第123話 力を封じた理由
金色の結晶を通り過ぎて、ソアたちは回廊の奥へと進んでいた。
壁に埋め込まれた記憶の結晶は、先ほどよりも数が増えている。
その一つ一つに、遠い昔の光景が眠っていた。
「……ねえ」
ソアが、隣を歩く黒衣の男に声をかけた。
「さっき、七つの器が目覚め始めたから封印を解いたって言ってたよね?」
「ああ」
「でも、封印したときは、集めちゃいけないって思ってたんでしょ?」
「……そうだ」
「だったら、どうして考えが変わっちゃったの?」
男は黙った。
責めるような口調ではなかった。
ソアは本当に、不思議に思っているだけだった。
だからこそ、男は簡単に答えられなかった。
「……失いたくなかったんだ」
やがて、彼は言った。
「何を?」
「すべてを」
その言葉は、回廊の中に静かに響いた。
「俺は、一度大切なものを失った。それからずっと、同じことが二度と起こらないようにと考えていた」
男は右腕の籠手を見つめた。
「巨神の籠手には、力を蓄える性質がある。鍛えれば鍛えるほど、集めれば集めるほど、強くなれる。最初は、その力で誰かを守れると思っていた」
「……うん」
「だが、守れなかった」
男の声が低くなる。
「どれほど力を集めても、失ったものは戻らなかった。それでも俺は、まだ力が足りないのだと思い込んだ」
レイナが、静かに目を伏せた。
彼女にも、守ることの難しさは分かる。
けれど、力を求め続けることと、守るために強くなることは同じではない。
「だから、籠手を封印したのね」
ミレイユが言った。
「……ああ。自分がこれ以上、力を求め続けないようにするためでもあった」
「自分自身を止めるために?」
「そうだ」
男は苦笑した。
「俺は、自分の意思だけでは止まれなくなっていたのかもしれない」
ソアは少し考えた。
それから、自分の胸当てをぽんと叩いた。
「……私も、鎧を脱げって言われても脱がないけどね」
「今の話と何の関係があるのよ!」
ミレイユが即座に突っ込んだ。
「えっ、だって好きなものって、なかなか手放せないでしょ?」
「好きなものと、世界中の力を集めることを一緒にしないで!」
「そっか。鎧は世界中にはないもんね」
「そういう問題でもないわ!」
レイナが額を押さえた。
シードは、ソアの胸当てを見上げていた。
「……ソア、よろい、すき」
「うん! 大好き!」
「……でも、みんなも、すき?」
「もちろん!」
ソアは即答した。
「鎧も好きだし、みんなも好き。どっちか一つじゃなくていいんだよ」
シードは少し考えた。
「……そっか」
小さな葉が、淡く光った。
男は、そのやり取りを黙って見つめていた。
自分が失ったものを取り戻すためには、すべてを一つに集めなければならない。
長い間、そう信じていた。
けれど、目の前の少女は、好きなものを大切にしながら、仲間も同じように大切にしている。
何かを選ぶために、別の何かを支配する必要はない。
その当たり前のことが、今の男にはひどく遠く感じられた。
*
しばらく進んだところで、ソアがふと足を止めた。
「……そういえばさ」
「何だ?」
男が振り返る。
「私、あなたの名前を知らないんだよね」
男は、わずかに目を見開いた。
「……名前?」
「うん。ずっと聞く機会がなかったから」
ソアは首を傾げた。
「これから一緒に行動するなら、名前で呼べた方がいいかなって」
レイナが少し驚いた顔をした。
「ソア、あなた……本当に、この人と一緒に行動するつもりなの?」
「うん。でも、全部を許したわけじゃないよ?」
ソアは男を見た。
「籠手を奪われたことも、私たちを利用しようとしたことも、ちゃんと覚えてる」
「……ああ」
「でも、今は管理者を止めるために協力してくれてる。それなら、いつまでも名前を知らないままっていうのも変かなって」
男は、すぐには答えなかった。
自分の名前を口にすることなど、いつ以来だろう。
かつては、その名で呼ばれていた。
誰かを守ろうとしたときも。
力を求め始めたときも。
そして、大切なものを失ったときも。
けれど、いつからか名前で呼ばれることはなくなった。
人々は彼を恐れ、やがて黒衣の男と呼ぶようになった。
本人も、その呼び名を否定しなくなった。
過去の自分と向き合うことを避けるように。
「……ヴァルト」
男は、静かに口を開いた。
