
また鎧を壊して、修理代に困っていないだろうか。
……いや。
最後の一つは、たぶん間違いなく困っている。
「……本当に、心配ばかりかける子ね」
ミレイユは苦笑した。
そして、古書を閉じた。
「でも……」
彼女は立ち上がった。
「私が守りたいのは、あの子が自由に進めることよ」
ソアが自分の意志で選び、自分の足で歩き、自分の大切なものを大切にできること。
そのために、誰かを縛りつけるつもりはない。
「だから、あなたの力を借りるとしても……私の願いまで、あなたに決めさせるつもりはないわ」
古書の光が、わずかに強まった。
だが、何も起こらない。
まだ、器は彼女を選んでいないのだ。
*
ミレイユは杖を握り直した。
「《百呪・分流》!」
昨日と同じ術。
黒い魔力を複数の流れへ分け、吸い込まれる力を散らしていく。
しかし今回は、さらに別の呪いを重ねた。
「《呪鎖》!」
紫色の鎖が、黒い魔力の流れに沿って伸びる。
その鎖は、相手を縛らなかった。
魔力の通り道を示し、分流した力を次の経路へとつないでいく。
一つ。
二つ。
三つ。
分断されていた流れが、少しずつ本来の経路へ戻っていく。
「そう……止めるんじゃない」
ミレイユは目を見開いた。
「流れを、正しい場所へ戻すのよ!」
最後の魔法陣が輝いた。
黒い魔力が、大きく揺らぐ。
そして――
スッ。
吸い込まれていた魔力の流れが、元の向きへ戻った。
地下書庫を覆っていた黒い光が消えていく。
封印扉の亀裂も、ひとまず動きを止めた。
「……はぁっ……!」
ミレイユは壁に手をついた。
全身から力が抜けていく。
完全に解決したわけではない。
それでも、街へ広がる異変を食い止めることはできた。
司書が駆け寄ってきた。
「ミレイユさん! 魔力経路が安定しました!」
「……そう。よかったわ」
「いったい、どうやって……?」
ミレイユは、自分の手を見つめた。
さっきの術は、今までの自分とは少し違っていた。
相手の動きを封じるのではなく、流れそのものをつなぎ直した。
まるで、鎖が本来持っていた役目をなぞるように。
「……まだ、分からないわ」
ミレイユは鞄の中の古書を見た。
「でも、調べる価値はありそうね」
*
その夜。
ミレイユは宿の机に向かい、調査記録をまとめていた。
古代文明の失敗。
《深淵の呪鎖》の本来の役割。
そして、黒い魔力による経路の強制接続。
点と点が、少しずつつながり始めている。
誰かが、世界樹の力を一つの場所へ集めようとしている。
そのために、各地の古代遺跡を動かしているのだ。
「……ソアたちも、きっと何か見つけているわね」
ミレイユは通信結晶を手に取った。
連絡を入れようかと考えたが、すぐにやめた。
「……いえ。まだ、確かなことが分からないもの」
それに。
もし連絡すれば、あの少女はきっと言うだろう。
『ミレイユさん、大丈夫ですか!? 今すぐ行きます!』
そして、鎧をガシャガシャ鳴らしながら駆けつけてくる。
「……本当に、やりそうなのよね」
ミレイユは小さく笑った。
その笑顔が消えたのは、机の上の古書が再び開いたときだった。
紫色の鎖が、ゆっくりと浮かび上がる。
そして、新しい文字が現れた。
『願いを、手放すことはできるか』
ミレイユは、その文字をじっと見つめた。
「……できるわよ」
すぐに答えた。
「私は、誰かを縛りつけるために力を使うつもりはないもの」
しかし、文字は消えなかった。
代わりに、その下へ新たな一文が浮かび上がる。
『では、失うことを恐れたときも?』
「…………」
ミレイユは答えられなかった。
窓の外で、夜風が吹いた。
古代魔法都市の明かりが、静かに揺れている。
大切なものを守りたい。
失いたくない。
その願いを、間違いだとは思わない。
けれど――
もし、本当に失いそうになったとき。
自分は、それでも相手の自由を尊重できるのだろうか。
「……まだ、答えは出せないわね」
ミレイユは古書を閉じた。
今はまだ、力を求める必要はない。
まずは真実を知る。
そして、自分が何を願っているのかを知る。
それからでも、遅くはないはずだ。
――その頃。
古代都市の地下深くでは、黒い魔力が再び小さく脈打っていた。
ミレイユが分流させた魔力の一部が、誰にも気づかれないまま、別の経路へと流れていく。
その先にあるのは、東方から遠く離れた古代遺跡。
七つの器を示す装置の一角だった。
そして、紫色の鎖を示す紋様が――
ほんの一瞬、黒く染まった。




