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『鎧を脱いだら、世界が変わった』  作者: ムファッサー
第六章 風の循環と、空中都市

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第58話 空を渡る依頼と、黒衣の来訪者


「目標、十メートル!」


ソア・ミュスカは、崖の上で拳を握りしめた。


背中には、銀白色の小さな翼。


隣には、植物の精霊シード。


そして少し離れた場所では、古代遺跡に詳しい冒険者リュシアが腕を組んで見守っている。


「昨日は七メートルまで飛べたんだよね。だったら今日は十メートル!」


「ソア、距離だけを目標にするのは危険よ。飛行時間と着地の安定も意識して」


「分かってる!」


「本当に?」


「……たぶん!」


リュシアは額に手を当てた。


「その返事が一番不安なんだけど」


シードがソアの背中を見上げる。


「……そあ。まほう、ながす」


「うん。風に魔力を乗せるんだよね」


ソアは深呼吸した。


翼に意識を向ける。


身体の中を巡る魔力を、背中へ。


そこから翼へ。


さらに、周囲を流れる風へとつなげていく。


ふわり。


足が地面から離れた。


「おっ……!」


昨日よりも、浮き上がる動作が滑らかだ。


ソアは風の流れを感じながら、少しずつ前へ進んだ。


一メートル。


三メートル。


五メートル。


「いいわ、そのまま!」


リュシアの声が飛ぶ。


ソアは風に逆らわず、流れに沿って身体の向きを変えた。


七メートル。


八メートル。


「いける……!」


九メートル。


そして――


十メートル!


「やったぁぁぁ!」


その瞬間、翼の光が弱くなった。


「……あれ?」


身体が傾く。


「ちょっ、待っ――!」


ドサァッ!!


