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『鎧を脱いだら、世界が変わった』  作者: ムファッサー
第十二章 帰還と、忘れられた王国

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第154話 記録保持者の名前


北境王都へ続く道は、山あいを縫うように伸びていた。


 かつては王都へ物資を運ぶために整備された街道だったのだろう。


 石畳はところどころ崩れ、道の脇には銀色の結晶が顔を出している。


 それでも、道筋だけははっきりと残っていた。


「……昔は、ここを馬車がたくさん通っていたんだ」


 エリアスが、遠くの山並みを眺めながら言った。


「王都へ向かう商人、研究者、旅人。朝から晩まで人の往来が絶えなかった」


「そんなに栄えていたんだね」


 ソアは感心したように頷いた。


「うん。街道沿いにも町があってね。王都へ行けば、何でも手に入ると言われていたよ」


「何でも?」


「少なくとも、当時の人々はそう信じていた」


「……ケーキも?」


 エリアスが振り返った。


「けーき?」


「甘いお菓子! 小麦粉とか、卵とか、牛乳を使った……」


「王都には菓子職人もいたよ。祭りの日には、色とりどりの菓子が並んでいた」


「本当!?」


 ソアの目が輝いた。


「どんなケーキがあったの!?」


「……すまない。そこまでは覚えていない」


「そんなぁ……」


「そこは残念がるところなのか?」


 レイナが苦笑した。


「ソアらしいじゃない」


 ミレイユも肩をすくめる。


「歴史の真実より、お菓子の真実が気になるのね」


「どっちも大事だよ!」


 ソアは胸を張った。


「歴史が分かっても、お腹は膨れないもん!」


「それはそうだが……」


 エリアスは、わずかに笑った。


 その笑顔は、今まで見せてきたものより自然だった。


 だが、しばらく歩くと、彼の表情は再び静かなものへ戻っていった。


「……王都が失われたあと、私は長い間、ここを通る人を待っていた」


「誰かが戻ってくるのを?」


 レイナが尋ねる。


「そうだ。いつか王都の人々が戻り、記録を受け取り、私が守ってきたものを次へ渡してくれると信じていた」


「でも、誰も来なかった」


「……ああ」


 エリアスは頷いた。


「やがて街道は荒れ、町は消え、人々は王都の名前さえ忘れていった。それでも私は、記録を守り続けた」


「どうして、そこまで?」


 ソアが尋ねた。


「記録を失えば、あの人たちが生きていたことまで、なかったことになってしまう気がしたからだ」


 エリアスは足を止めた。


「私は、最後の日に多くの人を救えなかった。せめて、彼らが何を考え、何を願い、何を選んだのか。それだけは残したかった」


 風が吹き抜けた。


 銀色の結晶が、かすかに鳴った。


「……だけど」


 エリアスは、手にした古い記録板を見下ろした。


「記録を残すことに必死になるあまり、私は別のことを見失った」


「別のこと?」


「記録は、残せばそれでいいわけではない。誰かに読まれ、考えられ、必要ならば異議を唱えられて、初めて次の時代につながる」


 彼は苦しそうに笑った。


「私は、記録が傷つくことを恐れた。誤解されることを恐れた。誰かに都合よく利用されることを恐れた」


「だから、閉じたんだね」


 ソアが言った。


「……そうだ」


 エリアスは否定しなかった。


「最初は、記録を守るためだった。だが、いつしか私は、記録をどう受け取るかを他人に委ねることまで恐れるようになった」


「……」


「そして、私は決められなくなった。誰に渡すべきか。どこまで公開すべきか。何を伝え、何を伏せるべきか」


