第56話 逆流する風と、黒い結晶
風鳴り渓谷の調査を終えた翌朝。
ソアは、宿のベッドの上で背中を丸めていた。
「…………」
目の前には、昨日の戦闘で傷ついた装甲板。
その横には、曲がった留め具が三つ。
さらに、修理を待つ肩当てと、傷だらけのすね当て。
「……お金が、足りない」
ぽつりとつぶやく。
昨日、魔力の流れを変えることには成功した。
翼の使い方にも、新しい手がかりが見つかった。
冒険者としては、間違いなく前進している。
しかし。
「強くなった。でも、お金がない……」
ソアは枕に顔を埋めた。
「……ソア?」
隣のベッドで休んでいたシードが、心配そうに声をかける。
「大丈夫。ちょっと現実と戦ってるだけ……」
「……げんじつ?」
「修理費のことだよ」
「……なおす?」
「うん。直したい。全部直したい!」
ソアは勢いよく顔を上げた。
「だって、私の鎧だもん!」
その目には、先ほどまでの落ち込みが嘘のように力が戻っていた。
シードは安心したようにうなずく。
そのとき、部屋の扉がノックされた。
「ソア、起きてる?」
リュシアの声だった。
「起きてるよ!」
「なら、ちょっと急いで。ギルドから連絡があったの」
◇
冒険者ギルドの調査室。
机の上には、風鳴り渓谷から回収した黒い結晶が置かれていた。
結晶は透明な封印容器に収められ、周囲には魔力の流れを測定する小さな装置が並んでいる。
「まず、昨日の調査への協力に感謝します」
調査担当の職員が説明を始めた。
「回収された結晶は、以前発見された人工結晶と同系統のものと判明しました。ただし、今回のものには少し違った特徴があります」
「違った特徴?」
ソアが首をかしげる。
「はい。通常、魔力を吸収する魔道具は、吸収した魔力を内部に蓄えるか、別の装置へ送ります」
職員は結晶の横にある測定器を指さした。
「ところが、こちらの結晶は、吸収した魔力の一部を周囲へ送り返しているのです」
「送り返す?」
「正確には、逆向きに流しています。魔力を吸い込む流れと、外へ押し出す流れが同時に発生しているのです」
リュシアが眉をひそめた。
「だから風の流れまで乱れていたんだね」
「その可能性が高いでしょう」
ソアは結晶をじっと見つめた。
昨日、施設で起きたことを思い出す。
魔力を吸い込む結晶。
ねじれる風。
そして、流れを変えたときに反応した自分の翼。
「……吸い込むだけじゃなくて、逆流させてるんだ」
シードが小さくつぶやいた。
「……ながれが、こわれてる」
調査室に沈黙が落ちた。
職員は慎重に言葉を選んだ。
「まだ断定はできません。しかし、同様の装置が複数存在するなら、周囲の魔力循環に影響を及ぼしている可能性があります」
「それって、魔物が増えることにも関係あるのかな?」
ソアの質問に、職員はうなずいた。
「可能性はあります。魔力の流れが乱れれば、魔物の生息域や行動にも変化が起きるかもしれません」
ソアは拳を握った。
「だったら、早く見つけないと!」
「ええ。ただし、今回の調査は専門の魔道具技師にも依頼する予定です。皆さんには、無理に危険な場所へ向かわないようお願いします」
「……はい」
ソアは素直に返事をした。
けれど、頭の中ではすでに、昨日の出来事を整理し始めていた。
風の流れを変えたとき。
自分の翼は、確かに反応した。
ただ力を出すのではなく、周囲の流れを受け取り、自分の魔力とつなげる。
それが、飛行の鍵なのかもしれない。
◇
ギルドを出たあと、三人は町外れの訓練場へ向かった。
「リュシアさん。少しだけ、飛行訓練に付き合ってくれる?」
「いいけど、昨日みたいに無茶はしないでよ」
「もちろん!」
ソアは背中の翼を広げた。
銀白色の羽根が、陽の光を受けて輝く。
まずは、風を感じる。
渓谷で覚えた感覚を思い出しながら、ゆっくりと呼吸した。
翼へ魔力を送り込む。
無理に押し込むのではなく、身体の内側から流すように。
ふわり。
ソアの足が地面を離れた。
「おおっ!」
昨日よりも安定している。
