第112話 願いを結ぶ鎖
「……助けて……」
ミレイユの声が、暗闇の中に響いた。
ほんの小さな声だった。
いつもの自信に満ちた声でもない。
百呪の魔女として、数え切れないほどの呪いを操ってきた魔女の声でもない。
ただ、どうすればいいのか分からなくなってしまった、一人の女性の声だった。
「……もう、どうしたらいいのか……分からないの……」
黒紫色の鎖が、彼女の身体を覆っている。
腕に。
脚に。
胸元に。
そして、心にまで。
ミレイユは、自分の身体を抱きしめた。
「私が、もっと強ければ……」
呟く。
「私が、もっと早く気づいていれば……」
鎖が、かすかに震えた。
「リナを……救えたのに……」
その名前を口にした瞬間。
暗闇が、揺らいだ。
*
燃え盛る街。
崩れ落ちる建物。
逃げ惑う人々。
幼い少女が、瓦礫の向こうで手を伸ばしていた。
『ミレイユお姉ちゃん!』
少女の声が響く。
ミレイユは走った。
手を伸ばした。
あと少し。
あと、ほんの少しで届く。
けれど、崩れ落ちた瓦礫が、二人の間を隔てた。
『待って!』
ミレイユは必死に魔法を放った。
何度も。
何度も。
それでも、瓦礫は動かなかった。
『リナ!』
少女の姿が、煙の向こうに消えていく。
そして――。
静寂。
伸ばした手だけが、空を掴んでいた。
*
「……っ!」
ミレイユは、はっと顔を上げた。
目の前には、再び黒紫色の鎖が広がっている。
もう、何度見たか分からない光景。
忘れようとしても、忘れられない記憶。
「……私は」
震える手を見つめる。
「……私は、あのとき……」
強くなりたかった。
誰にも負けない力が欲しかった。
もう二度と、目の前で誰かを失わないために。
その願いを胸に、魔法を磨き続けてきた。
けれど。
どれだけ強くなっても、過去は変えられなかった。
だからこそ、怖かった。
ソアが危険な魔物へ向かうたび。
レイナが傷つきながらも盾を構えるたび。
シードが小さな身体で仲間を守ろうとするたび。
ミレイユは、あの日の光景を思い出していた。
また、間に合わなかったら。
また、大切な人を失ったら。
今度こそ、自分は耐えられないかもしれない。
「……だから、縛ったのね」
ミレイユは、自分の周囲を見渡した。
街の人々。
ソア。
レイナ。
シード。
誰もが鎖につながれている。
動けない。
進めない。
自分の手の届かない場所へ行くこともできない。
「……これなら、失わずに済むと思った」
声が震える。
「私の手の中にいれば……誰も、いなくならないと思ったの……」
そのとき。
「……ミレイユさん」
暗闇の向こうから、声が聞こえた。
ソアだった。
「……でも、それじゃあ」
少し息を切らしながら、ソアは続けた。
「みんなと一緒にいることには、ならないよ」
ミレイユは目を見開いた。
「……っ」
「だって、みんな動けないんだもん」
ソアの声は、優しかった。
「一緒に歩けないし、一緒に笑えないし……一緒に冒険することもできない」
少しだけ間を置く。
「それって、ミレイユさんが本当に望んでいたことなの?」
「……私は……」
ミレイユは答えようとした。
けれど、言葉が出てこなかった。
望んでいたこと。
本当に、望んでいたこと。
それは、誰も失わないことだった。
けれど。
それだけだっただろうか。
*
ふと、別の記憶がよみがえった。
冒険者になったばかりの頃。
仲間たちと焚き火を囲んだ夜。
失敗した依頼を笑い合った日。
魔法の実験に失敗して、全員が泥だらけになったこと。
そして、リナが笑っていた顔。
『ミレイユお姉ちゃん、また魔法を見せて!』
小さな少女が、目を輝かせていた。
『今度は、どんな魔法?』
『そうね……』
若いミレイユは、少し考えてから笑った。
『今度は、花を咲かせる魔法にしましょうか』
『本当!?』
『ええ。楽しみにしていて』
あの日。
リナが望んでいたのは、決して特別なことではなかった。
ただ、次の日も一緒に過ごすこと。
新しい魔法を見ること。
笑って、話して、また明日を迎えること。
ミレイユは、ゆっくりと目を閉じた。
「……そう、だったわね」
涙が頬を伝う。
「私は……リナと、一緒にいたかったのね」
誰も失いたくない。
それは、嘘ではない。
けれど、その奥には。
もう一度、一緒に笑いたい。
また会いたい。
明日も、明後日も、同じ時間を過ごしたい。
そんな、当たり前の願いがあった。
