第155話 消えた王都
翌日の昼過ぎ。
「……見えた」
レイナの声に、一行は足を止めた。
山道の向こう。
深い谷に囲まれた盆地の中央に、巨大な都市が広がっていた。
高い城壁。
尖塔の並ぶ王城。
幾重にも重なった街路。
そして、街の中心から空へ伸びる、銀色の塔。
北境王都。
かつて世界樹の魔力を利用し、繁栄を極めた王国の首都。
「……すごい」
ソアは思わず呟いた。
「これ、本当に昔の街なの?」
「そうだ」
エリアスが答えた。
「私が暮らしていた頃と、ほとんど変わらない」
「ほとんどって……」
ソアは目を凝らした。
街の建物には崩れたものもある。
城壁には大きな亀裂が走り、街路には銀色の結晶が広がっている。
それなのに、街の輪郭は驚くほど鮮明だった。
まるで昨日まで人が暮らしていたかのように。
「……変ね」
ミレイユが眉を寄せた。
「これほどの年月が経っているなら、普通はもっと崩れているはずよ」
「魔力によって保存されているのかもしれないな」
レイナが答える。
エリアスは、街を見つめたまま動かなかった。
「……帰ってきたんだな」
その声には、喜びよりも深い悲しみが滲んでいた。
ソアは、すぐには声をかけられなかった。
長い間、帰ることのできなかった場所。
守ろうとして、守れなかった場所。
そして、彼が自分の過ちを認めるために、もう一度向き合わなければならない場所。
ここが、エリアスの故郷なのだ。
「……行こう」
やがてエリアスが言った。
「この街に残されたものを、君たちに見せたい」
*
城門は開いたままだった。
門の両脇には、銀色の結晶に覆われた守護像が立っている。
その足元には、古びた看板が倒れていた。
ソアは看板を起こした。
「ええと……『北境王都、交易門』?」
「そうだ。ここから商人たちが街へ入ってきた」
「じゃあ、この先には市場があるの?」
「あるはずだ」
「……はず?」
「何百年も経っているからな」
「そっか……」
ソアは少し考えた。
「じゃあ、昔のお店がそのまま残ってる可能性もある?」
「可能性だけなら、あるだろう」
「……!」
ソアの目が輝いた。
「お菓子屋さん!」
「そこに期待するのか!?」
レイナが思わず突っ込んだ。
「だって、昔のケーキが残ってるかもしれないじゃん!」
「何百年も前の食べ物が残っていたとしても、食べるなよ」
「分かってるよ!」
ソアは胸を張った。
「まずは見た目を確認する!」
「そういう問題じゃない!」
ミレイユが額を押さえた。
エリアスは、そんなやり取りを聞いて小さく笑った。
その笑顔を見て、ソアは少しだけ安心した。
彼はまだ、過去と向き合っている最中だ。
だからこそ、ほんの少しでも笑える時間があっていい。
一行は城門をくぐった。
その瞬間。
足元の銀色の結晶が、淡く輝いた。
街路の灯りが、ひとつ、またひとつと点灯していく。
誰もいないはずの街に、光が戻った。
「……これは」
レイナが大剣を構える。
ミレイユも周囲を警戒した。
だが、襲撃はなかった。
代わりに、街路の奥からかすかな音が聞こえてきた。
カラン。
コトン。
まるで、誰かが店の戸を開けたような音。
ソアは息を呑んだ。
「……人がいるの?」
「いや」
エリアスは首を横に振った。
「ここには、もう誰もいないはずだ」
彼が一歩進む。
街の景色が、揺らいだ。
崩れた建物が、一瞬だけ元の姿を取り戻す。
街路を走る荷車。
店先に並ぶ商品。
笑いながら歩く人々。
幼い子供たちが、路地を駆け抜けていく。
だが、次の瞬間には、すべてが消えた。
「……今のは?」
ソアが尋ねた。
「記録だ」
エリアスが答える。
「街に刻まれた、過去の記録だろう。世界樹との接続が戻り始めたことで、残されていた記憶が表面化しているのかもしれない」
「じゃあ、さっきの人たちは……」
「かつて、この街で暮らしていた人々だ」
ソアは、誰もいない街路を見つめた。
彼らは確かに、ここにいた。
笑い、働き、食べ、眠り、誰かを愛していた。
けれど、今の世界では、その存在を知る者すらほとんどいない。
「……忘れられちゃったんだね」
ソアの呟きに、エリアスは答えなかった。
ただ、静かに歩き続けた。
*
最初にたどり着いたのは、市場だった。
広場には、いくつもの露店が並んでいる。
石造りの台。
木製の棚。
商品を吊るすための金具。
どれも古びているが、形は残っていた。
ソアは一軒の店の前で足を止めた。
「……ここ、何のお店だったんだろう」
看板には、花のような模様が描かれている。
「菓子屋だ」
エリアスが答えた。
「……えっ!?」
「王都でも有名な店だった。祭りの日には、ここに人が集まっていたよ」
ソアは看板を見上げた。
「どんなお菓子があったの?」
「焼き菓子や、果物を使った菓子。それから、乳を煮詰めて作る甘い菓子もあった」
「ミルクのお菓子!?」
「そうだな」
「……食べてみたかったなあ」
ソアは店先に残された小さな木箱を見つめた。
そのとき、木箱の中で何かが光った。
淡い銀色の結晶。
その表面に、細かな文字が浮かび上がる。
――生活記録、保存済み。
――公開状態、制限中。
「……生活記録?」
ソアが結晶に触れようとすると、エリアスが手を伸ばして止めた。
「待ってくれ」
「え?」
「ここに残っている記録は、すべてが公開されているわけではない。個人の記録も含まれているはずだ」