「ヴァルト・レグナス。それが俺の名前だ」
「ヴァルト・レグナス……」
ソアは、その名前を確かめるように繰り返した。
「そっか。じゃあ、ヴァルトだね!」
「……それだけか?」
「え?」
「俺が何者だったのか、聞かないのか」
ソアは少し考えた。
「うーん……。それは、これから知っていけばいいんじゃない?」
ヴァルトは言葉を失った。
「……俺は、お前たちに危害を加えた」
「うん。籠手も奪われたしね」
「俺は、七つの器を集めるために、お前たちを利用しようとした」
「うん。それも知ってる」
「それでも……名前で呼ぶのか?」
ソアは不思議そうな顔をした。
「名前を呼ぶのと、悪いことを許すのは別でしょ?」
ヴァルトの目が、わずかに揺れた。
「……別、か」
「うん。やったことがなくなるわけじゃない。でも、これからどうするかは、自分で決められるでしょ?」
ソアは笑った。
「だから、ヴァルト。これからはその名前で呼ぶね!」
ヴァルトは、すぐには答えられなかった。
ただ、長い間閉ざしていた何かが、ほんの少しだけ動いた気がした。
「……好きにしろ」
「うん!」
「……本当に、変わった奴だな」
「よく言われる!」
「褒めてはいない」
「えっ、そうなの?」
レイナがため息をついた。
「ソア、話が進まないわよ」
「ごめんごめん!」
ミレイユは小さく笑った。
「でも、名前が分かったのはよかったわね」
ヴァルトは何も言わなかった。
名前を明かしたからといって、過去が消えるわけではない。
自分が犯した過ちも、失ったものも、何一つ変わらない。
それでも。
過去の呼び名に隠れ続けるのではなく、自分の名前でこれからを選ぶ。
それが、彼にとって小さな一歩になるのかもしれなかった。
*
「……あれ?」
先頭を歩いていたソアが、再び足を止めた。
正面に、四角い記録板が浮かび上がっていた。
周囲の壁には、細かな文字がびっしりと刻まれている。
「また記録?」
「そうみたいね」
ミレイユが近づき、文字を読み取るために魔力を流した。
すると、記録板の表面に七つの紋様が浮かび上がった。
その下に、文章が表示される。
『七つの器の再覚醒を確認』
『世界樹循環率――低下』
『管理者による補正が必要』
レイナが眉をひそめた。
「世界樹の循環率が低下している……?」
「この遺跡で起きている異常とも関係がありそうね」
ミレイユが続きを読み上げる。
『七つの器を一つの経路へ統合することで、循環を安定させる』
『統合完了後、すべての損失を防ぐことが可能となる』
ソアの表情が曇った。
「……すべての損失を、防ぐ?」
その言葉を聞いた瞬間、ヴァルトが記録板へ近づいた。
「これだ……」
彼の声が震えていた。
「俺が見た記録と同じだ」
「でも、さっきの記録には、一つの手に集めるなって書いてあったよね?」
ソアが尋ねる。
「……ああ」
ヴァルトは記録板を見つめた。
「封印を解いた後、俺は別の遺跡でこの記録を見つけた。そこには、七つの器を統合すれば、世界樹の循環が安定すると書かれていた」
「その記録を信じたの?」
「そうだ。俺は、これこそが失ったものを繰り返さないための答えなのだと思った」
ミレイユが記録板を注意深く調べる。
「待って。この文字……少しおかしいわ」
「何が?」
「文章の一部だけ、刻まれた時期が違う」
彼女は指先から細い魔力を伸ばした。
文字の表面をなぞると、記録板の奥から黒い線が浮かび上がった。
「ここだけ、別の魔力で上書きされている」
レイナが剣の柄に手を置いた。
「後から書き換えられたということ?」
「ええ。しかも、かなり古い時代にね」
ソアは記録板を覗き込んだ。
「じゃあ、誰かが嘘を書いたってこと?」
「断定はできないわ。でも、少なくとも最初からあった記録ではない」
ミレイユがさらに魔力を流す。
黒い線が一つずつ剥がれ、下に隠されていた文字が現れ始めた。
そこに記されていたのは、まったく違う文章だった。
『七つの器の再覚醒を確認』
『世界樹循環率――低下』
『各器の自律的な循環を優先する』
その下には、こう続いていた。
『器を一つの経路へ強制統合した場合、循環は一時的に安定する』
『しかし、力の偏在が進み、世界樹の枝は枯れ始める』
静寂が落ちた。
「……強制統合は、解決策じゃなかったんだ」
レイナが呟いた。
