第55話 風鳴り渓谷と、吸い込まれる魔力
風鳴り渓谷へ向かう道は、町を離れるにつれて険しくなっていった。
左右にそびえる岩山。
その間を、絶え間なく風が吹き抜けている。
「うわあ……すごい風!」
ソアは飛ばされないように、兜を押さえた。
背中の銀白色の翼が、風を受けてかすかに揺れる。
「ここなら飛行訓練にもぴったりだね!」
「目的を忘れないでね。今回は魔力異常の調査だから」
リュシアが釘を刺した。
「もちろん! 調査のついでに飛行訓練!」
「順番が逆になってない?」
「気のせいだよ!」
シードがソアの肩の上で、小さく首を傾げた。
「……とんでみる?」
「いいの!?」
「シード、勧めないで!」
リュシアの制止もむなしく、ソアは近くの平らな岩場へ駆けていった。
「よーし……!」
ソアは背中の翼を広げ、風の流れを感じ取る。
昨日の訓練を思い出す。
風に逆らわないこと。
翼を無理に動かさないこと。
そして、自分の魔力を翼へ巡らせること。
「いくよ……!」
ふわり。
足が地面から離れた。
「おおっ!」
ソアの身体が浮かび上がる。
昨日よりも、ほんの少しだけ高い。
翼の奥を、淡い緑の光が流れていった。
「飛べてる! 私、飛べてるよ!」
「まだ地面から一メートルくらいだけどね!」
「一メートルもだよ!」
ソアは得意げに笑った。
その瞬間、突風が横から吹きつけた。
「わっ!?」
身体が横へ流される。
ソアは慌てて翼を動かしたが、今度は魔力がうまく流れなかった。
翼の光が消える。
「えっ、ちょっ、待っ――」
どすん!
ソアは岩場に着地した。
幸い、怪我はなかった。
ただし。
ガキンッ!
背中の装甲板を固定する留め具が、嫌な音を立てた。
「…………」
ソアはゆっくりと背中に手を回した。
「……また?」
リュシアが目をそらす。
「……修理、必要そうだね」
「飛行訓練って、こんなにお金がかかるんだね……」
「普通は、飛行訓練で鎧を壊さないんだよ」
「そっかあ……」
ソアは曲がった留め具をそっと外し、袋へしまった。
壊れた部品を回収する手つきだけは、すっかり手慣れたものだった。
◇
渓谷の奥へ進むにつれ、風はさらに強くなっていった。
しかし、不思議なことに、風の向きが一定しない。
吹き抜けていた風が突然止まったかと思えば、次の瞬間には逆方向から吹きつけてくる。
「……おかしいね」
リュシアが足を止めた。
「自然の風なら、地形に沿って流れるはず。でも、ここでは流れが途中でねじれている」
ソアも周囲を見渡した。
風は岩壁にぶつかっているのではない。
何かに引っ張られるように、渓谷の奥へ集まっていた。
「……あっち」
シードが小さな手を伸ばした。
「……魔力が、すいこまれてる」
三人は慎重に進んだ。
やがて、岩壁の陰に、古びた石造りの施設が見えてきた。
半ば崩れた入口には、世界樹を思わせる七本の枝の紋章が刻まれている。
「また、この紋章……」
ソアは紋章に触れた。
指先に、かすかな温もりが伝わってくる。
「天空の門にもあったね」
「うん。ここも世界樹と関係がある場所なのかもしれない」
リュシアは入口の周囲を調べた。
すると、石壁の隙間に黒いものが見えた。
「これは……!」
岩に埋め込まれた、黒い結晶。
以前、森の魔物から見つかったものとよく似ている。
結晶から伸びる細い光が、周囲の魔力を吸い寄せていた。
風がねじれていたのも、そのせいらしい。
「やっぱり、これが原因なんだ……」
ソアは剣の柄に手をかけた。
「壊せば止まるかな?」
「待って。すぐに攻撃するのは危険だよ」
リュシアが結晶を観察する。
「魔力を吸い込んでいるだけじゃない。吸い込んだ力を、どこかへ送っているみたい」
「どこかへ?」
「まだわからない。でも、むやみに壊したら、蓄積された魔力が一気に放出されるかもしれない」
ソアは剣から手を離した。
「じゃあ、先に仕組みを調べよう」
シードが結晶に近づこうとした。
その瞬間。
黒い結晶が、ぎらりと光った。
「……っ!」
シードの身体が小さく震える。
「シード!?」
ソアはすぐにシードを抱き上げ、結晶から離れた。
「大丈夫?」
「……うん。でも……」
シードは結晶を見つめた。
「……これ、魔力を、食べてる」
その言葉に、リュシアの顔が曇った。
魔力を吸収する道具自体は、珍しいものではない。
しかし、これは違う。
周囲の魔力を無差別に吸い込み、風の流れさえ乱している。
まるで、世界の循環そのものを止めようとしているかのようだった。
◇
施設の内部には、いくつもの石板が残されていた。
そのうちの一枚には、古代文字でこう記されていた。
『風は、力を運ぶ』
『魔力は、命を支える』
『流れを奪う者は、やがて流れに呑まれる』
