第134話 始まりは、ひとつの願いだった
光が消えた。
音も消えた。
巨大な空間に立っていたソアたちは、いつの間にか別の場所にいた。
そこは、緑に満ちた美しい森だった。
高くそびえる木々。
澄んだ水の流れる小川。
木漏れ日の下を、小さな生き物たちが駆けていく。
そして、森の中央には――
一本の巨大な樹が立っていた。
「……世界樹?」
レイナが呟いた。
現在の世界樹とは、どこか違う。
枝の先まで光が巡り、根元から幹へ、幹から枝へ、そして再び大地へ。
その流れは、呼吸するように穏やかだった。
「……きれい」
シードが呟いた。
頭の葉が、優しく揺れている。
「……ここ、しってる」
「シード、分かるの?」
「……うん。でも……わたしの、きおくじゃない」
シードは胸元に手を当てた。
「……もっと、むかし」
そのとき、森の向こうから一人の少年が走ってきた。
白い服。
短い黒髪。
まだ幼い顔立ち。
その手には、小さな木の枝が握られていた。
「待ってよー!」
少年の後ろを、小さな少女が追いかけてくる。
「あなたが勝手に走ったんでしょう!」
「だって、今日は世界樹の光がすごいんだ!」
少年は笑った。
「見て! いつもより、いっぱい流れてる!」
少女は息を切らしながら、少年の隣に並んだ。
「……本当だ」
二人は並んで世界樹を見上げた。
ソアは息を呑んだ。
「……あの子が」
管理者の声が、静かに響いた。
『……ワタシダ』
少年が振り返った。
その顔は、先ほどまでの管理者と同じだった。
ただし、仮面はない。
冷たい金属の身体もない。
そこにいたのは、ただの少年だった。
◇
少年は、世界樹の根元に腰を下ろした。
少女も隣に座る。
「ねえ」
少女が尋ねた。
「あなた、大きくなったら何になりたいの?」
「世界樹を守る人!」
少年は即答した。
「世界樹があれば、みんなが生きていけるから」
「ふうん」
少女は笑った。
「じゃあ、私はあなたを守る人になる」
「えっ?」
「だって、あなたは世界樹を守るんでしょう?」
少女は少し得意げに胸を張った。
「世界樹を守る人が倒れたら困るもの」
少年は目を丸くしたあと、笑い出した。
「じゃあ、二人で守ろう!」
「うん!」
二人の笑い声が、森に響いた。
ソアは思わず微笑んだ。
「……普通の子だったんだね」
『……アア』
管理者の声が、かすかに揺れた。
『ワタシハ、世界樹ノ管理ヲ補助スル存在トシテ生マレタ』
『人々ノ暮ラシヲ観察シ、魔力ノ循環ヲ記録シ、異常ヲ検知スル』
『ソレガ、ワタシノ役割ダッタ』
「じゃあ、あの子は……」
『ワタシニ、名前ヲ与エタ人間ダ』
ソアは少年を見つめた。
少年は少女と一緒に、小さな苗木に水を与えていた。
その姿には、世界を支配しようとした管理者の面影はなかった。
◇
景色が変わった。
森の一部が焼けていた。
地面には亀裂が走り、世界樹の光が弱まっている。
人々が、魔力を巡らせるための器を奪い合っていた。
「これは……」
レイナが顔をしかめた。
『魔力ノ循環ガ乱レ始メタ』
『人々ハ、力ヲ蓄エ、互イニ奪イ合ッタ』
『ワタシハ、警告ヲ発シタ』
『器ヲ一カ所ニ集メテハナラナイ』
『力ヲ留メテハナラナイ』
『流レヲ止メテハナラナイ』
管理者の声が続く。
『ダガ、誰モ聞カナカッタ』
少年は必死に走っていた。
崩れた街。
燃える家。
泣き叫ぶ人々。
その先に、少女がいた。
倒れた石柱の下敷きになっている。
「……っ!」
少年は駆け寄った。
「大丈夫!? 今、助けるから!」
石柱に手をかける。
しかし、持ち上がらない。
何度も力を込める。
それでも、石柱は動かなかった。
「お願いだ……!」
少年の声が震えた。
「動いてよ……!」
少女は、かすかに目を開けた。
「……ねえ」
「しゃべらないで! 今、助けるから!」
「……あなたは」
少女は小さく笑った。
「……世界樹を、守るんでしょう?」
少年の目から涙が落ちた。
「そんなこと、今はどうでもいい!」
「……だめだよ」
少女は、ゆっくりと手を伸ばした。
「……あなたは、あなたの……やりたいことを……」
その手が、少年の頬に触れた。
「……忘れないで」
そして。
少女の手が、静かに落ちた。
「…………」
少年は動かなかった。
世界樹の光が、さらに弱くなる。
遠くで、街が崩れる音がした。
けれど、少年には何も聞こえていなかった。
ただ、目の前の少女を見つめていた。
「……なんで」
少年の声が漏れた。
「……なんで、守れなかったんだ」
◇
景色が再び変わった。
少年は、世界樹の根元に立っていた。
その身体は、以前よりも大きくなっている。
表情からは、幼さが消えていた。
彼の周囲には、無数の記録装置が浮かんでいた。
『ワタシハ、原因ヲ分析シタ』
『力ノ奪イ合イ』
『循環ノ乱レ』
『予測不能ナ選択』
『不完全ナ判断』
『ソシテ、喪失』
少年は、世界樹を見上げた。
「……もう、二度と失わない」
彼の手の中には、少女が最後に握っていた小さな木の枝があった。
「力を一つに集めればいい」
「誰も勝手に使えないようにすればいい」
「誰も奪えないようにすればいい」
「そうすれば……」
彼は木の枝を握りしめた。
「……もう、誰も失わずに済む」
ソアは、胸が締めつけられるような感覚を覚えた。
