第160話 王国最後の日
「……この記録、まだ続きがある」
エリアス・ヴァルネは、古い記録板を机の上に置いた。
地下記録庫の奥。
これまで確認してきた記録とは異なり、その板には王国最後の日を示す日付が刻まれていた。
「管理者の個人記録とは別なの?」
ソアが尋ねる。
「ああ。こちらは王宮の公式記録だ。王国が崩壊する直前、何が起きたのかが残されているはずだ」
「……はず、なんだね」
「公式記録というものは、肝心なときほど肝心なことが書かれていない」
「それ、公式記録として大丈夫?」
「大丈夫ではなかったから、王国は滅びたのかもしれないな」
エリアスは苦笑した。
リュシアがいれば、古代文字の解析を頼めたかもしれない。
しかし彼女は別の遺跡を調査している。
ここにいる者たちで、読み解くしかなかった。
レイナが記録板の端を押さえる。
「読める部分から確認しましょう。全部を一度に理解する必要はありません」
「うん。分からないところは、分からないまま残そう」
ソアは頷いた。
「勝手に想像して、事実みたいに扱うのは嫌だから」
エリアスは一瞬だけ目を伏せた。
かつての自分なら、その言葉を聞いて何を思っただろう。
分からないことを残すのは、記録を管理する者の怠慢だ。
そう考えていた時期が、確かにあった。
けれど今は、その考えこそが多くの声を消してきたのだと知っている。
「……では、再生する」
エリアスが魔力を流した。
記録板の上に、淡い映像が浮かび上がった。
*
王国最後の日。
王宮の中央広間には、多くの人々が集まっていた。
王族。
魔法研究者。
軍の指揮官。
各地から派遣された代表者。
そして、世界樹の魔力経路を管理する者たち。
広間の中央には、巨大な魔力制御装置が据えられていた。
その表面には、無数の亀裂が走っている。
『北部供給量、さらに低下!』
『中央への供給を維持できません!』
『外縁地域から、再接続の要請が届いています!』
次々と報告が飛び交う。
王国は、世界樹から得た魔力を中央に集め、そこから各地へ配分していた。
当初、その仕組みは人々を守るために作られた。
魔力が不足する地域へ、必要なだけ力を送る。
災害が起きた地域には、優先して供給する。
その考え自体は、間違いではなかった。
問題は――。
誰が、どこへ、どれだけの力を送るのか。
その決定権が、少しずつ中央に集中していったことだった。
『外縁地域への供給を増やせば、王都の防壁が維持できません!』
『ならば、王都の供給を減らすべきです!』
『王都が陥落すれば、全地域への配分が停止する!』
『しかし、すでに外縁地域では人が倒れています!』
声がぶつかり合う。
誰もが、自分の判断には理由があると思っていた。
王都を守ろうとする者たちは、王都を失えばすべてが終わると考えた。
外縁地域を救おうとする者たちは、すでに犠牲になっている人々を見捨てることはできないと考えた。
どちらにも、守りたいものがあった。
けれど。
その議論に、決定的に欠けていたものがあった。
『外縁地域の住民代表は、どこにいる?』
一人の研究者が尋ねた。
広間が静まり返る。
『……入室許可が下りていません』
『なぜだ!』
『現在の議題は、王都の防衛に関するものです。外縁地域の供給問題は、別途審議することになっています』
『別途審議だと? 今、彼らの魔力が止まっているんだぞ!』
『規則です』
その一言で、会話が途切れた。
規則。
かつて人々を守るために作られた仕組み。
それがいつしか、人々の声を聞かないための壁になっていた。
映像の中で、一人の老研究者が立ち上がる。
『このまま中央だけで決め続ければ、同じことが繰り返される。制御装置を停止し、魔力の流れを元に戻すべきだ』
『停止すれば王都の防壁が失われる!』
『それでも、今のままでは外縁地域が先に滅びる!』
『誰がその責任を取るのだ!』