 エリアスは記録板を握りしめた。


「私は、誰かに間違った判断をしてほしくなかった。だから、自分が判断し続けようとした。だが、それでは私がいなくなったあと、何も残らない」


 ミレイユが静かに口を開いた。


「守るつもりで、相手が選ぶ機会まで奪っていたのね」


「……ああ」


 エリアスは目を伏せた。


「君たちに責められても仕方がない」


「責めてるわけじゃないよ」


 ソアが言った。


 エリアスが顔を上げる。


「私だって、鎧を守りたいもん。傷つけたくないし、壊したくないし、できるならずっと綺麗なまま着ていたい」


「……君の鎧は、すでにずいぶん傷んでいるようだが」


「そこは今、言わなくていいの!」


 ソアは慌てて胸当てを押さえた。


「とにかく! 大切なものだから、傷つけたくないって気持ちは分かるよ。でも、傷つけないことばっかり考えてたら、何もできなくなっちゃうこともあると思う」


 エリアスは黙って聞いていた。


「記録を残すのは大切だよ。だけど、その記録をどうするかまで、エリアスさん一人で決めなくてもいいんじゃないかな」


「……君たちに任せればいい、と?」


「ううん。私たちだけでもないよ」


 ソアは首を横に振った。


「記録に関係する人たちにも、考えてもらえばいいんだよ。何が起きたのかを知って、そのうえで、どうするかを決めてもらうの」


「それでは、また誰かが記録を悪用するかもしれない」


「うん。そうなる可能性もあると思う」


 ソアは、あっさり頷いた。


「でも、だからって全部隠しちゃったら、何も変わらないよ」


「……」


「間違えないようにするのって、難しいもん。だったら、間違えたときに気づけるように、みんなで考えられるようにしたらいいんじゃないかな」


 レイナが頷いた。


「一人にすべてを背負わせない。それは、私たちが世界樹の戦いで学んだことでもある」


「記録も同じね」


 ミレイユが続ける。


「誰か一人が正しさを独占すれば、他の者は自分で判断できなくなる。必要なのは、考える機会を残すことよ」


 エリアスは、しばらく何も言わなかった。


 やがて、ゆっくりと息を吐いた。


「……君たちは、私が何百年もかけて悩んできたことを、ずいぶん簡単に言うのだな」


「簡単じゃないよ」


 ソアは笑った。


「私だって、今もよく分かってないもん」


「それで、そんなに自信満々に言えるのか?」


「分からないから、一緒に考えるんだよ!」


 エリアスは目を見開いた。


 そして、ほんの少しだけ笑った。


「……そうか」


 その声には、今までとは違う響きがあった。


     *


 日が傾き始めたころ、一行は街道沿いの石造りの休憩所へたどり着いた。


 屋根の一部は崩れていたが、風をしのぐには十分だった。


「今日はここで休もう」


 レイナが周囲を確認する。


「夜の山道を進むのは危険だ」


「賛成!」


 ソアは勢いよく頷いた。


「私も休みたい! あと、お腹が空いた!」


「……結局、それが一番の理由なのでは?」


 ミレイユが呆れた。


「違うよ! 安全第一だよ!」


「はいはい」


 ソアは荷物を下ろし、鎧の留め具を確かめた。


 すると、エリアスがそっと近づいてきた。


「ソア」


「ん? どうしたの?」


「ひとつ、聞いてもいいだろうか」


「いいよ!」


「君は、記録を受け取ることを恐れないのか?」


 ソアの手が止まった。


「……恐いよ」


 思いがけず、素直な答えだった。


「だって、知らなかったことを知ったら、今まで信じていたことが変わるかもしれないでしょ。誰かが悪い人だったって分かるかもしれないし、逆に、悪いと思っていた人にも理由があったって分かるかもしれない」