「……流れを奪う者」
ソアは文字を指でなぞった。
天空の門で見つけた記録にも、似たような言葉があった。
力を与えることなかれ。
力を蓄えることなかれ。
力を巡らせよ。
ソアは黒い結晶を振り返った。
「この結晶を使っている人は、魔力を集めているのかな……」
「その可能性は高いと思う」
リュシアが答えた。
「でも、何のために?」
誰もすぐには答えられなかった。
そのとき、施設の奥から低い音が響いた。
ゴゴゴゴゴ……。
「な、何!?」
床に刻まれた魔法陣が、次々と光り始める。
黒い結晶が魔力を吸い込む速度を増していた。
風が入口へ向かって吹き込み、石片が宙に舞う。
「まずい! このままだと施設全体の魔力が吸い尽くされる!」
リュシアが叫んだ。
ソアは周囲を見渡した。
結晶へ攻撃すれば、魔力が暴発するかもしれない。
かといって、このまま放置することもできない。
「……そうだ!」
ソアは背中の翼を広げた。
「魔力を集めてるなら、流れを変えればいいんだ!」
「ソア、何をするつもり!?」
「まだわからない! でも、やってみる!」
ソアは《全解除・パージ》を発動した。
肩当てが外れ、背中の装甲板が宙に浮かぶ。
緑色の光が、装甲板とソアの翼をつないだ。
ソアは吹き荒れる風を感じた。
風は、すべて結晶へ向かっている。
ならば――。
「こっちに、流れて!」
ソアは装甲板を風の流れに差し込んだ。
金属板が風を受け、向きを変える。
ほんのわずかに、渦の形が変わった。
結晶へ吸い込まれていた風の一部が、別の方向へ流れ始める。
「できた……!」
しかし、喜ぶのも束の間だった。
黒い結晶が、ソアの翼に反応した。
翼の光が急激に弱まる。
「えっ!?」
身体が傾いた。
「ソア!」
リュシアが駆け寄ろうとする。
だが、シードが先に動いた。
小さな身体から緑色の根が伸び、床の魔法陣へと絡みつく。
「……ながれを、もどす!」
根が淡く輝いた。
黒い結晶へ吸い込まれていた魔力の一部が、床の魔法陣を通じて施設の外へ流れ始める。
風の渦が弱まった。
ソアの翼にも、少しずつ光が戻っていく。
やがて――。
黒い結晶の輝きが、ぴたりと止まった。
施設に静寂が戻る。
「……止まった?」
ソアは宙に浮かんでいた装甲板を引き寄せ、慎重に地面へ降りた。
シードは少し疲れた様子で、ソアの腕に身を預ける。
「シード、ありがとう!」
「……うん」
リュシアは安堵の息を吐いた。
「結晶そのものを破壊せず、魔力の流れを変えたんだね」
「うん。全部を止めるんじゃなくて、流れる道を変える……」
ソアは自分の翼を見つめた。
さっき、結晶に魔力を吸われたとき。
無理に翼を動かそうとしても、うまく飛べなかった。
でも、風の流れを変えたときには、装甲板も翼も反応してくれた。
「……もしかして」
ソアは小さくつぶやいた。
「飛ぶって、力を出すだけじゃないんだ」
風を受け取ること。
自分の魔力を巡らせること。
そして、流れを無理に押さえつけないこと。
少しだけ、その意味がわかった気がした。
◇
施設の調査を終えた三人は、黒い結晶を慎重に封印し、ギルドへ持ち帰るための準備を始めた。
リュシアは結晶を観察しながら、難しい顔をしていた。
「これが誰かの仕業なら、ほかにも同じ装置があるかもしれない」
「うん。早く調べてもらわないと」
ソアはうなずいた。
そして、ふと背中を振り返った。
外した装甲板には、新しい傷がついている。
留め具も、少し曲がっていた。
「…………」
ソアは静かに装甲板を抱きしめた。
「頑張ってくれて、ありがとう……」
「鎧に話しかけてるの?」
「だって、この子がいなかったら、流れを変えられなかったかもしれないから!」
「……そうだね」
リュシアは笑った。
ソアは装甲板を袋にしまい、立ち上がった。
「よし! 次は飛行訓練だね!」
「今日はもう十分じゃないかな?」
「えーっ!?」
「シードも疲れているし、まずは町へ戻ろう」
「……はーい」
少し残念そうにしながらも、ソアは素直にうなずいた。
その背中で、銀白色の翼が淡く光る。
ほんの一瞬。
翼から伸びた緑色の光が、遠くへ向かって流れていった。
ソアはまだ知らない。
自分が変えた小さな流れが、世界のどこかへつながっていることを。
そして、遠く離れた場所で、黒衣の男がその変化を感じ取っていたことも。
「……また、流れが変わったか」
男は手の中の羽根を握りしめた。
「君は、何をつなごうとしている……?」
羽根の奥で、小さな緑の光が瞬いた。
男はそれを見つめ、苦しげに目を伏せた。
「……私は、もう失うわけにはいかない」
風が吹き抜ける。
その風は、彼の手の中の羽根をかすかに揺らしていた。




