第159話 失うことを恐れた者
地下記録庫の整理は、思っていた以上に時間がかかった。
「……ねえ、これ、本当に全部確認するの?」
ソアは、両腕いっぱいに抱えた記録結晶を見つめていた。
「確認すると言い出したのは、お前だろう」
ヴァルトが答える。
「そうだけど! そうだけどさ!」
ソアは結晶を抱え直した。
「記録って、こんなに多いものなの!?」
「王国が何百年も続いたのなら、当然でしょう」
レイナが淡々と言う。
「しかも、あなたが今見ているのは、王国の全記録の一部にすぎないわ」
「……」
ソアの動きが止まった。
「……世界って、広いね」
「今さら気づいたのか?」
「今さらだよ!」
ミレイユが呆れたように笑った。
「その調子だと、世界が終わる前に記録整理が終わらないわね」
「やめて! そういう不吉なこと言わないで!」
そんなやり取りをしていたときだった。
部屋の奥にある、ひときわ大きな記録結晶が光った。
ほかの結晶とは違う。
銀色の光の奥に、かすかな黒い影が揺れていた。
エリアスの表情が変わる。
「……これは」
「知ってるの?」
「ああ。王国の最終記録とは別に保存されていたものだ。だが、閲覧制限がかかっていた」
エリアスは結晶に近づいた。
「記録の分類は……始源の管理者に関する個人記録」
その言葉に、ソアたちの表情が引き締まった。
「……あの人の記録?」
「そうだ」
エリアスは少し迷ったあと、ソアを見た。
「見るか?」
「うん。でも、ひとつだけ約束して」
「何だ?」
「この記録を見ても、あの人がしたことをなかったことにはしない」
エリアスは頷いた。
「分かっている」
「それと、あの人のことだけじゃなくて、あの人に傷つけられた人たちのことも忘れない」
「……ああ」
ソアは記録結晶に手を触れた。
銀色の光が、ゆっくりと広がっていった。
◇
映像の中に現れたのは、王都が栄えていた時代の研究施設だった。
まだ、始源の管理者が世界樹の力を集める仕組みを作る前。
彼は一人の研究者として、仲間たちと働いていた。
机の上には、魔力の流れを示す模型。
壁には、世界樹の循環を記録した図。
そして、部屋の中央には、幼い少女が座っていた。
「……誰だろう?」
ソアが呟く。
『お父さん、今日は帰ってこられる?』
少女が尋ねた。
若い管理者は、困ったように笑った。
『今日は難しいかもしれない。明日には帰るよ』
『本当?』
『ああ。約束する』
少女は嬉しそうに頷いた。
映像が切り替わる。
次に映ったのは、魔力災害が起きた街だった。
世界樹から流れ込む魔力が不安定になり、建物が崩れ、人々が逃げ惑っている。
研究者たちは、魔力の流れを安定させようと必死に動いていた。
管理者も、その中心にいた。
『供給を止めろ! これ以上流せば、街が持たない!』
『しかし、供給を止めれば、外部地域への流れも途切れます!』
『分かっている! だが、今は止めるしかない!』
警報が鳴り響く。
光が弾けた。
映像が大きく揺れた。
そして――
少女の姿が、消えた。
「……っ」
ソアは息を呑んだ。
記録の中で、若い管理者は瓦礫の前に立ち尽くしていた。
何度も名前を呼ぶ。
何度も瓦礫を掘り返す。
けれど、返事はなかった。
『……どうして』
彼の声は、かすれていた。
『どうして、守れなかった』
誰も答えない。
『力が足りなかったのか』
彼は自分の手を見つめた。
『いや……力が、ばらばらだったからだ』
その言葉に、ヴァルトが眉を寄せる。
「……まさか」
映像の中で、管理者は研究施設へ戻った。
世界樹の循環図を見つめる。
力は、世界の各地へ流れていた。
豊かな地域にも、貧しい地域にも。
強い者にも、弱い者にも。
しかし、流れが乱れれば、誰かが被害を受ける。
そして、誰かを救おうと力を集めれば、別の誰かに届く力が減る。
『誰もが力を求める』
管理者は呟いた。
『誰もが、自分の大切なものを守ろうとする』
彼は、世界樹の循環を示す図に手を伸ばした。