「……ああ」


「知ったあと、どうしたらいいのか分からなくなることもあると思う」


 ソアは胸当ての表面を指でなぞった。


「でも、知らないまま決めるのも、私は嫌だな」


「……」


「だから、恐くても知りたい。知ったうえで、どうするかを考えたいんだ」


 エリアスは、長い間ソアを見つめていた。


 やがて彼は、腰に下げていた古い記録板を取り外した。


「これは、王都の最後の日に私が持ち出したものだ」


 記録板には、無数の細かな傷が刻まれていた。


「当時の王国で、記録を管理していた者の名前が刻まれている。王族、研究者、魔力供給の責任者。そして――」


 エリアスは、記録板の裏側を指でなぞった。


「私の名前も」


 そこには、古い文字でこう刻まれていた。


 ――記録管理官、エリアス・ヴァルネ。


「エリアス・ヴァルネ……」


 ソアが、その名を繰り返す。


「それが、私の名前だ」


 エリアスは少しだけ寂しそうに笑った。


「長い間、私は自分を記録保持者としか呼ばなくなっていた。名前を名乗れば、あの日の自分に戻ってしまう気がしていたからだ」


「……あの日?」


「王都が最後の選択をした日だ」


 エリアスは記録板を握った。


「私は、その選択を止められなかった。いや……止める機会があったのに、止めなかった」


 ソアたちは黙って彼の言葉を待った。


「王都が世界樹との接続を制限する計画を進めたとき、私はその記録を管理する立場にいた。計画の危険性も、王都の外に暮らす人々が受ける影響も、知っていた」


「……それでも、承認したの?」


 レイナが尋ねた。


「私は、計画の承認者ではない。だが、反対する記録を正式な議題にすることはできた。そうすれば、計画の実行が遅れたかもしれない」


「どうして、そうしなかったの?」


「……王都を守りたかったからだ」


 エリアスは目を閉じた。


「王都の人々も、私の大切な人たちだった。家族も、友人も、仕事仲間もいた。彼らが苦しむ姿を見たくなかった。私は、王都を守ることが、世界を守ることだと信じたかった」


 その声が、わずかに震えた。


「だから私は、計画に反対する記録を正式な審議から外した。危険性を知らなかったわけではない。知っていたのに、見えない場所へ押しやったんだ」


 誰も、すぐには言葉を返せなかった。


 エリアスは続けた。


「その結果、王都は一時的に安定した。だが、外の村々はさらに苦しむことになった。そして、制限された流れはやがて王都の中でも歪みを生み、最後には……」


 彼は言葉を切った。


「……すべてを失った」


 ソアは、静かに息を吸った。


「エリアスさんは、そのことをずっと後悔していたんだね」


「後悔だけでは足りない」


 エリアスは顔を上げた。


「私は、自分が何をしたのかを記録に残すことすら恐れた。だから、自分の名を記録保持者という役目の後ろに隠した」


 彼は古い記録板をソアへ差し出した。


「北境王都に着いたら、私のしたことも記録の中で確かめてほしい。私がどの記録を残し、どの記録を隠したのか。すべてを見たうえで、どう扱うべきかを一緒に考えてほしい」


 ソアは記録板を受け取らず、彼の手をそっと押し戻した。


「それは、エリアスさんが持っていて」


「……なぜだ?」


「だって、それはエリアスさんの名前が刻まれたものなんでしょ?」


 ソアはまっすぐに彼を見た。


「自分の名前まで、私たちに預けなくていいよ」


「……」


「過去に何をしたかは、ちゃんと向き合わなきゃいけないと思う。でも、エリアスさんが誰だったかまで、私たちが決めることじゃないよ」


 エリアスは、しばらく記録板を見つめていた。


 やがて、それを胸元へ戻した。


「……ありがとう」


 その声は、とても小さかった。


     *


 夜。


 休憩所の外では、風が古い石畳を吹き抜けていた。


 ソアは一人、壁にもたれて座っていた。


 鎧は相変わらず重い。


 身体を休めるために装甲を少しだけ緩めたいところだが、完全に外す気にはなれなかった。


「……やっぱり、この鎧が落ち着くなあ」


 胸当てを軽く叩く。


 その音を聞いて、レイナが隣へやってきた。


「まだ鎧を着ているのか」


「うん。落ち着くから」


「眠るときくらい、外してもいいんじゃないか?」


「……それは、ちょっと考える」


「考えるのか」


「だって、寝てる間に鎧がなくなったら嫌だもん」


「誰も盗まないだろう……」


「分からないよ! 鎧の価値が分かる人なら、欲しくなるかもしれないし!」


「……そうか」


 レイナは、もうそれ以上言わなかった。


 少しの沈黙のあと、ソアが口を開く。


「ねえ、レイナ」


「何だ?」


「エリアスさんって、これからどうなるのかな」


「どうなる、とは?」


「自分がしたことを認めて、記録も残して……それで、許されるのかな」


 レイナはすぐには答えなかった。


「……許されるかどうかは、彼が決めることではない。傷ついた人々がどう感じるかも、無視できないからな」


「うん……」


「だが、責任を取ることはできる。過去をなかったことにはできなくても、これから何をするかは選べる」


 ソアは、静かに頷いた。


「……そっか」


「ソア。お前も同じだぞ」


「えっ、私?」


「お前は、何でも自分で抱え込む必要はない。仲間を頼ることも、自分で選んでいいんだ」


「……うん」


 ソアは胸元の《巡りの雫》に触れた。


 淡い光が、指先を照らす。


 世界樹とのつながりは、今も静かに続いている。


 その先には、まだ知らない記録がある。


 誰かの後悔も。


 誰かの願いも。


 そして、ソア自身が答えを選ばなければならない問いも。


「……明日は、王都に着けるかな」


「ああ。順調なら、昼過ぎには見えてくるはずだ」


「そっか!」


 ソアは顔を上げた。


「じゃあ、明日は早起きしないと!」


「……鎧を着たまま寝るなら、起きるのは早いかもしれないな」


「どういう意味!?」


 レイナは笑った。


 ソアも、つられて笑った。


 その笑い声は、静かな夜の中へ溶けていった。


 北境王都には、まだ多くの真実が眠っている。


 けれど、その真実を受け取るために必要なのは、完璧な人間であることではない。


 過ちを認め、他者の声を聞き、それでも次の選択をすること。


 エリアスは、ようやくその一歩を踏み出そうとしていた。


 そしてソアたちもまた、王都へ続く道の先で、最後の問いに向き合おうとしていた。

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