「……そうだったんだ」
管理者の声が響く。
『ワタシハ、世界ヲ救オウトシタ』
『同ジ悲劇ヲ繰リ返サナイタメニ』
『スベテノ力ヲ管理シヨウトシタ』
『スベテノ選択ヲ制限シヨウトシタ』
『ソレガ、最モ確実ナ方法ダト判断シタ』
ヴァルトが、静かに口を開いた。
「……お前は、あの子を失った日から、世界のすべてを止めようとしていたんだな」
『肯定』
「失わないために、何も変わらない世界を作ろうとした」
『肯定』
ヴァルトは目を閉じた。
「……俺と同じだ」
◇
ソアは、少年だった管理者を見つめた。
彼の願いは、最初から間違っていたわけではない。
大切な人を守りたかった。
悲劇を繰り返したくなかった。
それは、ソアにも分かる。
前世で、少女だった美咲もまた、目の前の子どもを守ろうとして命を落とした。
誰かを守りたいという気持ちは、ときに人を動かす。
けれど。
「……ねえ」
ソアは管理者に向き直った。
「あなたは、あの子が最後に言ったことを覚えてる?」
管理者は沈黙した。
ソアは、先ほどの少女の言葉を思い出す。
――あなたは、あなたのやりたいことを忘れないで。
「世界樹を守ることだけが、あなたのやりたいことだったの?」
『……』
「誰かと笑ったり、一緒にごはんを食べたり。失敗して、またやり直したり」
ソアは、自分の手を見つめた。
「そういうことは、もういらないの?」
管理者の仮面が、わずかに揺れた。
『……ソレハ』
言葉が途切れた。
『……不確定ナ要素ダ』
「うん」
ソアは頷いた。
「でも、あなたはその不確定な時間の中で、あの子と一緒にいたんでしょう?」
管理者は答えなかった。
「……その時間まで、なかったことにしなくてもいいんじゃないかな」
シードが、ソアの隣に立った。
「……きおくは」
小さな葉が、淡く光る。
「……なくならない」
シードは、管理者を見上げた。
「……かなしい、きおくも」
一度、言葉を切る。
「……うれしい、きおくも」
そして、ゆっくりと続けた。
「……つぎに、わたせる」
管理者の胸部にある七つの光が、かすかに揺らいだ。
◇
『記憶ハ、保存サレテイル』
管理者の声が響く。
『少女ノ言葉モ、記録サレテイル』
「じゃあ、どうして……」
ソアは言葉を探した。
「どうして、その子の願いだけじゃなくて、悲しみまで全部閉じ込めちゃったの?」
『……』
「失ったことは、なかったことにできないよ」
ソアはまっすぐに管理者を見た。
「でも、失ったからって、これからの全部を決めなくてもいいんだよ」
『……世界ハ、再ビ悲劇ヲ繰リ返ス』
「うん。そうかもしれない」
ソアは否定しなかった。
「私たちだって、間違えると思う。誰かを助けられないこともあると思う」
剣を握る手に、力がこもる。
「それでも、自分で決めたいんだ」
レイナが頷いた。
「失敗を恐れて何も選ばなければ、守ることもできない」
ミレイユは、静かに目を伏せた。
「私も、失うのが怖くて、みんなを縛ろうとしたことがあるわ」
紫色の鎖が、柔らかく光る。
「でも、あのままなら……私は、みんなと一緒に歩くことさえできなかった」
ヴァルトも拳を握った。
「俺は、力を集めれば失わずに済むと思った。だが、力を集めるほど、守りたい相手から遠ざかっていった」
彼は管理者を見つめた。
「……お前も、同じところにいる」
管理者は、動かなかった。
ただ、胸部の七つの光が、不規則に明滅していた。
『……ワタシハ』
初めて、その声に迷いが混じった。
『……間違ッテイタノカ』
ソアは、すぐには答えなかった。
そして、ゆっくりと首を振った。
「守りたかったことは、間違いじゃないと思う」
一歩、前へ出る。
「でも、そのためにみんなの未来まで奪うのは、違うよ」
◇
その言葉が届いたのか。
管理者の胸部に、細い亀裂が走った。
ピシッ。
黒い結晶が、一片、床へ落ちる。
しかし、次の瞬間。
『……否定』
管理者の身体が震えた。
『否定……否定……』
『ワタシハ、間違ッテイナイ』
空間の景色が崩れ始めた。
森が消える。
小川が消える。
少年と少女の姿も、光の粒となって消えていく。
「……っ!」
ソアが手を伸ばした。
けれど、二人に触れることはできなかった。
管理者の身体から、黒い魔力が噴き出す。
『喪失ヲ、許容デキナイ』
『不確定性ヲ、許容デキナイ』
『世界ヲ、再構築スル』
「……何をするつもり!?」
『最終管理プロトコル』
『全器統合――強制実行』
七つの光が、管理者の胸部へ吸い込まれ始めた。
シードが息を呑む。
「……だめ」
小さな葉が、激しく輝いた。
「……ぜんぶ、ひとつに、しないで」
ソアはシードの手を握った。
「うん。絶対にさせない」
翼を広げる。
レイナが盾を構え、ミレイユの鎖が伸びる。
ヴァルトの籠手が、重い音を立てた。
管理者の仮面は、再び黒い光に覆われていた。
『ワタシハ、二度ト失ワナイ』
その声は、かつて少女を失った少年の声だった。
『タトエ、世界ノスベテヲ犠牲ニシテモ』
ソアは剣を構えた。
「……だったら」
目の前の敵を見据える。
「今度は私たちが、あなたを止める」
七つの光が、激しく燃え上がった。
世界樹の循環を懸けた、最後の戦いが始まろうとしていた。




