第44話 鎧の足場と、風をつかむ少女
「まずは、風の観察から始めましょう」
リュシアは、大穴の手前にしゃがみ込んだ。
彼女が取り出したのは、薄い金属板と小さな羽根。
金属板を風にかざし、羽根をそっと放す。
羽根は右へ流れ、少し沈み、それから上昇した。
「この場所では、風が一定方向に流れているわけではないの。複数の気流がぶつかり合って、複雑な流れを作っている」
「なるほど……」
ソアは真剣に頷いた。
「つまり、風がいっぱいあるんだね!」
「……間違ってはいないけれど、もう少し考えてほしいわね」
「いっぱいある風を、うまく使う!」
「そういうことよ」
リュシアは、諦めずに説明を続けた。
「風に逆らって飛ぼうとすれば、押し戻される。でも、流れに乗れば前へ進める。問題は、どこに乗ればいいのかということね」
ソアは大穴を覗き込んだ。
向こう岸まで続く、目に見えない風の道。
その途中には、風が渦巻く危険な場所がいくつもある。
「……私の鎧も、同じかな」
「ええ。鎧を無理やり動かそうとするのではなく、風が運んでくれるようにすればいい」
「よし!」
ソアは勢いよく立ち上がった。
「じゃあ、今度は鎧を足場にしてみよう!」
「待って。どうして、そうなるの?」
「だって、鎧を飛ばすのが難しいなら、私が乗ればいいんだよ!」
「あなた、さっき自分で鎧を飛ばすって言っていたでしょう!?」
「うん。でも、乗ったほうが楽しそう!」
「楽しさで危険度を決めないで!」
ソアは、にこにこと笑った。
どうやら、止めるのは無理らしい。
リュシアは深いため息をついた。
「……せめて、最初は小さな装甲板で試してちょうだい」
「はーい!」
ソアは腰の装甲を一枚外した。
それから、装甲板を両手で持ち上げる。
「《全解除・パージ》!」
淡い光が走り、装甲板が宙に浮いた。
前回のように、ただ外れただけではない。
ソアは装甲板に意識を集中させる。
少し右へ。
少し前へ。
そして、止まる。
装甲板がゆっくりと動いた。
「おおっ! 前より動かしやすい!」
「力任せに動かしていないからでしょうね。風の流れに合わせているのよ」
「なるほど……風と相談するんだね!」
「風は相談に答えてくれないけれどね」
ソアは装甲板を大穴の上へ移動させた。
風が下から吹き上げ、装甲板を支える。
揺れながらも、落ちない。
「よし……!」
ソアは慎重に、その上へ片足を乗せた。
装甲板が大きく傾いた。
「わわっ!」
慌てて足を戻す。
「……だめだ。私が乗ると、バランスが崩れちゃう」
「当然よ。装甲板は、あなたを乗せるための道具ではないもの」
「じゃあ、二枚なら?」
「一枚で失敗したばかりでしょう?」
「二枚なら安定するかもしれないよ!」
「……理屈としては、わからなくもないのが腹立たしいわね」
ソアは目を輝かせた。
「やってみよう!」
「本当に、あなたは……」
リュシアは止めるのを諦め、今度は装甲板の配置について助言した。
二枚を並べるのではなく、少し前後にずらす。
風を受ける角度を揃え、左右の傾きを調整する。
ソアは教えられたとおりに、二枚の装甲板を浮かせた。
一枚目は前。
二枚目は後ろ。
二つの装甲板が、風の上でゆっくりと並んだ。
「……よし」
ソアは、そっと右足を乗せる。
揺れる。
けれど、今度はすぐには傾かなかった。
左足も乗せる。
「乗れた……!」
ソアの顔がぱあっと輝いた。
「リュシアさん! 私、鎧に乗れたよ!」
「ええ。まだ、その場から動いていないけれどね」
「じゃあ、次は前進!」
「一段階ずつ進めましょう!?」
しかし、ソアはもう風の流れを見ていた。
二枚の装甲板が、上昇気流に押し上げられている。
そこへ、ほんの少しだけ前向きの流れが加わった。
「今だ!」
ソアが意識を集中させる。
装甲板が、ゆっくりと前へ動き始めた。
一歩。
もう一歩。
実際には歩いていないのに、ソアの身体は確かに大穴の上を進んでいた。
「すごい……!」
リュシアも思わず声を漏らした。
「魔法で飛んでいるわけじゃない。装甲板を風に乗せて、その動きを制御しているのね」
「うん! これなら、私も空を進める!」
ソアは嬉しそうに笑った。
その肩では、小鳥が羽根を広げている。
「ピィ!」
「あなたも楽しい?」
「ピィ!」
「そっか! 私も楽しい!」
――その瞬間だった。
ゴウッ!
