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『鎧を脱いだら、世界が変わった』  作者: ムファッサー
第十二章 帰還と、忘れられた王国

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第153話 守護者が見た夢


 世界樹の根元。


 淡い緑色の光が、ゆっくりと大地を巡っていた。


 かつて滞っていた魔力は、少しずつ流れを取り戻している。


 失われたものが、すべて元に戻ったわけではない。


 傷ついた土地も、魔物の脅威も、人々が抱えた悲しみも、まだ残っている。


 それでも――世界は、再び動き始めていた。


「……ようやく、ここまで来たのですね」


 世界樹の前に、一人の女性が立っていた。


 女神。


 かつてソアを異世界へ導き、《成長誘導》の加護を与えた存在。


 彼女は世界樹の幹に手を添え、目を閉じた。


 伝わってくるのは、世界中を巡る魔力の流れ。


 そして、その流れに乗って届く無数の記憶だった。


 誰かが家族と交わした約束。


 誰かが旅立つ前に残した言葉。


 誰にも知られず、誰にも褒められず、それでも誰かを守ろうとした人々の記憶。


 以前の世界樹は、そうした記憶を十分に受け取れなかった。


 力を持つ者の記録ばかりが残り、力を持たなかった者の声は、いつしか流れの外へ押し出されていった。


 だが今は違う。


 小さな記憶も、失敗した選択も、誰かにとっては大切だった日々も。


 それらが少しずつ、世界樹へと戻ってきていた。


「……あの子のおかげですね」


 女神は微笑んだ。


 鎧を愛し、失敗しても立ち上がり、仲間とともに道を選ぶ少女。


 ソア・ミュスカ。


 彼女は世界を救った。


 けれど、女神は知っていた。


 ソアが救ったのは、世界樹だけではない。


 世界が忘れようとしていたものに、もう一度目を向けるきっかけを作ったのだ。


 そのとき。


 世界樹の根元に、小さな銀色の光が浮かび上がった。


「……これは?」


 女神は目を開けた。


 光の中に映し出されたのは、古い王城。


 銀色の結晶に覆われた街路。


 そして、巨大な門の前に立つ一人の青年だった。


 彼の髪は銀色に輝き、手には古びた記録板が握られている。


 エリアス。


 かつて北境王都で、王国の記録を守っていた青年。


 女神の表情が変わった。


「……まだ、残っていたのですね」


 懐かしさ。


 安堵。


 そして、胸の奥に沈めてきた後悔。


 さまざまな感情が、静かに押し寄せてくる。


 彼女は映像から目をそらさなかった。


「エリアス……」


 その名を口にした瞬間、世界樹の光が揺れた。


 銀色の記憶が、別の光景を映し出す。


     *


 ――遠い昔。


 北境王都は、世界でも有数の繁栄を誇っていた。


 世界樹から流れる魔力を利用した街灯が夜の街を照らし、魔力で動く荷車が石畳の道を走る。


 人々は豊かな暮らしを送り、王都の研究者たちは魔力の新たな使い道を次々と生み出していた。


 女神は、その繁栄を見守っていた。


 当時の彼女は、世界樹の流れが人々の暮らしを支えていることを知っていた。


 しかし、その流れを守るために、何をすべきなのかまでは理解していなかった。


 世界樹は力を与える。


 人々はその力を使う。


 使われた力は、やがて世界へ戻る。


 それが自然な循環だった。


 だが、王都の人々は次第に、力を手元に残そうとするようになった。


 魔力を蓄える施設が増え、接続を管理する仕組みが作られ、誰にどれだけの力を渡すかを決める者が現れた。


 最初は、誰かを守るためだった。


 魔物の襲撃から街を守るため。


 病に苦しむ人々を救うため。


 冬の寒さから子供たちを守るため。


 どれも、間違いなく善意から始まっていた。


 けれど。


 守る対象を選ぶようになったとき、そこから外れた人々が生まれた。


 王都の外では、魔力が不足し、暮らしを維持できなくなる村が増えていった。


 女神はそれを見ていた。


 見ていたのに――何もできなかった。


 正確には、何もしなかった。


 人々には自分たちで選ぶ権利がある。


 女神が介入すれば、その選択を奪うことになる。


 そう考えていたからだ。


 だが、彼女は自分に都合のいい理由を与えていただけだったのかもしれない。


 人々が何を選ぶのか。


 その結果、誰が傷つくのか。


 それを最後まで見届ける勇気がなかったのだ。


 やがて、世界樹の流れは大きく乱れ始めた。


 王都では、接続をさらに制限する計画が進められた。


 女神は初めて、強く介入すべきではないかと考えた。


 だが、そのときにはもう遅かった。


 王国は自分たちの仕組みを守るために、世界樹との接続を切り離す準備を始めていた。


 そして、その計画を支えるために作られたのが、七つの器だった。


 力を蓄える器。