「……そっか」
ソアは手を引っ込めた。
「勝手に見ちゃいけないものもあるんだね」
「そうだ。記録を残すことと、すべてを誰にでも見せることは同じではない」
エリアスは結晶を見つめた。
「……昔の私は、その区別をうまくできなかった」
ミレイユが静かに尋ねる。
「だから、全部を閉じたの?」
「……一部は、そうだ」
エリアスは頷いた。
「王都が崩壊する直前、私は市民の記録を保護するため、公開を制限した。家族の名前や、個人の生活、他人に知られたくない記憶まで、すべてが政治の道具にされることを恐れたからだ」
「それ自体は、間違いじゃないと思うよ」
ソアが言った。
「でも、そのまま全部閉じちゃったら、誰も何も知らないままになっちゃう」
「……そうだ」
「だから、何を残して、誰に見せるかを、ちゃんと考え直さなきゃいけないんだね」
エリアスはゆっくり頷いた。
「君の言う通りだ」
そのとき。
市場の中央にある大きな噴水が、淡い光を放った。
水は流れていない。
それでも、噴水の上に映像が浮かび上がる。
王都の広場。
人々が集まり、誰かの演説を聞いている。
壇上に立つのは、王冠を戴いた人物だった。
その背後には、黒い衣をまとった男の姿がある。
「……始源の管理者」
エリアスが呟いた。
映像の中の男は、王の隣で静かに話を聞いていた。
やがて、王が手を上げる。
広場の上空に、巨大な魔法陣が展開された。
人々から歓声が上がる。
だが、その光景は途中で乱れた。
映像に、文字が重なる。
――接続制限計画、実行記録。
――王国承認、確認。
――管理者による記録改変を検知。
「……改変?」
レイナが眉をひそめた。
文字が続く。
――一部記録、削除済み。
――削除実行者、始源の管理者。
そして、さらに別の文字が浮かんだ。
――公開制限記録、登録者、王領北境記録管理局。
――登録者、エリアス・ヴァルネ。
「……!」
エリアスが息を呑んだ。
彼の名の下に、複数の記録が並んでいた。
王都の外に住む人々から寄せられた反対意見。
接続制限による被害の報告。
計画の中止を求める嘆願。
それらは、管理者によって削除された記録とは別に、公開を制限されていた。
つまり――。
管理者が消した記録と、エリアスたちが閉じた記録は、同じものではなかった。
「……私が、閉じた記録だ」
エリアスの声が震えた。
「そして、彼が消した記録もある……」
ソアは噴水の映像を見つめた。
「じゃあ、王国が全部悪かったわけでも、管理者が全部悪かったわけでもないんだね」
「そうだ」
エリアスは答えた。
「王国は自らの選択によって、多くの人々を苦しめた。私は、その危険を知りながら記録を正式な審議から外した。そして管理者は、その結果を都合よく利用し、王国の過ちを隠すために、別の記録まで消した」
彼は、深く息を吐いた。
「……誰か一人に責任を押しつければ、簡単だったのかもしれない」
「でも、それじゃ本当のことが分からなくなっちゃう」
ソアが言った。
「誰が何をしたのか。それぞれが何を選んだのか。ちゃんと見ないと、同じことを繰り返しちゃうもんね」
レイナは大剣を下ろした。
「過ちを認めることと、すべての責任を一人に押しつけることは違う。私たちは、その両方を忘れてはいけないな」
ミレイユも頷く。
「誰かを悪者にすれば、考えるのをやめられる。でも、それでは何も解決しないわ」
エリアスは、長い間、噴水を見つめていた。
そして、静かに頭を下げた。
「……私は、自分が閉じた記録についても、向き合わなければならない」
ソアは頷いた。
「うん。一緒に考えよう」
*
市場を離れた一行は、王城へ続く大通りに出た。
道の両側には、銀色の結晶が無数に広がっている。
結晶の表面には、途切れ途切れの記録が映し出されていた。
誰かが家族を呼ぶ声。
誰かが助けを求める声。
そして、最後まで記録されなかった言葉。
その中には、管理者によって消されたものも、王国の人々が自ら閉じたものもある。
ソアは、その光景を見つめながら歩いていた。
ふと、胸元の《巡りの雫》が淡く輝いた。
「……?」
銀色の光が、王城の方向へ伸びていく。
道の先に、巨大な門が見えた。
その門には、王冠と七本の線。
そして、その下に刻まれた文字。
――最終記録保管庫。
エリアスが足を止めた。
「……ここだ」
「ここに、最後の記録があるんだね」
「ああ」
エリアスは、門を見上げた。
「私が最後まで確認できなかった記録。そして、王都が消える直前に、誰かが残した記録だ」
門の表面に、文字が浮かび上がる。
――記録保持者を確認。
――エリアス・ヴァルネ。
――最終意思の確認を開始します。
エリアスの顔が強張った。
「……私の意思、か」
ソアは隣に立った。
「大丈夫。今度は、一人で決めなくていいよ」
エリアスはソアを見た。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……ああ」
門の奥から、低い音が響いた。
重い扉が、ゆっくりと開いていく。
その先には、王国が残した最後の選択が眠っていた。
そして、ソアたちはまだ知らない。
そこに記録されているのは、王国の過ちだけではない。
彼らが最後まで守ろうとしたもの。
そして、女神が果たせなかった約束の本当の意味もまた、そこに残されているのだった。