横から、強烈な風が吹きつけた。
「きゃあああっ!?」
装甲板が左右に大きく揺れる。
ソアは必死にバランスを取った。
「ま、待って! そっちは違うよ!」
装甲板は聞く耳を持たない。
当然だ。
鎧なのだから。
「ソア! 前に重心を移して!」
「前って、どっち!?」
「進行方向よ!」
「今、回転してるからわかんない!」
「回転しているの!?」
二枚の装甲板が、風に煽られてくるくると回り始めた。
ソアは両腕を広げ、必死に踏ん張る。
「鎧さん! お願いだから、落ち着いて!」
装甲板は、さらに回転した。
「鎧にお願いしても無駄よ!」
「でも、いつも一緒にいるんだから、気持ちは伝わるはず!」
「その理屈で空を渡ろうとしないで!」
そして。
装甲板が、ぴたりと止まった。
いや。
正確には、ソアの操作が止まったのだ。
風に逆らって制御しようとした結果、魔力が途切れた。
二枚の装甲板が、ゆっくりと傾く。
「……あ」
ソアの身体が宙に浮いた。
「落ちるうううううっ!」
リュシアが飛行装置を起動させた。
背中の小さな翼が光り、彼女は大穴へ飛び出す。
しかし、ソアのところまでは距離がある。
間に合わない。
そのとき。
「……まもる」
小さな声が響いた。
シードだった。
ソアの腰に巻かれた蔓が伸び、外れていた装甲板の一枚に絡みつく。
もう一枚には、別の蔓が伸びた。
「シード!?」
「……うん」
蔓が装甲板を引き寄せる。
同時に、シードの手のひらから淡い緑色の光が広がった。
風に煽られていた装甲板が、わずかに安定する。
その隙に、リュシアがソアの腕をつかんだ。
「捕まえて!」
「は、はいっ!」
リュシアは翼を広げ、風の流れを利用して二人を大穴の手前へ引き戻した。
ドサッ!
三人は、石床の上に転がった。
静寂。
しばらくして、ソアがゆっくりと顔を上げた。
「……助かった」
「まったく……!」
リュシアは息を切らしながら、ソアを睨んだ。
「あなた、自分が何をしたのかわかっているの!?」
「鎧に乗って飛んでみた!」
「そういうことではないわ!」
「でも、ちょっとだけ飛べたよ?」
「ちょっとでも、落ちたら危ないの!」
ソアは、しゅんと肩を落とした。
「……ごめんなさい」
リュシアは、言葉を止めた。
ソアはふざけていたわけではない。
本気で、あの方法を成功させようとしていたのだ。
そして、失敗したときも、最後まで自分の力で何とかしようとしていた。
「……次からは、私の合図を聞くこと」
リュシアは、少しだけ声を和らげた。
「風が乱れたら、無理に進もうとしない。あなたの能力で鎧を制御できなくなったら、すぐに戻ること。いいわね?」
「……うん!」
ソアは元気よく頷いた。
それから、シードの頭を撫でた。
「ありがとう、シード。助けてくれて」
「……そあ、ぶじ」
「うん。無事だよ!」
シードは、ほっとしたように葉っぱを揺らした。
その様子を見て、ソアは小さく笑った。
一人ではできなかった。
でも、シードが助けてくれた。
リュシアも、危険を承知で飛び込んできてくれた。
空を進むために必要なのは、ソア自身の力だけではないのかもしれない。
「……そっか」
ソアは、二枚の装甲板を拾い上げた。
「私、全部を自分で動かそうとしていたんだね」
リュシアが頷く。
「あなたの能力は、何でも思いどおりにできる魔法ではないのでしょう?」
「うん。外すことはできるけど、動かすのはまだ難しい」