 力を運ぶ器。


 力を防ぐ器。


 力を縛る器。


 力を変換する器。


 力を断ち切る器。


 そして――記憶を受け取り、次へ渡す器。


 女神は、その仕組みが何をもたらすのかを完全には理解できていなかった。


 だからこそ、彼女はひとつの約束を交わした。


 世界樹の流れが完全に途絶えることだけは防ぐ。


 王国が滅びても、記憶が失われても、いつか誰かが循環を取り戻せるように。


 その役目を担う者を、世界樹の中に残す。


 それが、彼女にできる精一杯だった。


 しかし、その約束は果たされなかった。


 王都は歴史から姿を消し、世界樹との接続は失われた。


 女神は長い時間をかけて、もう一度世界に手を伸ばそうとした。


 けれど、直接力を与えることはできなかった。


 そこで彼女は、転生する魂の中から一人の少女を選んだ。


 鎧を愛し、力を得るために何かを手放すことを恐れず、それでも大切なものを手放したくないと願う魂。


 高橋美咲。


 彼女が異世界へ渡るとき、女神は《成長誘導》という加護を与えた。


 その加護が何を引き起こすのか。


 ソア自身がどこまでたどり着くのか。


 女神にも、すべては分からなかった。


 それでも、彼女に託すしかなかった。


     *


「……私は、あの子に託したのですね」


 女神は静かに呟いた。


 世界樹に映し出された記憶が、再び現在へ戻る。


 銀色の光の中では、エリアスが古い記録板を抱えていた。


 彼は何かを言いかけ、結局、口を閉じている。


 その姿を見て、女神は目を伏せた。


「けれど、託すことと、責任を渡すことは違う……」


 ソアにすべてを背負わせるつもりはなかった。


 しかし結果として、彼女は何度も危険に身をさらし、鎧を壊し、仲間とともに世界の問題へ向き合うことになった。


 女神は、その事実から目をそらせない。


「ごめんなさい、ソア」


 誰にも届かない謝罪だった。


 だが、そのとき。


 世界樹の根元に、小さな緑色の光がともった。


 光の中に、見覚えのある小さな姿が浮かび上がる。


 頭に葉をつけた、植物の精霊。


 シードだった。


 今は世界樹のそばに残り、世界から届く記憶を受け取り、次へ渡す役目を担っている。


 シードは小さな手を幹に添えていた。


 女神が目を向けると、シードは顔を上げた。


「……めがみ」


「シード。あなたにも、届いているのですね」


「……うん」


 シードは少し考えてから、言葉を続けた。


「……かなしい、きおくも」


「ええ」


「……うれしい、きおくも」


「そうですね」


「……どっちも、なくさない」


 女神は息をのんだ。


 シードは、かつて記録を守ろうとした者たちと同じように、記憶を受け取っている。


 けれど、違うことがひとつあった。


 シードは、すべてを自分だけで抱え込もうとはしていない。


 受け取った記憶を、いつか次の命へ渡そうとしている。


「……ソアが、いった」


 シードは、少しだけ葉を揺らした。


「……ひとりで、ぜんぶ、しなくていいって」


「……そう」


 女神は目を閉じた。


 それは、かつての自分が理解できなかったことだった。


 力を与えるだけでは足りない。


 誰かに託すだけでも足りない。


 選んだ者が何を背負い、何を守ろうとするのか。


 その声を聞き、必要ならば自分も責任を負わなければならない。


 女神は、ようやくその意味を理解し始めていた。


「シード。ソアたちは、北境王都へ向かっています」


「……うん」


「そこで、きっと私が果たせなかった約束の続きを見つけるでしょう」


 シードは女神を見上げた。


「……めがみも、いくの?」


「いいえ。私はここにいます」


 女神は世界樹の幹に手を添えた。


「私には、ここでしかできないことがあるから」


 世界樹を通して、各地の流れを見守ること。


 失われた記憶を受け取ること。


 そして、これから生まれる命が同じ過ちを繰り返さないよう、力を独占するのではなく、巡らせる仕組みを支えること。


 それは、ソアたちの旅を代わりに進めることではない。


 彼女たちの選択を奪わず、見守りながら、自分自身も責任を果たすことだった。


「……そうですね」


 女神は小さく笑った。


「今度こそ、私は逃げません」


 その言葉に応えるように、世界樹の光が強くなった。


 遠く北の方角から、銀色の光が一筋、世界樹へ届く。


 北境王都の記録が、再びつながり始めたのだ。


 その中には、まだ女神も知らない記憶が残されている。


 自分が交わした約束の、最後の一片。


 そして、エリアスが長い間、誰にも語れなかった選択。


 女神はその光を見つめた。


「……どうか、ソア」


 祈るように呟く。


「あなたが、自分で答えを選べますように」


 世界樹の光は、静かに世界を巡り続けた。

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