それなのに。
「……私、間違えてしまったのね」
ミレイユは、鎖を見つめた。
「守りたいと思うあまり……みんなの未来まで、奪おうとしていた」
鎖が、激しく揺れた。
まるで、その言葉を否定するかのように。
黒紫色の魔力が、ミレイユの身体を締めつける。
「……っ!」
痛みが走る。
けれど、ミレイユは目を逸らさなかった。
「……もう、いいわ」
ゆっくりと、鎖へ手を伸ばす。
「私は……もう、あなたに縛られない」
鎖が、彼女の腕に絡みついた。
その瞬間、ミレイユの脳裏に、再びあの日の光景がよみがえる。
リナの手。
崩れ落ちる瓦礫。
届かなかった指先。
足が震えた。
怖かった。
今でも、怖い。
大切な人を失うことが。
伸ばした手が届かないことが。
それでも。
「……それでも、私は」
ミレイユは、鎖を握りしめた。
「もう一度、手を伸ばすわ」
黒紫色の鎖が、軋んだ。
「たとえ、届かないことがあっても……」
涙を拭う。
「それでも、私は……大切な人たちと、一緒に歩きたい」
その言葉と同時に。
鎖の中心に、淡い紫色の光が灯った。
*
「……ミレイユさん?」
ソアは、目を見開いた。
黒紫色に染まっていた鎖が、少しずつ色を変えている。
暗い紫色。
そして、淡い紫色へ。
鎖の表面を走っていた黒い紋様が、ひとつ、またひとつと消えていった。
けれど、鎖そのものは消えていない。
むしろ、以前よりも滑らかに、柔らかく輝いていた。
「……これは」
レイナが、息を呑む。
「呪いが……変化している?」
シードが、顔を上げた。
「……ながれが、かわった」
小さな根が、鎖へ触れる。
今度は、黒く染まらなかった。
淡い緑色の光が、鎖の中を流れていく。
「……かえって、くる」
シードが呟いた。
「……ながれが、もどってくる……!」
街へ伸びていた鎖が、一斉に輝いた。
人々を縛っていた鎖が、ゆっくりとほどけていく。
建物を覆っていた鎖も、一本ずつ光の粒となって消えていった。
止まっていた魔法灯が、再び灯る。
街を流れる魔力が、本来の道へ戻り始めた。
「……やった……?」
ソアが呟く。
しかし、その直後。
ミレイユの身体が、大きく揺れた。
「……っ!」
鎖が、まだ彼女の胸元に残っていた。
すべての力が消えたわけではない。
長い間、呪いに侵食されていた魔力経路は、まだ不安定なままだった。
「ミレイユさん!」
ソアが駆け寄ろうとする。
けれど、足元がふらついた。
「……あれ?」
力が入らない。
《全解除》の効果が、限界に近づいていた。
身体の奥から、急激に力が抜けていく。
「ソア!」
レイナが駆け寄り、彼女の身体を支えた。
「もう無理をしないで!」
「……でも、ミレイユさんが……」
「今度は、私たちが支える番よ!」
レイナは、力強く言った。
そして、ミレイユへと視線を向ける。
「ミレイユ! もう一人で抱え込まないで!」
「……レイナ……」
「あなたは私たちの仲間でしょう!」
レイナは《絶対鏡盾》を掲げた。
「なら、頼りなさい! 守られるだけじゃなく、私たちに守らせなさい!」
シードも、ミレイユの足元へ歩み寄った。
「……ミレイユ」
小さな手を差し出す。
「……いっしょに、かえる」
ミレイユの瞳が揺れた。
差し出された手。
真っ直ぐな言葉。
自分を責めるでもなく、過去を否定するでもなく。
ただ、一緒に帰ろうと言ってくれる仲間たち。
「……あなたたち……」
ミレイユは、震える手を伸ばした。
けれど、その指先が届く前に。
胸元の鎖が、最後の力を振り絞るように脈動した。
ドクンッ!!
「……っ!?」
黒紫色の光が、ミレイユの胸元から噴き出した。
「ミレイユ!」
ソアが叫ぶ。
鎖が暴走しようとしている。
まだ、完全には終わっていない。
ミレイユは、胸元を押さえた。
「……大丈夫」
震える声で、呟く。
「……もう、大丈夫よ」
そして。
鎖へ向かって、静かに語りかけた。
「あなたは、私の願いだった」
鎖が揺れる。
「誰も失いたくない。誰も傷つけたくない」
ミレイユは目を閉じた。
「でも……願いは、命令じゃないわ」
胸元の鎖が、淡く輝き始める。
「大切な人たちを、私の思い通りに動かすためのものでもない」
ミレイユは、ゆっくりと手を開いた。
「私は、あなたを手放すわけじゃない」
その声には、もう迷いがなかった。
「ただ……あなたの使い方を、変えるの」
次の瞬間。
カァァァッ!!