ソアは装甲板を見つめた。
「だったら、風にできることは風に任せて、シードにできることはシードに頼って、私にできることを頑張ればいいんだ」
「……ようやく、まともな結論にたどり着いたわね」
「えへへ!」
「褒めていないわよ」
「でも、ちょっと褒めてくれたよね?」
「褒めていない!」
ソアは笑った。
それから、装甲板の傷を確かめる。
幸い、大きな破損はない。
修理代も、今回は最小限で済みそうだ。
「よかったぁ……」
「あなた、命が助かった直後に修理代を心配しているの?」
「だって、この鎧、高かったんだよ?」
「……もう何も言わないわ」
リュシアは空を仰いだ。
そして、ソアは立ち上がった。
今度は、焦って飛ぼうとはしない。
風の流れを観察する。
上昇する風。
横から吹きつける風。
その二つが交わる場所。
どこなら安全に進めるのか。
どこで止まれば、次の風を待てるのか。
ソアは一つずつ、確かめていった。
やがて、風の流れが少しずつ見えてきた。
「……次は、あそこ」
ソアが指さしたのは、大穴の中央にある小さな岩棚だった。
向こう岸までは届かない。
けれど、最初の中継地点にはなる。
「まずは、あそこまで行こう」
リュシアは微笑んだ。
「いい考えね。今度は、私も横について飛ぶわ」
「ありがとう!」
ソアは装甲板を二枚浮かせた。
今度は、シードの蔓が装甲板の端にそっと触れている。
風が吹く。
装甲板が揺れる。
ソアは、その流れを感じながら、ゆっくりと前へ進んだ。
一歩。
もう一歩。
そして――。
岩棚に、たどり着いた。
「……やった」
ソアは、思わず両手を上げた。
「やったあああっ!」
リュシアも、隣に着地する。
「ええ。今のは、ちゃんと成功よ」
シードも嬉しそうに葉っぱを揺らした。
「……そあ、そら」
「うん。空だね!」
ソアは、向こう岸を見つめた。
まだ距離はある。
試練も終わっていない。
けれど、最初の一歩は踏み出せた。
鎧は、ただ重いだけの装備ではない。
身体を守るもの。
強さを引き出すもの。
そして、いつか自分を空へ運んでくれるものになるかもしれない。
ソアは、そっと装甲板を撫でた。
「……これからも、一緒に頑張ろうね」
その瞬間。
岩棚の奥で、淡い光が灯った。
壁に刻まれた文字が、ゆっくりと浮かび上がる。
『己の力のみで進む者、道を閉ざされる』
『他者の力にすべてを委ねる者、道を見失う』
『力を合わせ、なお己の足で進む者に、次の道を示す』
ソアは、文字を読み終えて目を見開いた。
「……これって」
リュシアが頷いた。
「ええ。今の私たちが試されたのかもしれないわね」
シードが、そっと壁に触れる。
すると、岩棚の先に新たな風の道が現れた。
その道の先には、巨大な扉。
扉の中央には、翼の形をした紋章が刻まれていた。
そして、その紋章の片側だけが、淡い緑色に輝いている。
ソアは、息を呑んだ。
「……天翔の器」
ようやく、目的地が近づいてきた。
しかし、扉の前には、すでに誰かが立っていた。
黒いローブ。
黒い鎖。
そして、こちらを振り返ることなく告げる声。
「……遅かったな」
ソアの表情が変わった。
「あなた……!」
黒いローブの男は、ゆっくりと振り返った。
「ここから先は、今までのようには進めない」
その手の中で、黒い結晶が不気味に光る。
「翼を手にするのは、一人だけだ」
男の足元で、風が黒く染まり始めた。




