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『鎧を脱いだら、世界が変わった』  作者: ムファッサー
第七章 鉄壁の答え

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第73話 温泉宿と、絶対に脱ぎたくない鎧


「……温泉?」


ソア・ミュスカは、街道沿いに立つ看板を見上げた。


そこには、大きな文字でこう書かれていた。


『名湯・竜の湯 本日、冒険者歓迎! 鎧のままでも入浴できます!』


「入ろう!」


即答だった。


「待て、ソア」


隣を歩いていたレイナが、彼女の肩をつかむ。


「私たちは竜皇砲のある炉心遺跡へ向かっているんだぞ」


「うん!」


「道中に寄り道をする余裕があるのか?」


「ある!」


「即答するな!」


ソアは看板を指さした。


「だって、鎧のまま温泉に入れるんだよ!?」


「……それがそんなに重要なのか?」


「重要だよ!」


ソアは真剣だった。


「普通の温泉って、鎧を脱がないと入れないでしょ? でも、ここは鎧のままでいいんだよ!」


「いや、普通は脱ぐだろう……」


「しかも、名湯!」


「温泉の話をしているんじゃない!」


その時。


ソアの足元から、ぴょこんとシードが顔を出した。


「……おんせん?」


「そう! 温かいお湯に入るんだよ!」


「……おゆ」


シードは少し考えた。


「……のみもの?」


「違うよ!?」


ソアが慌てて否定する。


「飲んでもいいかもしれないけど、基本的には入るもの!」


「……じゃあ、はいってみる」


「うんうん!」


レイナは二人を見比べ、深いため息をついた。


「……少し休憩するだけだからな」


「やったぁ!」


こうして一行は、予定外の温泉宿へ向かうことになった。


     *


「いらっしゃいませ!」


宿の女将は、三人を笑顔で迎えた。


「おや、全身鎧のお嬢さん。ずいぶん立派な鎧だねえ」


「ありがとうございます!」


「その鎧、脱いでお預けになりますか?」


「いいえ!」


「……まだ何も説明していませんが?」


「鎧は私の一部ですから!」


「いや、物理的には別のものだろう」


レイナの冷静な指摘は、ソアの耳を素通りした。


女将は慣れた様子でうなずく。


「うちの温泉は魔法で温度を調整しているから、鎧を着たままでも大丈夫だよ。ただし、他のお客さんの迷惑にならないようにね」


「はい!」


ソアは元気よく返事をした。


そして、受付の横に置かれた料金表を見た。


「…………」


笑顔が消えた。


「……レイナ」


「なんだ?」


「温泉って……高いんだね」


「普通だと思うが」


「鎧の修理代があるのに……」


ソアは財布を取り出した。


中身を確認する。


銀貨が数枚。


銅貨が少々。


「…………」


「ソア、まさか所持金が足りないのか?」


「足りるよ!」


「本当か?」


「……一番安いコースなら!」


「それは宿泊なしの入浴だけだろう」


「うん!」


「なら、なぜそんなに胸を張っているんだ……」


ソアは女将に向き直った。


「すみません! 入浴だけでお願いします!」


「はいよ。鎧のままなら追加料金がかかるけどね」


「えっ!?」


ソアの顔が凍りついた。


「追加……料金……?」


女将はにこやかに続ける。


「鎧の汚れを落とすための洗浄費と、浴槽を傷つけないための保護魔法代だよ」


「…………」


「合わせて、銀貨三枚だね」


「…………」


ソアはゆっくりとレイナを振り返った。


「……レイナ」


「なんだ」


「私、温泉に入るために鎧を脱ぐね」


「最初からそうしろ!」


     *


脱衣所。


ソアは鎧を外していた。


ガシャッ。


胸当て。


ガシャッ。


肩当て。


ガシャッ。


腕当て。


ガシャッ。


脚甲。


一つずつ、丁寧に外していく。


そして、すべての鎧を棚に並べた。


「……ふう」


ソアは満足そうにうなずいた。


「やっぱり、鎧って美しいなあ……」


「入浴する前から鎧を鑑賞するな」


レイナはすでに湯上がり用の服を用意していた。


「ほら、早く入るぞ」


「待って。胸当ての角度が気になる」


「何の角度だ!?」


「ここを少し右に向けると、光の反射が……」


「温泉に来てまで鎧の展示会をするな!」


その時、シードが棚の前に立った。


「……そうあ」


「ん?」


「……これ、まもる?」


シードは胸当てを指さした。


ソアは少しだけ表情を和らげた。


「うん。今まで何度も私を守ってくれた、大切な鎧だよ」


「……そっか」


シードは胸当てをじっと見つめた。


そして、小さな手を伸ばす。


ぺたっ。


「……ありがとう」


「…………」


ソアが固まった。


「シード……!」


目に涙が浮かぶ。


「あなた、鎧の良さが分かるのね……!」


「……うん」


「よし、今度、鎧の手入れについて教えてあげる!」


「……おていれ」


「まずは表面の汚れを落として、油を塗って、関節部分を確認して、それから――」


「ソア!」


レイナが二人の間に割って入った。


「温泉が冷める!」


「温泉は冷めないよ! 魔法で温度調整してるって女将さんが言ってたもん!」


「そういう問題じゃない!」


     *


「はああああ……」


湯船に浸かったソアが、幸せそうな声を漏らした。


「気持ちいい……」


隣ではレイナも肩まで湯に浸かっている。