ソアは草むらへ突っ込んだ。


一拍遅れて、銀色の装甲が地面に転がる。


カラン、カラン。


「…………」


リュシアは空を見上げた。


「十メートル飛べたわね」


「うん……!」


草むらから顔だけを出したソアが、満面の笑みを浮かべる。


「でも、着地は失敗ね」


「…………うん」


「それと、背中の装甲板の留め具が曲がってるわ」


「…………え?」


ソアの笑顔が凍りついた。


ゆっくりと、自分の背中を見る。


確かに、装甲板が少し傾いていた。


「…………修理代」


「ソア?」


「十メートル飛べたのに……修理代……」


「ソア、しっかりして!」


「ううう……! 空を飛ぶって、お金がかかるんだね……!」


「そこなの!?」


シードが装甲板を拾い上げた。


「……なおす?」


「もちろん!」


ソアは即座に立ち上がった。


「私の鎧だもん。ちゃんと直して、もっと飛べるようにする!」


リュシアは苦笑した。


「本当に鎧が好きなのね」


「大好き!」


ソアは胸を張った。


「鎧も翼も、どっちも大事にするんだから!」


その言葉に、シードの頭の葉っぱが小さく揺れた。


「……そあらしい」


◇


その日の午後。


三人は冒険者ギルドへ戻っていた。


風鳴り渓谷の調査報告と、封印した黒い結晶の引き渡し。


そして、報酬の受け取りだ。


「調査報酬が銀貨八枚。魔物の素材が銀貨三枚。合計、銀貨十一枚になります」


受付嬢が金額を告げた。


ソアの目が輝いた。


「銀貨十一枚!」


「ただし、今回の装備修理代は別ですからね」


「…………はい」


「それから、預けていただいた黒い結晶ですが、ギルドの調査員が興味深いことを発見しました」


受付嬢は声を少し落とした。


「結晶は魔力を吸収するだけではありません。吸収した魔力の流れを変え、別の場所へ送り出す性質があるようです」


リュシアが眉を寄せる。


「やっぱり、単なる魔力増幅装置じゃないのね」


「はい。しかも、古代遺跡で発見された装置と構造が似ています」


「世界樹の紋章があった遺跡?」


ソアが尋ねると、受付嬢はうなずいた。


「関連がある可能性は高いそうです。ただ、詳しいことはまだ分かっていません」


ソアは腕を組んだ。


「魔力を吸い込んで、流れを変えて……」


風見の塔で見た文字が頭をよぎる。


力を集める者は、すべてを失う。


力を巡らせる者は、失ったものを再び見いだす。


「……やっぱり、魔力って流すことが大事なんだね」


シードがうなずいた。


「……ながれ。とめない」


「うん。私の翼も、そういう仕組みなのかも」


ソアは背中の翼に触れた。


以前よりも、確実に動かしやすくなっている。


けれど、まだ自由自在とはいかない。


飛べる距離は伸びているが、魔力が尽きれば落ちる。


十メートル飛べても、十メートル先に安全に着地できるとは限らないのだ。


「もっと練習しないとね」


ソアが気合いを入れ直した、その時だった。


「実は、皆さんにお願いしたい依頼があるのですが……」


受付嬢が一枚の依頼書を取り出した。


「空を渡るための護衛依頼です」


「……空を渡る?」


ソアの耳がぴくりと動いた。


「はい。山間部にある小さな集落へ、薬品や食料を届ける仕事です。普段は空中輸送用の魔導装置を使っているのですが、最近、装置が不安定になっているそうで」


リュシアが依頼書を覗き込む。


「空中輸送用の魔導装置……。古代遺跡の技術が使われている可能性があるわね」


「その可能性も含めて調査してほしい、とのことです」


ソアは依頼書を見つめた。


目的地は、山脈の向こう側にある集落。


地上から向かうには、険しい山道を何日も歩かなければならない。


しかし、空を渡れれば大幅に時間を短縮できる。


「つまり……」


ソアはゆっくり顔を上げた。


「飛ぶ練習をしながら、お仕事ができる!」


「報酬を得ながら、飛行能力も鍛えられる、ということね」


リュシアが補足する。


「そう! しかも、うまくいけば修理代も稼げる!」


「……そあ」


シードが小さく手を挙げた。


「ん?」


「……しゅうりだい、だいじ」


「うん!」


ソアは力強くうなずいた。


「すっごく大事!」


リュシアは、もう何も言わなかった。


◇


依頼の受諾手続きを進めようとした、その時。


ギルドの扉が開いた。


ギィィ……。


外から吹き込んだ風に、掲示板の依頼書が揺れる。


入口に立っていたのは、黒いローブをまとった男だった。


顔の大部分はフードに隠れている。


腰には武器らしきものも見当たらない。


だが、ソアはすぐに気づいた。


「あ……」


天空の門で出会った男。


黒い鎖を操り、古代の力を吸収した人物。


そして、巨神の籠手を奪った男。


「……あなた」


男もソアを見た。


「久しぶりだな」


ギルドの空気が変わった。


近くにいた冒険者たちが、何事かと視線を向ける。