『それなら、最初から一か所に集めればいい』
ミレイユが静かに言った。
「……世界の力を、ひとりで管理するつもりだったのね」
「そうだな」
レイナの声も重かった。
「彼は、二度と同じ悲劇を起こさないために、すべてを制御しようとした」
ソアは映像を見つめていた。
管理者の目には、怒りよりも深いものがあった。
悲しみ。
恐怖。
そして、もう二度と失いたくないという、強い執着。
◇
記録は、さらに先へ進んだ。
管理者は、世界樹の力を集中させる計画を立てた。
最初は、災害が起きた地域へ優先的に力を送るための仕組みだった。
力を必要とする場所を見つけ、供給量を調整する。
人々を守るための計画。
しかし、運用を続けるうちに、問題が見えてきた。
すべてを制御するには、情報が必要だった。
各地の状況。
人々の魔力。
供給の優先順位。
どの地域を守り、どの地域への供給を減らすのか。
判断するたびに、管理者は決めなければならなかった。
『北方地域への供給を増やせば、王都の防衛力が落ちます』
『王都の防衛を優先すれば、外部地域の生活に影響が出ます』
『どちらを選びますか』
記録装置の声が響く。
管理者は答えられなかった。
王都には、多くの人が暮らしていた。
外部地域にも、多くの人が暮らしていた。
どちらを選んでも、誰かが危険にさらされる。
『……ならば』
管理者は、やがて顔を上げた。
『すべてを、私が決める』
ソアの胸が、少しだけ痛んだ。
それは、あまりにも簡単な答えに見えた。
けれど、彼にとっては、ほかに答えを見つけられなかったのかもしれない。
誰かを失うことが怖い。
自分の判断で誰かが傷つくことが怖い。
だから、誰も自分の判断を覆せない仕組みを作る。
そうすれば、少なくとも、自分の目の前で起きる悲劇を減らせると信じたのだ。
「……でも」
ソアが呟いた。
「それじゃあ、間違えたときに止めてくれる人もいなくなるよ」
エリアスが頷く。
「そうだ。彼は、失敗を減らそうとするあまり、失敗を指摘する声まで排除していった」
「そして、誰かを守るために作った仕組みが、別の誰かを苦しめるようになった」
レイナが続けた。
映像の中では、管理者の周囲から、少しずつ人がいなくなっていた。
異議を唱える研究者。
供給制限を再検討するよう求める者。
計画の影響を報告する者。
彼らの記録には、次第に同じ言葉が増えていった。
――承認されず。
――審議対象外。
――閲覧制限。
やがて、管理者はひとりになった。
ひとりで決めることが、彼にとっては安全だった。
誰にも反対されない。
誰にも計画を覆されない。
そして、誰にも、自分の判断が間違っていると突きつけられない。
けれど、その安全は、世界全体の安全ではなかった。
◇
最後の映像が映し出された。
管理者は、最初に少女と約束した部屋に立っていた。
机の上には、古い記録が置かれている。
少女が描いた、世界樹の絵だった。
『……私は、間違っていたのか』
彼は絵を見つめた。
返事はない。
『すべてを守ろうとした』
声が震えた。
『もう、誰も失いたくなかった』
彼は、絵を握りしめた。
『それなのに……』
映像はそこで途切れた。
記録結晶の光が弱まる。
地下記録庫に、静寂が戻った。
誰も、すぐには口を開かなかった。
やがて、ソアが小さく息を吐いた。
「……悲しかったんだね」
それは、管理者への同情だった。
しかし、ソアはそこで言葉を止めなかった。
「でも、だからって、あんなことをしていいわけじゃない」
エリアスが顔を上げた。
「……ああ」
「大切な人を失いたくないのは、私も分かるよ。私だって、仲間が傷つくのは嫌だし、失いたくない」
ソアは、仲間たちを見た。
「でも、だからって、みんなの選択を奪ったら駄目なんだと思う」
レイナが静かに頷いた。
「守ることと、支配することは違う」
「そうね」
ミレイユが続ける。
「相手を失うのが怖いからといって、相手の自由まで奪ってしまえば、守っているのは相手ではなく、自分の安心なのかもしれない」
