第158話 地下記録庫
北境王都を離れる前に、ソアたちはもう一度、最終記録保管庫へ戻っていた。
理由は単純だった。
「……ねえ、エリアスさん」
「どうした、ソア」
「地下に、まだ記録が残ってるんだよね?」
「ああ。最終記録保管庫とは別に、王都の地下には旧記録庫がある。そこには、公開用に整理される前の記録が保管されていた」
「じゃあ、どうして最初から見せてくれなかったの?」
「……場所を忘れていたわけではない」
「うん」
「ただ、私は長い間、そこへ入ることを避けていた」
エリアスは、視線を落とした。
「最終記録保管庫に残されていたのは、王国が最後に何を選んだかという記録だ。だが、地下記録庫には、その選択に至るまでの議論や、選ばれなかった案、そして私が表に出さなかった記録が残っている」
「つまり……」
ソアは眉を寄せた。
「自分が何を隠したのか、全部見なきゃいけないってこと?」
「そうだ」
「そっか」
ソアは、思ったよりあっさり頷いた。
「じゃあ、行こう」
エリアスが驚いたように顔を上げる。
「怖くはないのか?」
「怖いよ?」
「……怖いのか」
「そりゃそうでしょ。自分が見たくないものが残ってるかもしれないんだもん」
ソアは胸当てを軽く叩いた。
「でも、見ないままだったら、ずっと気になっちゃうから」
「……君は、本当に不思議な人間だな」
「よく言われる!」
「褒めてはいない」
「それもよく言われる!」
ヴァルトが小さく吹き出した。
「いつもの調子だな」
「いつもの調子が一番だよ。緊張しすぎると、鎧の留め具まで固くなった気がするし」
「それはお前の気のせいだろう」
「そうかな……?」
ソアは胸元の留め具を確認した。
ガシャッ。
「うん、大丈夫!」
「何を確認したんだ……」
レイナが苦笑し、ミレイユは肩をすくめた。
こうして、五人は地下への階段を下り始めた。
◇
階段は、王都の地下深くまで続いていた。
壁に埋め込まれた銀色の結晶が、足元を照らしている。
一定の間隔で、古い文字が刻まれていた。
記録の分類。
保存年月。
閲覧権限。
そして、最後の項目には、何度も同じ言葉が記されていた。
――異議申し立て。
「これ、ずいぶん多いね」
ソアが立ち止まる。
「王国では、記録の内容に異議を申し立てる仕組みがあったのか?」
ヴァルトがエリアスに尋ねた。
「制度としては存在した。だが、実際には十分に機能していなかった」
「どうして?」
レイナが問う。
「異議を申し立てるには、記録を閲覧できなければならない。そして、記録を閲覧するためには、権限が必要だった」
「……権限を持つ者が、自分たちに都合の悪い記録を隠していたら?」
「異議を申し立てること自体が難しくなる」
エリアスは、静かに答えた。
「仕組みはあった。だが、その仕組みを利用できる者が限られていたのだ」
ミレイユがため息をつく。
「形だけ整っていても、使えなければ意味がないわね」
「……ああ」
エリアスは否定しなかった。
ソアは壁の文字を見つめた。
記録を残すこと。
記録を読むこと。
そして、間違いを指摘できること。
どれか一つでも欠ければ、残された記録は、誰かの都合のいい物語になってしまう。
「……難しいなあ」
「また難しいと言っているぞ」
ヴァルトが言う。
「だって、本当に難しいんだもん。でも……」
ソアは一歩、前へ進んだ。
「難しいからって、諦める理由にはならないよね」
その言葉に、誰も異を唱えなかった。
◇
やがて、階段の先に大きな扉が現れた。
扉の中央には、王冠を囲む七本の線。
その下に、見慣れない文字が刻まれている。
エリアスが手を伸ばした。
「ここが旧記録庫だ」
扉に触れると、銀色の光が走った。
『記録保持者を確認』
『第八の記録、継承手続きを確認』
『閲覧を許可します』
重い音を立てて扉が開く。
その向こうには、無数の記録結晶が並ぶ広大な部屋が広がっていた。
壁一面の棚。
天井近くまで伸びる階層。
床には、記録を運ぶための古い魔導装置が並んでいる。
だが、部屋の奥には、ぽっかりと空いた空間があった。
棚が並んでいたはずの場所だけが、不自然に空白になっている。
「……あそこは?」
ソアが尋ねた。
エリアスの表情が変わった。
「私が、記録を移した場所だ」
「移した?」
「正確には……公開審議に提出される予定だった記録を、別の保管領域へ移した」
「どうして?」
エリアスは、すぐには答えなかった。
やがて、棚のひとつから、古びた記録結晶を取り出した。
「王都の外で、魔力供給が不足しているという報告だ。複数の村から、同じ内容の報告が届いていた」
結晶が淡く光る。
空中に、当時の記録が映し出された。
――北方地域、魔力供給不足。
――農地の維持に支障。
――治癒魔法の使用制限。
――接続制限計画の再検討を要請。
ソアの表情から、笑顔が消えた。
「これを、審議に出さなかったの?」
「……ああ」
「でも、王都の人たちが知らなかったら、対策できないじゃない」
「そうだ」
エリアスは、記録結晶を握りしめた。