「一時的に安定したように見せて、その先で循環を壊してしまうのね」
「そういうことね」
ミレイユは険しい顔で頷いた。
「しかも、書き換えられた文章は、その危険性を完全に隠している」
ヴァルトは、動かなかった。
目の前の記録を見つめたまま、唇を噛みしめている。
「……俺は」
声が掠れた。
「俺は、これを信じていた」
ソアはヴァルトを見た。
「……うん」
「俺が見た記録は、間違っていたんだ」
「うん。でも……」
ソアは、少しだけ言葉を選んだ。
「記録を信じたことと、その力で何をしたかは、別の話だと思う」
ヴァルトが顔を上げる。
「……ああ」
「だから、これからどうするかは、ちゃんと自分で決めよう」
ソアは笑った。
「私たちも一緒に考えるから」
ヴァルトは、すぐには答えなかった。
ただ、右腕の籠手を握りしめていた手を、ゆっくりと開いた。
*
そのときだった。
記録板の奥から、低い音が響いた。
ゴゴゴゴゴ……。
「な、何!?」
ソアが飛び退く。
記録板の表面に、先ほどとは異なる文字が浮かび上がった。
『不正な記録改変を検出』
『管理者権限による修復を開始』
「……修復?」
ミレイユが目を細めた。
「まさか、今の記録を元に戻すつもり?」
黒い光が記録板を覆い始める。
剥がれかけていた黒い線が、再び文字の上へ伸びていく。
「そんなこと、させない!」
ソアは反射的に手を伸ばした。
しかし、指先が触れる直前、見えない壁に弾かれた。
「わっ!」
ガシャン!
鎧が大きく揺れる。
「ソア、無茶をしないで!」
「だって、せっかく本当の記録が出てきたのに!」
レイナが《絶対鏡盾》を構え、黒い光の流れを受け止めた。
ミレイユは《願結び》を発動させ、記録板の周囲に細い紫色の鎖を巡らせる。
「長くは持たないわ! シード、何かできる?」
シードは結晶に向かって両手を伸ばした。
「……きおく、のこす」
頭の葉が、緑色に輝く。
記録板から剥がれかけていた文字が、淡い光となってシードの手元へ集まり始めた。
『記録の複製を検出』
『第七の器への接続を開始』
黒い光が、一気にシードへ伸びた。
「シード!」
ソアが駆け寄ろうとする。
だが、シードは逃げなかった。
小さな手を広げ、集まった光を胸元へ抱きしめる。
「……うけとる」
その葉が、さらに強く輝いた。
「……でも、ぜんぶは、あげない」
緑色の光が弾けた。
黒い接続経路が、途中で断ち切られる。
記録板は大きく震えた後、静かになった。
黒い文字は残ったままだった。
けれど、その下にあった本来の記録もまた、シードの中に保存されていた。
「……できた?」
ソアが恐る恐る尋ねる。
シードは頷いた。
「……うん。ほんとうの、きおく。のこった」
「よかったぁ……!」
ソアはその場にしゃがみ込み、シードを抱きしめた。
ガシャッ。
「……ちょっと、くるしい」
「ごめん!」
ソアは慌てて腕を緩めた。
ミレイユが小さく笑う。
「まったく。記録を守るのも一苦労ね」
「でも、これで管理者が何を隠していたのか、少し分かったわ」
レイナが記録板を見つめた。
「あなたが信じていた記録は、意図的に書き換えられていた。そして、その改変を今も維持しようとしている」
「……ああ」
ヴァルトは静かに答えた。
「俺は、あいつの望む方向へ導かれていたのかもしれない」
回廊の奥で、何かが低く唸った。
遠くから伝わってくる魔力の振動。
竜皇砲のある方向だった。
《巡りの雫》が、強く輝く。
ソアは立ち上がった。
「……急ごう」
もう、迷っている時間はなかった。
管理者は記録を書き換えるだけではない。
今もなお、世界樹の力そのものを一つに集めようとしている。
そして、その中心にあるのが――
暴走を続ける《竜皇砲》だった。
ソアは剣を握り直した。
「今度は、ちゃんと力を返してもらおう」
その言葉に、レイナとミレイユが頷いた。
シードも、小さな手でソアの指を握る。
「……みんなで、かえる」
「うん!」
ソアたちは、回廊のさらに奥へと進んでいった。
背後の記録板には、誰にも読まれないはずだった一文が残っていた。
『力は、集められるほど安定するのではない』
『流れ続けるからこそ、世界は生きている』
その文字を、黒い光が覆い隠そうとしていた。
けれど、もう遅い。
本当の記憶は、次の命へと渡されたのだから。