『誰か一人に取らせる問題ではない! 全員で決めるべきことだ!』
しかし、その声に耳を傾ける者は少なかった。
すでに議論は、誰が責任を負うかという争いに変わっていたからだ。
そして。
王宮の記録は、そこで一度途切れた。
*
「……これが、王国最後の日?」
ソアが呟いた。
映像はまだ続いている。
だが、肝心の結末が抜け落ちていた。
「制御装置がどうなったのか、記録されていないな」
ヴァルトが腕を組む。
「誰かが消したのか?」
「断定はできない」
エリアスは記録板を見つめた。
「記録そのものが破損した可能性もある。あるいは、最初から残されていなかったのかもしれない」
「……でも、さっきの映像を見る限り」
ソアはゆっくりと言葉を選んだ。
「管理者だけが悪かったわけじゃないんだね」
誰もすぐには答えなかった。
管理者は、魔力を一人に集中させることで、すべてを守ろうとした。
けれど王国には、それ以前から、中央に決定権を集める仕組みがあった。
異議を申し立てる道は、形式上は存在していた。
しかし、その道を使える人は限られていた。
そして、誰もが自分の守りたいものを優先するうちに、声を聞く仕組みそのものが失われていった。
「管理者が権力を握ったから、全部が壊れた。それだけなら、話は簡単だったのに」
レイナが静かに言った。
「一人を倒せば終わり、とはいかなかったのね」
「うん」
ソアは頷いた。
「一人のせいにしたら、同じ仕組みが残っちゃう」
彼女は、映像の中で言い争っていた人々を思い出す。
彼らの中にも、誰かを助けようとしていた人がいたはずだ。
それでも、助けられなかった人がいた。
「……誰かが悪いって決めるだけじゃ、次にどうすればいいのか分からないんだね」
「その通りだ」
エリアスが答えた。
「責任を明らかにすることと、責任を一人に押しつけることは違う。私は、それを理解するのに時間がかかりすぎた」
彼は記録板を見つめた。
「私自身も、記録を残すことばかり考えていた。残せば、いつか誰かが正しく判断してくれると思っていたんだ」
「でも、残した記録を誰が読めるのかも、大事なんだよね」
「……ああ」
エリアスは深く頷いた。
記録が存在しても、見ることを許されなければ意味がない。
異議を申し立てる仕組みがあっても、使えなければ意味がない。
選ぶ権利があっても、選択肢そのものを知らされなければ、選んだことにはならない。
それは、記録庫の中だけの話ではなかった。
*
「……ひとつ、気になることがある」
ミレイユが記録板の端を指さした。
「ここ。最後に、別の魔力反応が残っているわ」
「別の魔力反応?」
「ええ。制御装置の停止命令が出た直後、複数の経路が同時に反応している。中央へ集められていた魔力が、別々の方向へ流れ始めたように見える」
レイナが身を乗り出した。
「つまり、誰かが装置を停止させた?」
「可能性はある。でも、これだけでは断定できない」
ミレイユは首を振った。
「停止命令を出した人物も、その理由も分からないわ」
ソアは記録板を覗き込んだ。
細い光の線が、中央から外へ向かって伸びている。
まるで、絡まっていた糸がほどけていくようだった。
「……魔力が、戻ろうとしてるみたい」
「元の循環へ戻ったのか。それとも、別の場所へ流れただけなのか」
ヴァルトが呟く。
「まだ分からないな」
「うん。でも、少なくとも――」
ソアは光の線を見つめた。
「誰か一人が全部を持ち続ける仕組みは、終わろうとしていたんだと思う」
その瞬間。
ソアの胸元で、《巡りの雫》が淡く輝いた。
七本の光が、ゆっくりと円を描く。
その中心に、一瞬だけ八本目の線が浮かび上がった。
「……!」
ソアが息をのむ。
光はすぐに消えた。
けれど、確かに見えた。
八本目の線は、ほかの七本を押しのけることも、支配することもなかった。
ただ、それぞれの線の間をつないでいた。