ヴァルトは、しばらく考えてから口を開いた。
「……俺にも、似たところがあった」
ソアが振り返る。
「ヴァルト?」
「力を持つ者が決めればいい。そうすれば、迷う時間も、意見がぶつかることも減る。以前の俺は、そんなふうに考えていた」
彼は拳を握りしめた。
「だが、それでは、決める側が間違えたときに誰も止められない。俺も、その危険を分かっていなかった」
「……うん」
ソアは頷いた。
「間違えない人になるより、間違えたときに気づけるようにするほうが、大切なのかもしれないね」
エリアスが、ゆっくりと目を閉じた。
「私も、同じことを学ばなければならない」
「うん。でも、エリアスさん」
「何だ?」
「学んだって言うだけじゃ、終わりじゃないよ」
エリアスは、まっすぐソアを見た。
「……分かっている。これからの行動で示す」
「よし!」
ソアは頷いた。
その顔には、いつもの明るさが戻っていた。
「じゃあ、次はこの記録をどう残すか考えよう。あの人が悲しかったことも、何をしようとしたのかも、何をしてしまったのかも、全部ちゃんと残そう」
「管理者の罪も、彼が失ったものも、両方を記録するということか」
レイナが尋ねる。
「うん。どっちかだけじゃ、きっと本当のことが見えなくなるから」
ソアは記録結晶を、両手でそっと棚へ戻した。
「悲しかったことは、罪を消す理由にはならない。でも、何がその選択につながったのかを知らなかったら、同じことを繰り返すかもしれない」
誰も反対しなかった。
◇
記録の整理を終え、地上へ戻るころには、銀色の光が通路を穏やかに照らしていた。
王都の空は、相変わらず静かだった。
かつて多くの人々が暮らし、守ろうとし、そして失った場所。
ソアは、街並みを振り返った。
「……ねえ」
「どうした?」
ヴァルトが尋ねる。
「もし、あの人が最初に誰かへ相談できていたら、違う結果になったのかな」
「分からない」
レイナが答えた。
「相談しても、悲劇を防げなかったかもしれない。意見がまとまらず、別の問題が起きた可能性もある」
「……そっか」
「けれど、少なくとも、ひとりで決め続ける必要はなかったはずよ」
ミレイユが言った。
「失敗しない方法を探すのではなく、失敗したときに立ち止まれる方法を探す。それが、私たちにできることなのかもしれないわね」
ソアは、ゆっくりと頷いた。
「うん。私も、そう思う」
胸元の《巡りの雫》が、淡く光った。
遠く離れた世界樹とのつながり。
そこには、失われた記憶も、悲しい選択も、誰かが大切にした思いも残っている。
けれど、記憶を残すだけでは、世界は変わらない。
その記憶を受け取った者が、何を考え、何を選ぶのか。
その積み重ねが、世界を少しずつ変えていく。
「……よし」
ソアは、両手で頬を軽く叩いた。
「帰ろう!」
「急に元気になったな」
「だって、お腹すいたんだもん!」
「……結局、それか」
「大事だよ! ご飯を食べないと、頭も回らないし!」
ソアは元気よく歩き出した。
その直後。
ガシャッ。
胸当ての留め具が、妙な音を立てた。
「……あれ?」
ソアが足を止める。
ミレイユが、すかさず指を差した。
「今の音、聞いたわよ」
「聞かなかったことにして!」
「無理ね」
「お願い!」
「修理代がまた増えるんじゃないかしら?」
「やめてぇぇぇ!」
ソアの悲鳴が、北境王都の通りに響いた。
その声を聞きながら、仲間たちは笑った。
失ったものは戻らない。
過去の選択を、なかったことにもできない。
それでも、これからの選択は変えられる。
誰かを失うのが怖いからといって、世界のすべてを握りしめる必要はない。
誰かを守りたいなら、ひとりで決めるのではなく、共に考えることができる。
ソアたちは、次の目的地へ向かって歩き始めた。
残された記録を、過去の罪を飾るためではなく、未来の選択を支えるために。
そして、もう二度と。
誰かの悲しみが、別の誰かの声を奪う理由にならないように。