紫色の光が、図書館を満たした。
鎖の黒い紋様が、完全に消えていく。
そして、ミレイユの胸元に、新しい紋様が浮かび上がった。
【固有装備:《深淵の呪鎖》――変質】
【呪いの同調:解除】
【新規能力:《願結び》――発現】
「……願結び……?」
ミレイユは、その名を口にした。
鎖は、もう誰かを無理やり拘束するためのものではなかった。
互いの魔力をつなぎ。
互いの力を支え。
暴走する力を、仲間と一緒に受け止めるためのもの。
つながれる側にも、意思がある。
拒むこともできる。
それでも、互いに手を伸ばすことを選んだとき。
鎖は、初めて本当の意味で力を発揮する。
ミレイユは、ゆっくりと顔を上げた。
目の前には、ソアがいた。
レイナがいた。
シードがいた。
みんな、疲れ切っている。
傷も負っている。
それでも、誰一人として、ミレイユから目を逸らしていなかった。
「……ごめんなさい」
ミレイユの目から、涙がこぼれた。
「私……あなたたちを、縛ろうとしてしまった」
ソアは、首を横に振った。
「……ううん」
少しだけ笑う。
「帰ってきてくれて、よかった」
「……ソア……」
「でも!」
ソアは、突然真剣な顔になった。
「街のみんなを勝手に縛ったことは、ちゃんと反省してね!」
「……っ」
ミレイユが固まった。
レイナが深く頷く。
「それは本当にそうね」
「シードも、そう思う?」
「……うん」
「……三対一!?」
ミレイユが思わず叫んだ。
その声を聞いて。
ソアが笑った。
レイナも笑った。
シードも、嬉しそうに頷いた。
ミレイユは、しばらく三人を見つめていた。
そして。
「……ふふっ」
小さく笑った。
久しぶりに。
心から。
「……本当に、あなたたちは……」
涙を拭い、顔を上げる。
「……ありがとう」
*
数分後。
街を覆っていた鎖は、すべて消えていた。
魔法灯は元通りに輝き、人々も少しずつ動き始めている。
幸い、鎖によって大きな怪我を負った者はいなかった。
ただし、街の魔力は一時的に乱れている。
復旧には時間がかかるだろう。
ミレイユは、街の人々に謝罪し、魔力の復旧に協力することを約束した。
そして、古代図書館の入口。
ソアは、床に座り込んでいた。
「…………」
レイナが、心配そうに顔を覗き込む。
「ソア? 大丈夫?」
「……うん」
「本当に?」
「……うん」
「何か隠していない?」
ソアは、ゆっくりと顔を上げた。
「……鎧」
「……え?」
「鎧が……」
ソアの視線の先には、宙に浮かぶ《世界巡鎧》があった。
全解除の影響で各部が外れているものの、装備そのものに大きな損傷はない。
ソアは、ほっと胸を撫で下ろした。
「……よかったぁぁぁ……!」
その場に崩れ落ちる。
「壊れてなかったぁぁぁ……!」
「そこなの!?」
レイナが叫んだ。
「いや、大事だよ!?」
「分かっているけれど! あなた、さっきまで倒れそうだったでしょう!?」
「だって! 世界巡鎧だよ! せっかくの新しい鎧なんだよ!?」
「はいはい、分かったわよ……!」
レイナは呆れながらも、笑っていた。
ミレイユは、そんなソアを見つめていた。
「……ソア」
「ん?」
「……あなた、本当に鎧が好きなのね」
「もちろん!」
ソアは即答した。
「大好き!」
その答えに、ミレイユは小さく笑った。
「……そう」
そして、そっと胸元に手を添える。
そこには、新しい力が宿っていた。
誰かを縛るための鎖ではない。
誰かを失わないために、自由を奪う鎖でもない。
互いの意思を尊重しながら、支え合うための力。
ミレイユは、ソアたちを見つめた。
「……ねえ、みんな」
「なに?」
ソアが顔を上げる。
「これからも……一緒に、冒険してくれる?」
一瞬、静寂が訪れた。
そして。
「もちろん!」
ソアは、満面の笑みで答えた。
「また一緒に冒険しよう!」
レイナも頷いた。
「ええ。ただし、今度は街全体を拘束するのは禁止よ」
「……分かっているわよ!」
ミレイユが頬を膨らませる。
シードが、小さく手を伸ばした。
「……みんなで、かえる」
ソアは、その手を取った。
レイナも。
ミレイユも。
四人の手が、ひとつにつながる。
その瞬間。
ミレイユの胸元で、淡い紫色の光が輝いた。
鎖は、誰の手も縛らなかった。
ただ、四人の間を静かに巡り、すぐに消えていった。
――願いは、命令ではない。
――大切な人を、自分の手の中に閉じ込める必要はない。