翼の光も、すぐには消えなかった。
「いい感じだよ、ソア!」
リュシアが声をかける。
「うん! このまま……」
ソアは風の流れを感じ取り、身体を少し傾けた。
すると、身体が前へ進んだ。
一メートル。
二メートル。
三メートル。
「飛べてる! 飛べてるよ!」
「前を見て!」
「えっ?」
目の前には、訓練場の木製の柵。
「わああああっ!」
ソアは慌てて翼を動かした。
なんとか衝突は避けたものの、体勢を崩して地面へ転がった。
ごろん、ごろん、ごろん。
最後に、鎧の肩から地面へ落ちる。
ガキンッ。
「…………」
ソアはゆっくりと起き上がった。
肩当ての留め具が、また曲がっている。
「……どうして?」
リュシアは口元を押さえていた。
「ごめん。笑うつもりは……」
「リュシアさん、笑ってるよ!」
「だって、最後まで前を見ていなかったから!」
「飛ぶのって難しいね……」
ソアは肩当てを外し、曲がった留め具を確認した。
それから、壊れた部品を大切に袋へしまう。
「でも、昨日より長く飛べた!」
その笑顔には、確かな手応えがあった。
シードがソアの翼を見上げる。
「……ソア。さっき、魔力が……」
「うん?」
「……翼から、外に流れてた」
ソアは動きを止めた。
「外に?」
「……うん。風に、まざってた」
リュシアも真剣な表情になった。
「つまり、翼の魔力が周囲の風へ流れ込んだのかもしれないね」
「それって、悪いことなのかな?」
「わからない。でも、魔力が一方的に減っているだけじゃない可能性はある」
ソアは自分の翼に触れた。
これまでは、翼を動かすために魔力を使っていると思っていた。
けれど、もし翼が周囲の風と魔力をやり取りしているなら。
飛行は、単純に魔力を消費するだけの能力ではないのかもしれない。
「……もっと調べてみたい」
ソアはつぶやいた。
「翼が何をしているのか、ちゃんと知りたい」
リュシアはうなずいた。
「そうだね。焦らず、少しずつ確かめていこう」
◇
その夜。
町から離れた古い研究施設で、黒衣の男は一枚の報告書を読んでいた。
風鳴り渓谷に設置した結晶の一つが、機能を停止した。
それ自体は、想定の範囲内だった。
だが、報告書に記された一文が、彼の目を引いた。
『結晶周辺の魔力循環が、一時的に正常化した形跡あり』
「……循環を、戻した?」
男はゆっくりと顔を上げた。
彼が集めているのは、魔力そのものだけではない。
世界樹の力へ至るための道。
七つの器を集め、世界の力を一つにまとめるための手がかりだ。
しかし、ソアは逆のことをしている。
集められた力を、再び外へ流そうとしている。
「君は……何を知っている?」
男は手の中の羽根を見つめた。
銀白色の羽根の奥で、緑色の光がかすかに揺れている。
その光を見ていると、胸の奥が痛んだ。
かつて、守れなかった誰かの声がよみがえる。
伸ばした手。
届かなかった距離。
崩れ落ちる街。
そして、最後に見た笑顔。
「……私は、もう二度と失わない」
男は羽根を握りしめた。
「たとえ、世界のすべてを集めることになっても」
彼の足元で、黒い結晶が静かに輝いた。
その光は、どこかへ向かうように細く伸びていった。
◇
翌朝。
ソアは宿の机に、飛行訓練の記録を書き込んでいた。
『飛行距離:約三メートル』
『飛行時間:昨日より長い』
『翼の魔力が風へ流れた可能性あり』
そして、最後にこう書き加えた。
『魔力を使い切るのではなく、巡らせる方法を探す』
ソアはペンを置き、満足そうにうなずいた。
「よし!」
その隣には、修理待ちの肩当てが置かれている。
ソアはそれを持ち上げ、優しく磨いた。
「次は、もっと上手に飛ぶからね」
鎧は何も答えない。
それでもソアは、笑っていた。
空を飛ぶこと。
力を巡らせること。
そして、大切なものを守りながら前へ進むこと。
その答えは、まだ見つかっていない。
けれど、ソアは一歩ずつ近づいていた。
世界樹が本来持っていた力の、その本当の意味へと。