「私は、王都の防衛が不安定になることを恐れた。制限を解除すれば、王都の魔力供給も不安定になる可能性があったからだ」
「それで、報告を隠した……?」
「公開すれば、接続制限を見直す議論が始まる。私は、その議論によって王都が危険にさらされることを恐れた」
レイナが厳しい表情で言った。
「けれど、議論を避けた結果、王都の外にいた人たちは危険にさらされた」
「……その通りだ」
エリアスは、目を閉じた。
「私は、誰かを守るために判断したつもりだった。だが、その判断で誰が危険にさらされるのかを、正面から見ようとしなかった」
ソアはしばらく黙っていた。
責める言葉なら、いくらでも出てきた。
それでも、ここで必要なのは、エリアスを許すことでも、責め続けることでもない。
何が起きたのかを、正確に残すことだった。
「……この記録、ちゃんと残そう」
ソアは言った。
「エリアスさんが何を考えて、何を怖がって、何を選んだのか。隠された報告に何が書かれていたのか。全部」
「私の言い分も、か?」
「うん。でも、エリアスさんの言い分だけじゃなくて、被害を受けた人たちの記録も一緒に」
ソアは、空白になった棚を見上げた。
「片方だけ残したら、また同じことになっちゃうから」
エリアスは、長い間、何も言わなかった。
やがて、ゆっくりと頷いた。
「……分かった」
◇
そのときだった。
部屋の奥で、ひとつの記録結晶が光った。
続いて、もうひとつ。
さらに、三つ、四つ。
銀色の光が、空白の棚の周囲へ集まっていく。
『未公開記録を検出』
『公開審議記録との照合を開始』
『記録の不一致を確認』
『閲覧者の意思を確認してください』
ソアは目を瞬かせた。
「……えっと。私たちが見てもいいってこと?」
『記録には、公開可能な情報と、個人の意思を確認すべき情報が含まれています』
『すべての記録を一律に公開することは推奨されません』
「……そっか」
ソアは頷いた。
「じゃあ、まずは中身を確認して、公開していいものと、本人たちの意思を確かめる必要があるものを分けよう」
ミレイユが感心したように目を細めた。
「少しずつ、考え方が変わってきたわね」
「えっ、そう?」
「ええ。以前なら、全部見てから考えようと言っていたでしょう?」
「……言ってたかも」
「言っていたな」
ヴァルトが即座に同意する。
「私も覚えているわ」
レイナまで頷いた。
「みんな、そんなに覚えてなくていいよ!」
ソアが頬を膨らませる。
けれど、すぐに笑った。
「……でも、そうだね。記録を受け継いだからって、何でも自由にしていいわけじゃないんだ」
彼女は、光る結晶へ手を伸ばした。
触れる直前に、もう一度、仲間たちを見る。
「一緒に確認してくれる?」
「もちろんだ」
レイナが答える。
「ひとりで抱え込むつもりなら、止めるわよ」
ミレイユが続ける。
「俺も手伝う。今度は、俺自身の判断から逃げないためにな」
ヴァルトも頷いた。
最後に、エリアスが一歩前へ出た。
「これは、私が隠した記録だ。私も、最後まで向き合う」
「うん!」
ソアは、結晶に触れた。
銀色の光が、五人の足元へ広がる。
記録の整理が始まった。
それは、一瞬で終わる仕事ではない。
失われた声のすべてを取り戻すことも、過去の選択をなかったことにすることもできない。
それでも、誰かが一方的に決めていた記録の行方を、少しずつ変えていくことはできる。
ソアは、光の中に浮かぶ文字を見つめた。
そこには、王都の外で暮らしていた名も知らない人々の言葉があった。
――私たちの暮らしも、記録に残してください。
――王都を憎んでいたわけではありません。
――ただ、私たちの声を聞いてほしかったのです。
「……ちゃんと残すよ」
ソアは小さく呟いた。
「今度は、誰かひとりの判断で消えたりしないように」
胸元の《巡りの雫》が、穏やかに輝いた。
遠く離れた世界樹から、かすかな温もりが伝わってくる。
記録を受け取ることは、過去を背負い続けることではない。
過去に何があったのかを知り、その声を未来へ渡すこと。
そして、未来の誰かが、自分たちとは違う答えを選べるようにすることだ。
ソアは、もう一度、仲間たちを見た。
「よし。まずは、この棚から!」
「……どれくらいあると思っているんだ?」
ヴァルトが棚の上を見上げる。
天井まで、記録結晶がびっしりと並んでいた。
「…………」
ソアは固まった。
「……これ、何日かかるの?」
「さあな」
「鎧の修理より長い?」
「それは確実だろう」
「そんなぁぁぁぁ!」
地下記録庫に、ソアの悲鳴が響いた。
ミレイユが笑い、レイナが肩をすくめ、ヴァルトが呆れたように首を振る。
エリアスも、ほんの少しだけ笑った。
かつて、この場所で隠された記録は、誰かの判断によって未来から切り離されていた。
今、その記録は、複数の人間の手によって、再び未来へつながろうとしている。
すべてを正しくすることはできない。
それでも、間違いを見つけたとき、声を上げられるように。
声を上げた人が、記録から消されないように。
ソアたちは、最初の一つを手に取った。
北境王都の過去を、本当の意味で未来へ返すために。