リュシアは自然にソアの前へ出た。


シードの頭の葉っぱが、ぴんと立つ。


「……くろい」


シードがつぶやいた。


男は周囲の視線を気にする様子もなく、受付へ歩いていった。


「依頼を受けたい」


受付嬢が戸惑いながら尋ねる。


「どのような依頼でしょうか?」


男は一枚の紙を差し出した。


「天空の門に関する調査だ」


「……!」


ソアが目を見開いた。


男は続けた。


「正確には、天空の門のさらに奥。空に浮かぶ遺跡群の中心部へ向かうための道を探している」


リュシアが警戒を強めた。


「どうして、そんな場所を?」


「必要だからだ」


「何のために?」


男は答えなかった。


代わりに、ソアへ視線を向ける。


「お前も翼を得たのだろう?」


ソアは背中の銀白色の翼を見た。


「……まだ、ちょっとしか飛べないけど」


「それでも十分だ」


「十分じゃないよ。昨日なんて、十メートル飛んで草むらに突っ込んだし」


「……そうか」


男の声が、ほんの少しだけ揺れた。


「ならば、もっと飛べるようになればいい」


「え?」


「空の道は、まだ閉ざされている。だが、お前の翼なら道を開ける可能性がある」


ソアは警戒しながらも、男を見つめた。


「……あなたは、何をしようとしているの?」


男はしばらく黙っていた。


そして、静かに答えた。


「失ったものを、取り戻す」


その言葉には、怒りとも悲しみともつかない響きがあった。


ソアは何も言えなかった。


男の目に浮かんでいたのは、単なる力への執着ではない。


もっと深い、何か。


誰かを失った者だけが抱えるような、消えない痛みだった。


しかし、男はすぐに視線をそらした。


「お前たちの邪魔をするつもりはない。今はな」


「今は、って……」


ソアが言い返そうとした時、男の足元に黒い鎖が現れた。


鎖は音もなく床を這い、次の瞬間には男の姿を包み込む。


黒い光が弾けた。


男の姿が消えた。


「……えええええ!?」


ソアが叫ぶ。


「また逃げたぁぁぁ!」


リュシアは額を押さえた。


「転移魔法ね。しかも、かなり高度な……」


「……そあ」


シードがソアの袖を引っ張る。


「ん?」


「……あのひと、かなしい」


ソアは、男が立っていた場所を見つめた。


「……うん」


何を失ったのか。


誰を取り戻そうとしているのか。


ソアには分からない。


ただ一つ、確かなことがあった。


あの男は、世界樹の力を集めようとしている。


そして、そのためならば、どんな危険な力にも手を伸ばす。


「……止めなきゃいけないのかな」


ソアは小さくつぶやいた。


リュシアはすぐには答えなかった。


やがて、静かに口を開く。


「少なくとも、彼が何をしようとしているのかは知らなければならないわ」


「……そうだね」


ソアは依頼書を手に取った。


空を渡る依頼。


その先には、天空の門のさらに奥へ続く道があるかもしれない。


そして、黒衣の男が求めているものも。


「よし!」


ソアは依頼書を胸の前で握りしめた。


「この依頼、受けます!」


受付嬢がうなずく。


「分かりました。それでは、詳細を説明しますね」


「お願いします!」


ソアは気合い十分だった。


空を飛ぶ。


鎧を直す。


お金を稼ぐ。


そして、あの男の目的を知る。


やることは山積みだ。


「……あ」


ソアがふと気づいたように声を上げた。


「どうしたの?」


リュシアが尋ねる。


「空を渡るなら、途中で落ちた時のことも考えないと……」


「そうね。安全対策は必要よ」


「だったら、予備の装甲板を持っていこう!」


「……どうして装甲板なの?」


「足場にできるかもしれないから!」


リュシアは天井を仰いだ。


「飛行装置や安全ロープという発想はないの……?」


ソアは真剣な顔で答えた。


「だって、鎧なら持ってるもん!」


シードがこくりとうなずく。


「……そあの、かまえ」


「そう! 私の鎧は、私の相棒だからね!」


ソアは笑った。


その背中で、銀白色の翼が淡く光る。


風が吹いた。


その風は、遠い山脈の向こうへ。


そして、まだ誰も知らない天空の道へと流れていった。


一方その頃。


山脈の奥にある古代の転移施設。


黒衣の男は、石造りの床に片膝をついていた。


目の前には、七つに枝分かれした世界樹の紋章。


その一つが、かすかに光っている。


男は懐から、黒い線の走った銀白色の羽根を取り出した。


「……翼は、目覚め始めている」


羽根の中心から、わずかな緑色の光が漏れる。


男はそれを握りしめた。


「今度こそ……」


低い声が、暗い施設に響く。


「誰一人、失わせはしない」


光が消えた。


そして、七つの紋章のうち、もう一つが黒く染まり始めた。


――空の道が開かれる時、次の試練もまた、動き出す。

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