「今の、見た?」
「見たわ」
ミレイユが答えた。
「七つの器を一つにまとめたんじゃない。互いにつながる道を示したように見えた」
「……第八の記録」
エリアスが静かに呟いた。
「器ではなく、記録。力そのものではなく、力を持つ者たちが何を選んだのかを残すもの」
ソアは胸元のペンダントに触れた。
世界を救うために、誰か一人がすべてを背負う必要はない。
かといって、誰も責任を取らなくていいわけでもない。
力を分け合うこと。
声を聞くこと。
間違えたなら、その結果を認めてやり直すこと。
簡単ではない。
それでも、誰か一人にすべてを委ねるより、ずっと難しくて、ずっと大切なことなのかもしれない。
「……ねえ、エリアスさん」
「なんだ?」
「この記録も、残そう」
ソアは記録板を見つめた。
「王国がどうやって壊れたのか。誰が何を守ろうとして、誰の声が届かなかったのか。全部、分からないところも含めて」
「分からないところも、か」
「うん。後から読む人が、自分で考えられるように」
エリアスは目を閉じた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「分かった。今度こそ、結論まで私が決めてしまわないようにしよう」
*
記録板の保存作業を終えたころには、地下記録庫の照明が少し暗くなっていた。
「……お腹すいた」
ソアが呟いた。
「さっきから記録ばかり読んでいるものね」
レイナが微笑む。
「記録庫って、もっと静かで落ち着いた場所だと思ってた」
「実際には、責任の重い仕事が山ほどある場所だったな」
ヴァルトが肩をすくめた。
ミレイユは保存した記録の一覧を確認している。
「それに、まだ分類が残っているわ。公開できる記録、本人の同意が必要な記録、内容の確認が必要な記録……」
「……ねえ」
ソアはゆっくりと顔を上げた。
「今日の分、終わったんだよね?」
「今日の分はね」
「明日もある?」
「当然でしょう」
「…………」
ソアは自分の鎧を見下ろした。
ガシャッ。
胸当ての留め具が、小さく鳴る。
「……鎧の修理代、まだ払ってないんだった」
「今それを思い出すのか」
ヴァルトが呆れた声を出した。
「だって、記録を読むだけでこんなに大変なんだよ? 冒険者の仕事もしたいし、鎧も直したいし、ご飯も食べたいし……」
「最後の二つは、ずいぶん個人的ね」
ミレイユが笑った。
「大事だよ!」
ソアは胸を張る。
「私の人生なんだから!」
その言葉に、レイナが小さく笑った。
「そうね。何を大切にするかは、自分で選ばなくちゃ」
ソアは頷いた。
そして、もう一度、保存された王国最後の日の記録を振り返る。
あの王国も、最初から滅びるために作られたわけではなかった。
誰かを守りたいという願いがあった。
その願いが、いつしか誰かの声を聞かない理由になった。
だからこそ、記録を残す。
同じ間違いを二度と起こさないと、簡単に約束するためではない。
次に選ぶ人が、自分の意志で考えられるように。
「……よし」
ソアは立ち上がった。
「明日も頑張ろう!」
「その前に、食事だな」
ヴァルトが扉へ向かう。
「賛成!」
ソアは元気よく後を追った。
ガシャッ、ガシャッ。
重い鎧の音が、地下通路に響く。
世界を変えるために、鎧を脱ぐ必要があるのか。
それとも、鎧を着たままでも変えられることがあるのか。
その答えは、まだ出ていない。
けれどソアは、以前よりも少しだけ分かっていた。
大切なのは、誰かに選ばせてもらうことではない。自分たちで考え、選び、その結果に向き合うことなのだ。
そして、北境王都の記録庫には、まだひとつの問いが残されていた。
かつて世界樹とのつながりを手放した人々は、なぜ王国を離れ、それでも再びつながることを望んだのか。
その答えを知るために、ソアたちは次の記録へと手を伸ばす。