――一緒にいたいと願うなら、自分から手を伸ばせばいい。
ミレイユは、もう一度だけ空を見上げた。
遠い記憶の中で、リナが笑っている気がした。
「……リナ」
小さく呟く。
「……私、もう一度、歩いてみるわ」
返事はなかった。
それでも。
ミレイユは、ゆっくりと前を向いた。
失ったものは、戻らない。
けれど、失ったからといって、これからのすべてが失われるわけではない。
大切な人と過ごした時間は、消えない。
その記憶を抱えたまま、また誰かと歩いていける。
そして、彼女の新しい力は。
その一歩を、確かに支えていた。
「……さて!」
ソアは、ぱんっと両手を叩いた。
「これで一件落着だね!」
「……そうね」
ミレイユは、涙を拭いながら微笑んだ。
「みんなには、本当に迷惑をかけたわ。これからは、ちゃんと相談するようにする」
「うん! それがいいと思う!」
ソアは満面の笑みで頷いた。
「私たち、仲間なんだからね!」
「……ありがとう、ソア」
ミレイユが優しく笑う。
レイナも、シードも、穏やかな表情を浮かべていた。
長い戦いが終わった。
失ったものは戻らない。
それでも、これから一緒に歩いていくことはできる。
四人の間には、確かな絆が生まれていた。
――そのはずだった。
「…………」
ふと、ソアの笑顔が止まった。
「……あれ?」
「どうしたの?」
レイナが尋ねる。
ソアは自分の身体を見下ろした。
鎧がない。
服もない。
そして、ようやく思い出した。
《全解除》。
あの力を使ったとき、自分の装備だけでなく、身につけていたものがすべて解除されたのだった。
「…………」
ソアの顔が、みるみる赤くなっていく。
「…………あの」
「何?」
「私……今……」
ソアは両手で身体を隠した。
「何も着てない……?」
「…………」
一瞬、時が止まった。
「――――ソアァァァァァ!!」
レイナの絶叫が、古代図書館の入口に響き渡った。
「今まで気づいていなかったの!?」
「だ、だって! ミレイユさんが助かって、みんなで仲直りできて……!」
「感動している場合じゃないでしょう!!」
「そ、そうだったぁぁぁ!!」
ソアは慌ててしゃがみ込んだ。
その拍子に、近くに浮かんでいた《世界巡鎧》がガシャンッと音を立てる。
「ひゃあっ!?」
「鎧は後!!」
「でも、鎧が!」
「服が先!!」
「そんなぁぁぁ!!」
レイナが頭を抱える。
シードは不思議そうに首を傾げた。
「……ソア?」
「シード、今は見ないでね!」
「……?」
シードは素直にくるりと後ろを向いた。
そのやり取りを見ていたミレイユは、しばらく呆然としていたが――
「……ふふっ」
やがて、口元を押さえた。
「……あははっ!」
「ミレイユさん!? 笑ってないで助けてよぉぉぉ!」
「ご、ごめんなさい……! でも、あなた、本当に……!」
ミレイユは笑いながら魔法を使い、一枚のマントを作り出した。
そして、ソアの肩にそっと掛ける。
「はい。とりあえず、これで隠しておきなさい」
「……ありがとう、ミレイユさん!」
ソアはマントにくるまった。
ようやく一息つく。
……が。
「…………よかった」
ソアがぽつりと呟いた。
「何が?」
レイナが警戒しながら尋ねる。
ソアは、宙に浮かぶ《世界巡鎧》をうっとりと見つめていた。
「鎧が無事でよかったぁ……!」
「…………」
「ほら! 壊れてないよ! 全部そろってる!」
「…………ソア」
「修理代もかからないし!」
「あなた、今の状況を分かっているの!?」
「分かってるよ! だから、早く鎧を着たいんだもん!」
「そういう問題じゃない!!」
レイナのツッコミが炸裂した。
ミレイユは、とうとう声を上げて笑い始めた。
シードは三人を交互に見て、首を傾げている。
ソアはマントにくるまったまま、真剣な顔で言った。
「……ねえ、レイナ」
「何よ……」
「服を買いに行く前に、鎧を着てもいい?」
「だめ!! 絶対にだめ!!」
「そんなぁぁぁぁ!!」
エルディアの街に、いつものような騒がしい声が響き渡った。
こうして、深淵の呪鎖を巡る戦いは終わった。
ミレイユは過去を乗り越え、新しい力を手に入れた。
四人の絆も、以前よりずっと強くなった。
そしてソアには、もう一つだけ大切な使命が残されていた。
――服を買うこと。
もちろん、そのあとには。
《世界巡鎧》を着るという、何よりも大切な予定が待っていた。