「……確かに、悪くないな」


「でしょ?」


ソアは目を閉じた。


旅の疲れが、少しずつ抜けていく。


炉心遺跡のことも、黒衣の男のことも、今は考えなくていい。


ただ温かいお湯に浸かっている。


それだけで、十分だった。


「……そうあ」


シードが小さな桶を抱えてやってきた。


「ん? どうしたの?」


「……これ」


桶の中には、湯が入っている。


「……おゆ、くんできた」


「うん。ありがとう」


ソアが桶を受け取る。


シードは真剣な顔で言った。


「……あらう?」


「えっ?」


「……よろい」


「…………」


ソアの目が輝いた。


「洗ってくれるの!?」


「……うん」


「ありがとう、シード!」


ソアは勢いよく立ち上がった。


「じゃあ、今すぐ――」


「ソア、待て!」


レイナが止めた。


「今は温泉に入っているんだぞ!」


「でも、鎧を洗ってくれるって!」


「後でいいだろう!」


「お湯が温かいうちに洗ったほうが汚れが落ちやすいかもしれない!」


「ここは洗濯場じゃない!」


湯船の周囲に、二人の声が響き渡る。


その様子を見ていたシードは、こてんと首を傾げた。


「……おんせん」


「そうだよ!」


ソアが振り返る。


「温泉は最高だね!」


「……うん」


シードは満足そうにうなずいた。


「……みんな、あったかい」


その言葉に、レイナは思わず笑った。


「……そうだな」


     *


温泉から上がった後。


三人は休憩所で牛乳を飲んでいた。


ソアは腰に手を当て、一気に飲み干す。


「ぷはぁっ!」


「……おっさんみたいな飲み方だな」


「おいしいものは、おいしく飲む!」


「それはそうだが……」


シードは牛乳の瓶を両手で持ち、少しずつ飲んでいた。


「……おいしい」


「でしょ?」


ソアは嬉しそうにうなずいた。


その時、女将が休憩所にやってきた。


「そうそう、全身鎧のお嬢さん」


「はい!」


「さっき、脱衣所に鎧を置いていっただろう?」


「はい! ちゃんと棚に並べました!」


「それがねえ……」


女将は困ったように笑った。


「鎧の一部が、勝手に動いていたんだよ」


「…………え?」


ソアの笑顔が止まった。


レイナがゆっくり振り向く。


「……ソア」


「ち、違うよ?」


「まだ何も言っていないぞ」


「私、温泉では何もしてないよ!?」


女将は首を傾げた。


「胸当てが少し浮き上がって、肩当てがくるくる回ってねえ。最後には、脚甲が棚から落ちそうになったんだよ」


「…………」


ソアは自分の手を見た。


温泉に入る前。


シードが胸当てに触れた。


そして、鎧は彼女の大切な装備だ。


《スキンブースト》の影響が残っている装甲には、時折、魔力が流れ込むことがある。


最近は、一枚程度なら自分の意思で動かせるようになっていた。


だが、今は何も操作していない。


「……もしかして」


ソアが小さくつぶやいた。


「鎧も、温泉に入りたかったのかな?」


「そんなわけあるか!」


レイナが即座に突っ込んだ。


その瞬間。


休憩所の入口から、ガシャン、と音がした。


三人が振り向く。


そこには――


宙に浮いた胸当てがあった。


続いて肩当て。


腕当て。


脚甲。


四つの装甲が、ふわふわと空中を漂っている。


「…………」


「…………」


「……よろい」


シードが目を輝かせた。


ソアも目を輝かせた。


「すごい……!」


レイナだけが頭を抱えた。


「どうして温泉宿で、鎧が空を飛んでいるんだ……!」


ソアは立ち上がり、宙に浮く胸当てに手を伸ばした。


「おいで、私の鎧!」


胸当てが、ふわりと近づく。


ソアは感動した。


「……私、温泉に入っている間も、鎧と心がつながっていたんだね……!」


「違う! 絶対に違う!」


レイナの叫びが休憩所に響き渡った。


     *


その夜。


ソアたちは炉心遺跡へ向かうため、宿を出発した。


温泉で疲れは取れた。


シードは牛乳を気に入った。


レイナは久しぶりにゆっくり休めた。


そしてソアは――


「……温泉、最高だったなあ」


満面の笑みを浮かべていた。


ただし。


「……あれ?」


ソアは自分の鎧を見た。


胸当てに、細い亀裂が一本入っている。


「…………」


レイナがそっと視線を逸らした。


「……レイナ」


「知らない」


「まだ何も言ってないよ!?」


「どうせ修理代の話だろう!」


ソアは胸当てを抱きしめた。


「温泉に入っただけなのに……!」


「鎧は温泉に入っていないだろう!」


「でも、心は一緒だったのに!」


「心を一緒にするな!」


その横で、シードが小さく手を挙げた。


「……そうあ」


「なに?」


「……つぎは、よろいも、おんせん?」


ソアは真剣な顔で考え込んだ。


「……それ、いいかもしれない」


「いいわけあるかあああああ!」


レイナの叫びが、夜の街道に響き渡った。


こうして三人は、いつも通りの騒がしさを取り戻しながら、火山地帯へ向かっていく。


七つの器の謎も、黒衣の男の目的も、まだ分からないことだらけだ。


けれど今夜くらいは、難しいことを考えなくてもいい。


ソアにとって大切なのは――


温かい温泉と。


おいしい牛乳と。


そして、何よりも。


「……帰ったら、鎧を修理しなきゃ」


やっぱり、鎧だった。

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